第34話 温かな空間と静かな夜に

 陽子の父親の車に揺られ、さながら沢井家の一員になったと思ってしまうほど、なごやかでおだやかな時間を過ごした。途中のサービスエリアでは同じテーブルで食事をしたり、陽子の父親とベンチに座り、眠気覚ましのコーヒーを飲んだりと小旅行でもしているようだった。

 短く感じた長い移動の時間も終わりを迎え、翌日の昼過ぎには到着して、家の近くまで車で送ってもらった。

「本当に送ってもらってありがとうございます。荷物置いたら、すぐに手伝いに行きますので」

「ああ、よろしく頼むよ」

 陽子の父親はそれだけ言うと、下げていた車の窓を上げる。後部座席でさっきまで隣に座っていた陽子や助手席の陽子の母親は小さく手を振り、それにこたえるように手をあげ車を見送った。

 そして、家に帰ると先ほどの言葉通り、荷物を居間いまに投げるように置き、母親に帰ったこととすぐに引っ越しの手伝いに行くことを告げ、財布と携帯電話、タオルという最低限の装備で陽子の家に向かった。

 陽子の家は以前と同じと聞いていたので、子供のころは慣れ親しんだ陽子の家までの道のりを久しぶりに歩く。歩きながら、風景の変化を記憶と照らし合わせながら歩いていくことにした。変わってないように見えて、家がなくなっていたり新しくなっていたりと時間の流れを感じる。

 陽子の家に着くと、引っ越し業者のトラックが駐車していて、急いで手伝いに加わった。力仕事と雑用など言われたことをこなし、あらかた片付いたころには窓から見える景色は暗くなっていた。

 陽子の両親は少し前に晩御飯の買い出しに車で出かけた。俺はというと、部屋のすみたたんだ段ボールが残るリビングのソファーに疲れた体を沈めていた。

「涼太くん、今日はありがとう。はい、これ。インスタントで悪いんだけど」

 陽子が両手に一つずつ持っていた紅茶の入ったカップの一つを差し出してくる。それを受け取ると、陽子はソファーのすぐ隣に腰かける。

「ありがとう。まだ全部片付いたわけじゃないし、インスタントでも飲めるだけでもありがたいよ」

 受け取った紅茶をすすると、体の中から温まるようなほっとした気分になる。

「なんかごめんね」

「なにが? インスタントのこと?」

「いや、そうじゃなくてさ……せっかくこっちに帰ってきたのにゆっくりできるどころか、引っ越しの手伝いで肉体労働させちゃって……」

「ああ、そっち? それは気にしなくていいよ。自分でやりたくてやったことだからね。それに帰るのに車に乗せてもらったし、ご飯も食べさせてもらったしね。今も晩御飯をご馳走ちそうしてもらえるからこうやってのんびり待ってるわけだしさ。そのお礼としては、これくらいの労働は安いもんじゃない?」

 そう言いながら小さく笑う。陽子も隣で無言で肩を小さく揺らしている。

「まあ、そうは言っても結構疲れたけどね」

 カップをテーブルに置いて、わざとらしく自分の肩や腕を軽くみながら話す。陽子はこらえきれなくなったのかついには声を出して笑いだす。

「なんだかもう若くないというか、おっさんみたいだよ」

「そうかもなあ。でも、まだこれでも陽子ちゃんとは同い年なんだよ」

「それさ、私も若くないって言いたいわけ?」

「いやいや、そんなことはないよ。だけど、前に陽子ちゃんがここで暮らしていた時に比べたら若くはないし、体力も落ちちゃったよね」

「それは確かに……」

 陽子と顔を見合わせ、声を出して笑い合う。大学で再会して、何度も笑いながら話したりしたけども、今が一番しっくりくる気がする。なんだか昔に戻ったみたいだ。だから、

「おかえり、陽子ちゃん」

 と、思わず口にしていた。陽子は驚いたような表情を浮かべた後、次第に柔らかな笑顔に変わり、

「うん、ただいま」

 と、返事をする。気のせいかもしれないが陽子の目がうるんでいるようにも見えた。

 そのまま二人で並んで座り、無言のまま紅茶を飲みながら時間の流れに身を任せた。なんだかこれ以上言葉はいらない気がしたのだ。それは陽子もきっと同じ思いなのだと何故だか分かってしまう。そして、大学で再会して以来、陽子に対して感じていたどこか無理をしているような雰囲気が今は感じられなかった。素の陽子と接しているような懐かしい感覚だ。

