第37話 折り合わせたくない気持ちと関係

 近くの自動販売機でホットのレモンティ―を二本買い、涼太のところに戻り、一本を手渡し、隣に腰かける。涼太はレモンティーで指先を温めているようで、その横顔を見つめる。

「それで涼太くんはどうしたの?」

 私の言葉に涼太は手の中でレモンティーをころがしていたのを止める。何か言葉を発しようとしているのに言葉にならないようで、涼太の葛藤かっとうや不安が見て取れる。それだけのことで、何があったかだいたい予想がついてしまう。だから、

「もしかして……梨奈となにかあった?」

 と、おそらく核心かくしんであろうことを涼太に尋ねていた。涼太は梨奈の名前を聞いた瞬間に肩をびくっと動かす。涼太はますます黙り込んでしまい、その沈黙が私の言葉が間違っていないと証明しているようだった。

「やっぱりそうなんだね」

 私が一人頷きながら、レモンティーに口を付ける。

「なんで梨奈のことだって思ったのさ?」

「だってさ、今みたいに涼太くんの表情を本気で曇らせることができるのは、この世界で梨奈だけだと思うからさ」

 涼太はまた言葉が出てこないようだった。私はできるだけ優しい声音を意識しながら、

「私でよかったら話聞くよ? それくらいしかできないかもだけど、話すと楽になることだってあると思うんだ」

 と、涼太の顔を見つめながら言う。

「大丈夫、私は涼太くんの味方だから。焦らないでいいからよかったら、話聞かせてくれない?」

 私の言葉に涼太の目からすっと涙が流れる。長い付き合いなのに涼太の涙を初めて見た気がした。動揺を悟られないように私は静かに涼太の言葉を待つ。そして、風に消えそうなほどの小声で、

「梨奈に……梨奈にフラれたんだ」

 と、涼太が口にする。最初、何を言っているのか理解できなかった。

 二人の間に何があったか知らないが、涼太が全く予期できずこうも落ち込むほど唐突な別れがあったのだとしたら、それなりに理由があるはずだ。

「どうしてフラれたの?」

「本質的には分からない。だけど、気付かないうちにどうしようもなくすれ違ってしまったんだと思う」

「どういうこと?」

 涼太は昨日の夜、私の家からの帰っている最中に、この神社の今まさにいるこの場所に呼び出されたそうだ。そして、そこで梨奈に言われたことを話してくれた。梨奈は私と涼太との関係を疑い、疑心暗鬼になった果てに最悪の結論を導き出したということらしかった。

 その翌日、つまりは今日、涼太は梨奈の家に話をしに行ったが玄関先で梨奈の母親に「梨奈が今は会いたくないって言っているのよ、ごめんなさいね」と言われ、仕方なく梨奈の家をあとにし、自分の家に帰るわけでもなく、他に行く当ても思いつかず、なんとなくここで物思いにふけっていたそうだ。そして、私がそこに来たというわけだった。


 そんな話を聞きながら、私は涼太に対しても梨奈に対しても共感も同情もできなかった。自分の中に沸いた感情は不思議なことに怒りだった。だから、話し終わった涼太に発した最初の言葉は、

「はあ……なにそれ」

 という、ため息と呆れが混じった言葉だった。涼太にとって私のその反応が予想外だったのか息をんでこちらの様子を伺っているようだった。

 そんな涼太を横目にすっと石段から腰を上げ、上着のポケットから携帯電話を取り出す。

「ねえ、涼太くん。今から梨奈と話したいから梨奈の番号教えて」

「えっと……」

 涼太は戸惑いながらもズボンのポケットから携帯電話を取り出し、梨奈の連絡先を表示させる。それを見ながら、番号をプッシュし、一息ついてから電話を掛ける。

 呼び出しのコールを聞きながら、勢いのまま電話をかけたはいいものの、何を話そうか考えがまとまっていないことに気付いた。きっと、ただ文句を言いたかっただけ。そんな理由で梨奈と距離を取って折り合いをつけていた現状を自分から破ることになるとは思わなかった。

