第二部 春に初恋の結末を見届けるはレモンティー

第36話 久しぶりの町に思うこと

 まだ寒さを感じつつも陽射しに暖かさを感じる冬と春の境目――。

 久しぶりに帰ってきたこの町で、また暮らすことになったこの家で朝を迎えた。

 かつては見慣れた自分の部屋の天井のはずなのに、久しぶりに見るそれは初めて見た日のようだった。


 あの頃は引っ越しがどうこうよりもただ不安しかなかった。

 人付き合いというものが私は元々苦手で、それまで通っていた小学校でも友人と言える人はいなかったかもしれないが、それでも顔見知り程度の付き合いはあった。それがいきなり転校し、周囲の環境や人が一変し。自分が知っているものが一切ないという恐怖がいつも以上に私を憂鬱ゆううつにしていた。

 引っ越しのためにこの町に着いたのが昨日の夜で、朝起きて、自分の部屋の窓から初めて明るい時間のこの町を見た。見渡す限り高い建物がなく、なによりとても静かだった。窓から吹き込む風は心地よく、胸いっぱいに吸い込んでも嫌な臭い一つしなかった。大きく伸びをして見上げた空はとても高く澄んでいて、空が広く青いものだという当たり前のことをその時初めて理解できた気がした。

 寝る前まで感じていた負の感情はどこかに飛んでいき、空模様と同じでとても晴れやかで清々しい気分になっていた。

 その日の午前中、引っ越しの荷解にほどきを手伝っていたが、まだ幼かった私に手伝えることは少なく、昼ご飯を食べてから、部屋の隅で両親が忙しそうに片付けるさまを眺めることしかできなかった。

 退屈とみなぎっているやる気と活力を持て余した私は、玄関脇に積まれた荷物の中に母親の大事にしている綺麗な刺繍ししゅうほどこされた日傘を見つけ、それを手に家を抜け出した。これから住むことになる町を冒険してみたくなったのだ。

 目に映るすべてに興味を惹かれながら、しばらくあてもなく歩いた。すると、足元がアスファルトから石畳に変わる場所に行きついた。石畳が綺麗に敷き詰められた道に物珍しさを感じ、その地域に足を踏み入れると左右の建物は見慣れない古民家が並んでいた。

 知らない世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を感じながらも、歩く私の足と気持ちは、今にもスキップをしそうなほど軽くなっていた。

 そんな風に前と左右と足元しか見てなかった私に、日傘で見えない夏の晴れた空から降ってきた男の子の慌てた声と炭酸水――。

 全てはあの時からだった。私の、沢井さわい陽子ようこという人間の人生はその瞬間から始まったと言ってもいいだろう。



 引っ越しの片づけは昨日のうちにあらかた終わってしまったし、自分の荷物は一人暮らしをする部屋にほとんどがあるため改めて片付けるほどの量はなかった。ただ少しの本やなんかを並べるだけ。私の部屋の整理は昼前には終わり、昼ご飯を食べる。その後片付けの後にそのままキッチンで配置に頭を悩ませ始めた母親に、「何か手伝おうか?」と声を掛けるも、こだわりがあるから一人で大丈夫と言われ、いよいよやることがなくなり、「じゃあ、少し散歩してくるね」と、母親に声を掛け家を出た。

 この町を歩くのは高校の修学旅行以来なので、だいたい三年半ぶりくらいだろうか。あのときも今と同じように思い出に浸りながらも変わっているものを見つけると寂しさを感じた。

 あのときの高校生だった私はこの町で知り合った大切な幼馴染で友人の町谷まちや涼太りょうた桑原くわはら梨奈りなの二人と会いたくないけれど、遠目に一目くらいなら見たいなといったような曖昧な気持ちのまま、二人の変化した関係を目の当たりにして、頭の中が真っ白になった。

 でも、今は二人の関係を理解しているし、同じ大学に通う涼太から私の知らない高校時代の二人の話を聞いたりもした。話の中の二人は相変わらずいつも一緒で仲が良くて、中学三年生の私の選択は間違ってなかったんだと再度しみじみと感じた。

 しかしながら、中学三年生の私には、大学で涼太と再会し、また以前のように仲良くなり、さらにはこの町に帰ってくることになるなんて思いもしなかっただろう――。

 足元が石畳に変わる少し手前にある雑貨屋の前を通り過ぎる。通り過ぎながら店の中を横目でのぞくと、相変わらずおばさんは客と話し込んでいるようだった。ただ記憶にあるおばさんの姿よりもだいぶ歳を取ったように見えて、時間の流れを実感する。

 そして、涼太や梨奈の住む古民家が立ち並ぶ古い町並みに入る。ここはやはり特別だ。時が止まったかのように目立った変化がなくて、懐かしさばかりがこみ上げる。

 夏の晴れた日に日傘を差して歩いていたら、また空から雨とは違う何かが降ってきそうだ。

 しかし、今は夏ではないし、日傘も差していない。

 だからだろうか、今日は当然のことだけれど何も降っては来なかった。

 そのことになぜだか少しがっかりし、さらに歩を進める。少し歩いたところで立ち止まり、昔シャボン玉を飛ばして遊んだ路地を覗き見る。

 今度は何もなかったことにほっとする。そんなことを思った自分に少しだけがっかりする。でも、まだ彼女とどんな顔で何を話せばいいか分からないのだから仕方ない、と誰にするわけでなもない言い訳を自分にする。

 さらにもう少し歩くと、初詣やなんかでよく来た神社の屋根が見えてくる。久しぶりなのでお参りでもしようと神社に近づくと、見慣れた男の子の姿が神社の前の石段にあった。

「涼太くん?」

 昨日の夜に別れた時とは全く違う雰囲気をまとう彼に声を掛けていた。私の声に驚いたのか涼太は顔を上げ、私の顔を確認すると視線はすぐに地面に落ちる。

「どうしたの? なんだか元気ないね」

「まあね。陽子ちゃんこそ、こんなところでどうしたの?」

「私は久しぶりに帰ってきたから散歩してたんだよ」

 私の言葉に薄い反応しかしない涼太に違和感を覚える。違和感の原因はそれだけでなく、まだ肌寒いこの季節に涼太は薄着だったからかもしれない。寒いはずなのにそれどころではなく落ち込んでいるようで――こんなに曇った表情をされれば何かあったのは火を見るより明らかだった。

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