 呼吸の音や、紅茶を飲む音、時折触れる腕や肩から感じる体温や気配――当たり前に近くにいるその事実、そんな幸せ以上のことを求めてはいけない気がした。

 しばらくすると、玄関の扉が開く音がして、思わず近づきすぎた体を離すかのように座る位置をずらし距離を取った。二人の時間は終わりを告げたが、今度は家族の時間が始まり、そこにいていいのか戸惑ってしまう。陽子の父親は長年、単身赴任していたので家族だけの時間というのが必要なんじゃないかと思い、買ってきた弁当を受け取ると、そのまま帰ろうとしたのだが、

「今日は涼太くんにかなり手伝ってもらったんだから、そう遠慮しなくていいんだ」

 と、陽子の父親に引き留められ、同じ食卓を囲むことになってしまった。さらには、買ってきていたお酒もすすめられ、一緒に飲んだ。

「まさかこうやって涼太くんと飲む日が来るとはね」

 陽子の父親がしみじみと告げる。

「それにうちだとお母さんは下戸げこだし、陽子もあんまり飲めない体質らしいから、こうやって飲めるなんて嬉しい限りだよ」

「あらあら。そうは言うけど、お父さん、スーパーで涼太くんとお酒を飲むんだって、ちょっといいお酒選んでたのよ」

 陽子の母親が楽しそうにばらし、陽子の父親はバツが悪そうな顔をするが、すぐに楽しそうな表情に戻り、まだ飲みかけのコップにお酒をそそいでくる。

 そのまま陽子の父親と色々なことを話した。アルコールが入り、口が軽くなってきたのか、昔話や思い出話まで始まってしまう。最初は陽子がこの町に引っ越してきて馴染なじめるか不安だったけども、すぐに友達ができて明るくなったのは本当に良かったと肩をバンバン叩かれた。さらには陽子の小さいころの写真を見せようかとか言いだしたところで陽子からストップがかかり、

「もう遅い時間だからすぐそこまで涼太くん送ってくるね」

 と、腕を引っ張られる。バタバタする中、再度ご飯のことを含め陽子の両親に感謝を伝え、陽子の両親からも感謝の言葉が返ってくる。

「またいつでも遊びに来ておくれよ」

 その声を背中で受けながら陽子に連れられ、家の外に連れ出された。俺の家の方に向かい街灯がいとうの少ない暗い道をゆっくりと歩き出す。街灯が少ないという以上に暗さを感じる。歩きながら空を見上げて納得する。今日は月が出ていなかったのだ。

 月のない静かな夜に、「なんかごめんね」と、隣から声が聞こえた。

「いいよ、楽しかったし。それにしても、写真が見れなかったのは残念だったな」

「本当に見たかったの?」

「うーん……どうだろう。でも、ああやって話したりしているのが楽しくて温かくて、なんかいいなって思ったよ」

「きっと酔ってるだけだよ」

「そうかもなあ……」

 酒に酔ったのか雰囲気に酔ったのか分からないが、分からないままでいいと思った。

「もうこのへんでいいよ。あんまり遠くまで送ってもらうと今度は陽子ちゃんを送って引き返さないといけなくなりそうだからさ」

「ははは、そうだね。ありがとう。じゃあ……またね」

「うん、またね」

 陽子は街灯の下で子供のころのような自然な笑顔で手を振り、来た道を戻り始めた。聞きなれたはずの陽子の『またね』という言葉がなんだかとても嬉しかった。

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