 しかし、梨奈は電話にはでなかった。それは仕方ないことかもしれない。知らない連絡先からいきなり電話がかかってきたら警戒するのも分かる。さらに今は梨奈も目の前の涼太と同じで、精神状態はまともではないのかもしれない。心に余裕がなければ知らない番号に出ようなんて心持ちも生まれないのも理解できることだった。

 一旦電話を切り、私は別の人物に電話を掛ける。呼び出し音が同じように聞こえてくるが、今度の相手はすぐに応答してくれた。

『はい、もしもし。陽子ちゃん?』

 電話の相手の変わることのない優しい声に安心する。梨奈の母親は出会ったころからずっと変わらない。私にとってはいつも優しくて楽しい人で、数少ない大好きな人の一人だった。だから、梨奈と涼太の二人と距離を置いた際も、事情を話して連絡は取り合い、季節の挨拶だけは欠かさなかった。

「あっ、おばさん。お久しぶりです。と言っても、新年の挨拶ぶりだから二か月も経ってないですけど」

『そうね。それで今日はどうしたの?』

「母から聞いているとは思いますが、またこっちで暮らすことになったので――」

『知ってるわ。落ち着いたらゆっくりお茶でも飲みながら話しましょうって、陽子ちゃんのお母さんと話したもの。それで……陽子ちゃん。本当の要件は何かしら?』

「梨奈のことなんですけど……」

『このタイミングでってことはやっぱりそのことよね。梨奈ね、昨日の夜、突然どこかに出かけて、帰ってきたと思ったら、それからずっと部屋にこもってふさぎ込んでいるのよね。陽子ちゃんは何があったのか知っているのかしら?』

 横目でもう一人の当事者をちらりと見る。何を話しているのか気になっているのか聞き耳を立てているようだった。

「はい。さっき涼太くんからある程度のことを聞きました」

『そう……それで何があったか聞いても大丈夫なのかしら?』

「大丈夫……だと思いますけど、それは私の口から話すべきことではないと思うので言えません。ごめんなさい」

『いいのよ。それで陽子ちゃんはおばさんに何をさせたいのかしら?』

 梨奈の母親の実は全て知っているのではないかと思ってしまうような言葉にドキリとする。梨奈の母親は昔からよく気が付く人だったことを思い出す。こういう察しの良さは今は本当に助かる。

「じゃあ、相手が私ということを伏せて、梨奈に電話を代わってもらえませんか?」

『……分かったわ。ちょっと待ってね』

 梨奈の母親が歩いている音が聞こえる。音が鈍いのはきっと携帯電話のマイク部分を手でおおっているからだろう。しばらくして今度は何やら話している声が聞こえだす。音がクリアになるのを感じ、扉が閉まる音が聞こえ、携帯電話の向こう側から深呼吸をしているかのような息を吐く音が聞こえる。

『……もしもし?』

 梨奈の声だった。久しぶりのその声に思わず嬉しくなる。しかし、涼太の顔が視界に入り、それは怒りという感情に上書きされる。これからの梨奈との会話はきっと涼太にも聞かせた方がいい気がした。私からすれば、本当にくだらないすれ違いに他ならないのだから。携帯電話を耳から離し、スピーカーに切り替え、涼太には静かにしててねという意味合いを込めて自分の口の前に人差し指を当てる。涼太がうなずいたのを確認して、私は気合いを入れ直す。

「梨奈、分かる? 久しぶり」

『よ、陽子? なんで? 今は陽子とは――』

「梨奈! あなた何してるのよ!!」

 思った以上に大きな声が出て自分でも驚いた。驚いているのは自分だけでないのは目の前の涼太からも電話の向こうで何か言いかけたまま続きを言い忘れている梨奈からも感じてとれる。今はそんなことはどうでもよかった。だから、気にせずに続ける。

「ねえ、そんなに涼太くんのこと信じられないの? 梨奈の気持ちはそんなものだったわけ?」

『……そう言うってことはさ、涼太から聞いたんだね。だったら、分かるでしょ? 陽子がそんなこと言わないでよ。私は信じたかった。ずっと信じてた。だけど、限界なの』

「何が? 結局、自分のことがかわいいだけで、涼太くんと正面から向き合おうとしなかったんでしょう?」

『ち、違う! 陽子には分からないよ。そばにいるのが当たり前だった人間が……離れている時間の方が短いようなそんな人がいなくなって、次第に離れている時間が長くなって今度はそれが当たり前になっていく怖さが……』

