第35話 春嵐に煌めきを曇らせた星

 陽子と別れ、腕や足、腰に疲れを感じながら歩いていると、携帯電話がズボンのポケットの中で振動を始める。しかし、そのことにすぐには気付かなかった。静かな夜に響く自分の足音以外のバイブの異音と体に伝わる振動でやっと着信に気付き、足を止め携帯電話を取り出した。液晶に表示された名前は梨奈のもので、その下の応答のアイコンをなかなかプッシュできないでいた。

 そんな風に躊躇とまどってしまったのには理由があった。梨奈にまだ帰ってきていることを伝えていなかったことを思い出したからだった。梨奈に連絡する時間も顔を見に行く時間も作ろうと思えばいくらでもあったわけで、それをしなかったのはこちらの落ち度だった。

 このタイミングで電話がかかってくるということはおそらく自分の母親経由で梨奈に俺が帰ってきていることが伝わったからなのだろう。それだけの時間も接点もあるわけで――。

 後ろめたいことは何一つないがどうにも嫌な感じがして仕方がない。

 そんなことを考えている間も着信の振動は続き、まだ肌寒い夜の風に冷やされ、ほろ酔い気分だった身体と気持ちは冷静になっていく。そして、ゆっくりと画面をタップし、着信に応答する。

「もしもし、梨奈?」

『……もしもし、涼太?』

 耳に当てた携帯電話越しに聞こえてくる梨奈の声のトーンは低かった。そして、同時に嫌な予感が的中してしまったと直感する。言葉を選ばないといけない気がして、頭の中で言葉を探していると、結果として梨奈からの言葉を待ってしまう形になった。

『ねえ、涼太。今こっちに帰ってきてるんだよね? おばさんから聞いたよ』

「ああ、うん。連絡するの忘れてたのは謝るよ。ちょっとバタついてたんだ」

『そう……ねえ、今から少し会えない?』

「分かった。今から梨奈の家に行けばいい? それとも家に来る?」

『……いや、近くの神社の石段のところで』

「分かった」

『じゃあ、あとで』

 そう言うと梨奈は通話を切った。梨奈が話すのにお互いの部屋以外を指定するのは珍しいことで、待ち合わせに指定された神社は毎年正月に梨奈と初詣はつもうでに行っているあの神社だった。

 梨奈の言葉の端々からただよってきた不穏な空気に戸惑いと焦りを感じながら、今は足早に神社に歩を進めることしかできることはなかった。


 神社に着くと、すでに梨奈は来ていた。石段に腰かけて待っている姿が街灯の明かりの端に浮かび上がっているのが見える。駆け足で梨奈の前まで行き、

「ごめん、待たせた?」

 と、梨奈に声を掛ける。自分が梨奈の正面に立ったことで梨奈を照らしていた街灯の光をさえぎってしまい影に隠れた表情をうかがうことはできなかった。そもそも顔を上げていないのではっきりと分かるわけもなかった。

「大丈夫、そんなに待ってない。私の方がけっこう早く着いたってことはさ、涼太はどこかに出かけてたってことよね?」

 声のトーンは相変わらず低いし、張りがない。その理由は分からないが、いつもの梨奈というわけではないのは分かる。

「ああ、うん。電話掛かってきた時にちょうど家に帰ってる途中だったんだ」

 影の中で梨奈が顔を上げ、目がわずかな光を反射させる。その両目が様子を見るかのようにこちらを見ている。

「へえ。どこに行ってたの? それに今回の帰省はなんだか突然だったみたいだね。おばさんに教えてもらうまで帰ってきたことすら知らなかったよ」

 そう尋ねる梨奈の声はわずかに震えていて、何かを確かめるかのようだった。だから、こういう時は下手に誤魔化したり、茶化したりせず、何も隠すことなく正直に話す方がいいと思った。

「陽子ちゃんの家族の引っ越しを手伝ってたんだ。ここに住んでた頃の家にまた住むことにしたみたいで、ついさっきまでその手伝いをしてた。それにさ、帰りが急になったのも向こうで引っ越しの荷造りのときから手伝っててさ、その関係で陽子ちゃん達がこっちに来る車に急遽きゅうきょ、同乗させてもらうことになったんだよ」

