第八幕 春の始まりに淡く輝くはレモンティー
第一部 春嵐に襲われるはインスタントティー
第33話 またも引っ越しは突然に
冬の寒さの合間に春の温かさが時折混じりだす三月の始め――。
大学二年生の後期の試験も終わり、少し長い春休みに入ってから、一ヶ月が経とうとしていた。
そんな頃に、俺、
「それで陽子ちゃん。俺は今日は何で呼ばれたの?」
通されたリビングのソファーに腰かけ、キッチンから持ってきたトレイを手にテーブルを挟んで向かいに座る陽子に尋ねる。陽子は紅茶の入ったカップとクッキーを
「あのね、私、また引っ越すことになったの。だから、その報告とあとは私が焼いたクッキーを食べてもらいたくてさ」
と、何気なく口にする。あまりにも自然に言葉が発せられ、それが天気の話題でもあるかのような軽い口調だったせいで、何を言われたかすぐに理解できなかった。だから、砂糖を入れる前に口を付けた紅茶の渋さに驚いた方が勝っていて、
「そうなんだ。あ、砂糖取ってくれる?」
こんな感じに軽く流しそうになってしまい、何かおかしいと硬直し陽子の言葉を頭の中で
「……引っ越し? そんな大事なことをそんなあっさり言わないでよ」
「そう? まあ、実際はそんな大ごとではないのよ。はい、砂糖」
陽子はシュガーポットをこちらに差し出しながら事も無げに言う。シュガーポットを受け取り、気持ち多めに砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜ、口を付ける。安心の甘さに一旦心を落ち着かせる。
「それで、陽子ちゃんはどうするの? 大学だって、あと二年残ってるわけじゃん?」
「そのへんは問題ないよ。私はこっちに残る予定だから」
「どういうこと?」
陽子は間を取るように紅茶にゆっくりと口を付ける。
「お父さんとお母さんだけで新しい家に引っ越して、私はこっちで一人暮しする予定なんだ」
「なるほど。それで、おばさん達は今度はどこに引っ越すの? ……って、こんなこと俺が聞いてもいいのかな?」
「それはもちろん。お母さん達は涼太くん達の実家のあるあの町に引っ越すんだよ。私も小学四年生の夏から中学校卒業まで暮らしていたあの町にさ」
「マジで!?」
思わず大きな声が出た。想像もしていないことだったので、驚きのあまり固まってしまう。そんな俺のリアクションを見て、陽子はくすくす笑い出す。陽子からすればここまでの俺の反応はある意味想定通りなのだろう。
「驚いた?」
「そりゃあ、驚くよ。でも、なんで今になって?」
「お父さんがね、なんか出世するらしくて、転勤だとか難しい立場になるらしいの。それならいっそのことあの町に骨を
突然のことで受け止めきることができず、まだ混乱する頭で話を整理していく。そのことに集中するあまり、陽子が最初に言っていたもう一つの呼び出された理由であるクッキーに手を伸ばす余裕もなく、またちょうどいい甘さにした紅茶を飲むことも忘れていた。それほどまでに衝撃的なことだった。陽子は目の前でこちらを伺いながら笑いをこらえているような顔で、紅茶に口を付けている。
「えっと、うん。状況は分かったけど、それで陽子ちゃんは?」
「私はさっきも言ったけど一人暮らしをするんだ。最初はさ、このマンションからあんまり離れてないところにお母さんの実家があって、そこに
「何をそんなに一生懸命に言ったのやら……」
陽子の顔色を見ながら、思い出したかのように紅茶に口を付け、クッキーに手を伸ばす。ドライフルーツ入りのクッキーはそれだけで甘くて美味しかった。陽子はこちらの視線は意に介してないようで、
「まあ、成人したことやあと大学が二年しかないことも許可が下りた大きな理由だったかもだけど、一番の決め手は涼太くんの存在だからそのあたりは涼太くんに感謝だよ」