 梨奈の声は震えている。気持ちは分からないわけではない。私は実際当たり前にいつも一緒にいた二人から逃げるようにこの町から一度はいなくなったことがあるのだから――。

 だからこそ、そんなことを私に言い出した梨奈に怒りがこみ上げる。

「だから? そんなの言い訳にもなんにもならないよね?」

『……でも、そんな風に不安で心が曇っていくなかで、涼太から毎日のように陽子との楽しそうな話をメールや電話で聞かされたのよ? それがどんなに苦痛か分かる? それに涼太はそのことを何も特別なことだなんて思っていない。だから、悪いとも何とも思ってないから、私にそんな話をできるのよ。だけど、いつでも会える距離に陽子がいて、そして、毎日のように会っている……その事実が苦しかった……』

 涼太は目を逸らすようにうつむく。涼太は本当に私とのことを特別なこととも後ろめたいとも何とも思っていなかったのだ。ただ再会した幼馴染の友人と今日も楽しく話したということを梨奈に話していただけ。だからこそ、そこまで気にしないといけなかったのかと自分を責めているようで。

 そんな涼太の姿に私の心は痛む。届かないと諦め、しまい込んだはずの想いのはずだったなのに、苦しさとともに思い出してしまう。

『だってさ……陽子は昔から涼太のことが……ううん、きっと今も涼太のことが好き……なんでしょ?』

 私の今の心境を見透かしたかのようなタイミングで梨奈の言葉が私と涼太の耳に届く。梨奈はここに涼太がいることを知らない。ふいに私が告白してしまったかのような気まずさがこちら側に流れる。

「だったら、何? もし私が涼太くんが好きだったら、梨奈は簡単に諦めてくれるんだ」

『そんなわけ……』

「そうだよね? 梨奈がそう思ったから、今のこの状況なんでしょう? だったらさ、私が涼太くんをもらっても梨奈は文句ないわけだよね?」

『……い、いやだ』

 梨奈は小声でぼそりと呟く。聞こえた言葉を聞こえないふりをして、私はわざとあおるように「なに? 聞こえない」と、口にする。

『いや。いやだよ。絶対にいや! 私は涼太が今でも好きなの! 涼太が隣にいない人生なんて私には考えられない! だから、涼太を誰にも譲りたくない! その相手がたとえ陽子でも私はいやだ!!』

 私は期待した言葉を引き出せたことにひとまずほっとする。涼太は緊張や不安から解き放たれたかのように気が抜けているようだった。

 このまま上手く切り上げて通話を終わらせば、二人はきっと元通りの関係になってハッピーエンドなんだと思う。そして、それはいいことなんだと思う。


 だけど、私はそれを素直によかっただなんて思えない。


 そう思ってしまったら私はどうなるのだろうか? 私の叶わないと諦めつつも、ずるずるとずっと思い続けてきた涼太への気持ちはどうなってしまうのだろうか? ろうそくの火のように吹けばパッと消えてくれるようなものでもないし、忘れるにも消えていくのにも時間がかかるものなのだろう。

 私はまだ心から二人を祝福できないし、したくない。だから、最後に少しだけ自分の感情に素直になろうと決めた。

「でもさ、梨奈と涼太くんは今は恋人ってわけじゃないんだから、私が何をしようと梨奈に止める権利はないよね?」

 梨奈の「えっ?」と、驚く声が聞こえる。それは目の前の涼太からも聞こえた気がした。その両方を私は聞こえないふりをして続ける。

「だからさ、好きなだけひとりで自分勝手な選択を悔やめばいいんだ――」

 それはかつての自分にも向けた言葉で。

『待って! 陽子、ねえ――』

 梨奈の言葉を最後まで聞くことなく通話を終わらせる。すぐに折り返し掛かってくる電話を携帯電話そのものの電源を落とすことで対応した。

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