「そうなんだ。それでも連絡できないほど忙しかったり、手がふさがってた訳じゃないよね? それに今の涼太からお酒の臭いがする……」

「それは……引っ越しの手伝いが終わった後、ご飯をご馳走になって、陽子ちゃんのおじさんに飲まされただけだよ」

「そうなんだ。なんか陽子の家族ともすごい仲いいみたいだね。あっちで陽子と何かあった? よく陽子の家に行ってるみたいだし、それに一人暮らし始める陽子の家も近所なんでしょ? 全部涼太が話してくれたことだよ。普通に考えたらおかしいよね? 何もない相手とこんな感じになってるなんてさ……」

「な、なに言ってるんだよ、梨奈」

 梨奈の声が震えている。そして、こちらを見つめる梨奈の目から光るものが流れるのが見えて、言葉が出なくなる。

「涼太……もういいよ。もういいんだよ。私のために無理しなくても。今は陽子のことが大事なんでしょ? 涼太は陽子のこと好きだったもんね。長い時間二人でいたらそのころの気持ちを思い出してもおかしくないよね……私はそんな涼太を見ているのが、そんな涼太の話を聞くのが辛いよ。ただ信じて待つだけなんて……そうしようって自分で選んだはずのに、今はそれがとても辛いし、後悔してる。だからさ、涼太のことも楽にしてあげるよ。もっと早くに気付いてあげれなくてごめんね」

「な、なに言いだすんだよ。梨奈、お前は――」

 何か勘違いしている――。

 しかし、その言葉を伝える前に梨奈から聞きたくない言葉が発せられる。


「だから、別れよう。涼太」


 世界が止まってしまったのではないかというほど、ゆっくりと時間が流れていた。なぜ梨奈はそんなことを言い出したのか分からない。

 俺と梨奈は幼馴染で恋人で、お互いに顔を見たり声を聞けば、何を考えているかだいたい分かった。目を見れば、言葉を使わなくても意思の疎通そつうができることもあった。

 それなのに、今の梨奈の涙を見ても、震える声を聞いても何も分からない。

「涼太、だからもう私に気を遣わなくてもいいよ。今までありがとう。これからは涼太が今、大事に思っている人のことを精一杯大事にしてあげて……」

 そう言うと、梨奈は立ち上がり俺の脇を通り過ぎ、駆け出していく。

 梨奈の言動の意味が分からなくて、理解したくなくて、ただ走り去っていく梨奈の姿を見つめることしかできなかった。おそらく追いかければすぐに追いつくことはできただろう。でも、追いかけることはできなかった。

 梨奈の姿は夜の闇に溶けていった。


 俺は梨奈のことを一番に考えてきて、後ろめたいことも隠したいこともないから全部話してきた。想いもちゃんと伝わっているとばかり思っていた。

 だからこそ、何も伝わってなかったという事実がショックだったし、梨奈のことが、何より自分自身のことが分からなくなった。

 立っているのも辛くなって、梨奈がさっきまで座っていた神社の石段に力なく腰を下ろした。

 座り込んで梨奈の言葉を思い返しながら、最近のことを振り返る。確かに最近は世界でに大切なの陽子のことで色々あった。それでも梨奈にあんなことを言われる筋合いはない。

 こんなにもどうしようもないすれ違いや軋轢あつれきをどこで生じさせたのかいくら考えたも分からなかった。



 そんなとき、ふいに見上げた空は星が綺麗だった。新月の夜だからか星のきらめきは確かで、普段は見えないような星までも見えている気さえした。

 そもそも空を見上げるなんていつぶりだろうか――長らくちゃんと見ていなかった気がする。この町では星がよく見える。

「ははは……なんでこんなときに星を見て綺麗だなんて思っているんだろう……」

 空を見上げたことで頬を伝った温かい筋も、いつの間にか世界が水に沈み揺らいでいるこの状況も全てが馬鹿らしく思えた。

 笑えない状況のはずなのになんだか笑えてきた。笑うしかできなかった。

 こんな頭の中も心の中も嵐が吹き荒れ、ぐちゃぐちゃになっていても時間は流れていく。今は夜が深まるばかりだが、いずれは朝がやって来る。

 朝になり陽が昇ると、空は次第に明るくなっていく。その空では星は輝きを失い、見ることができなくなってしまう。

 だけど、本当は明るくなった空でも星は確かにそこで煌めいている。それはどこで見上げる空でも同じで見えないだけで確かにそこにあったのだ。



 その煌めきをまだ諦めることができない俺は、静かな月のない夜にもう一度星を掴もうと心に決めた――――。

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