と、またしても混乱をさせるような言葉を発してくる。
「どういうこと? ちょっと意味わからないんだけど……」
「それはきっとすぐにわかるよ」
陽子はにっこりと笑いながら答える。
「なんかその言い方、嫌な予感しかしないんだけども……」
「そんな警戒しないでよ。それで呼び出した理由なんだけど、よければ引っ越しの手伝いお願いできないかな?」
「そんなことなら全然手伝うよ。陽子ちゃんから切り出さなかったら、こっちから提案しようと思ってたし」
「ありがとう。私の引っ越しの方はお父さんは帰ってこれないから男手が足りなくて困るなって思ってたんだ」
「いえいえ。なんなら、陽子ちゃんの引っ越しだけでなくもう一つの引っ越しの方も手伝おうか? 手は多いほうがいいでしょ?」
「本当にいいの?」
「うん、いいよ」
「ありがとう。じゃあ、お礼の一部前払いってことでクッキーをいっぱい食べてね」
陽子はクッキーの載った皿をこちらにすっと寄せてくる。
「もしかして最初からそういうつもりでクッキー作ったわけじゃないよね」
「考えすぎだよ」
陽子は楽しそうな笑顔で紅茶の入ったカップを手にこちらを見つめてくる。他意があろうがなかろうが自分の取る行動は変わってないので、ありがたくその前払いのお礼をいただくことにした。
こうして俺は沢井家の二つの引っ越しを手伝うことになった。
まずは陽子の一人暮らしのための引っ越しの日。引っ越し業者に荷運びを頼んだものの、荷物の量はさほど多くなく、作業自体はそこまで大変なものではなかった。荷運びの手伝いやラックや棚の組み立てなどを任され、言われるがまま手を動かし続けた。
それにしても引っ越し先のマンションに着いたときは驚いた。先日の陽子の不可解な含みのある感謝の言葉の意味をそのとき知った。それは陽子のこれから暮らすマンションは俺の暮らしている下宿先からは歩いて十分もかからないであろう場所だったのだ。
「なんか俺の家からかなり近いところにあるよね。驚いたよ」
「そうだよ。だから、この前、涼太くんには感謝だよ、って言ったじゃん」
陽子は
「でも、まだよくわかんないけど、結局なんで感謝なわけ?」
「何かあったらすぐに来てくれるような人が近くに住んでいるってのが大きかったんだよ。だから、私に一人暮らしさせてもお母さんたちは安心だってことでオッケーがでたんだよ」
「えっと……事情は把握できたけどさ……そんな重要人物の俺には相談とかなにか一言あってもよかったんじゃない?」
「ごめんね。でも、驚かせたくてさ」
「そりゃあ、驚いたけども……」
陽子の申し訳ないという気持ちと楽しいという気持ちが混じったような笑顔を見せられると、それ以上何も言えなくなる。なんだか少し気まずくて頭を
そんな驚きに満ちた一日をその日の夜、もう一人の幼馴染で恋人でもある
なんだか最近、メッセージのやり取りも電話での会話も以前のような熱量がないように思える。大学に行き始めのころは毎日のように電話をしていたのが今では週に二回あればいいほどで、どうしても距離感を感じてしまう。
しかしながら、それでも日々の生活は続いていくもので、バイトに行ったり、大学の友人と遊んだりとそれなりに毎日は充実していた。
それに梨奈とは近いうちに
陽子の引っ越しから数日後。今度は沢井家の引っ越しの手伝いに行った。
前回の陽子一人の引っ越しとは違い、一家族分ともなると荷物の量も
作業が終わると、通いなれた沢井家の暮らしていた部屋は見慣れない寂しさの感じてしまう何もない空間になった。しかし、そんな感傷に
沢井家からは感謝され、陽子の父親から、
「今日はありがとう。涼太くんは帰省はする予定はあるのかな?」
と、尋ねられた。
「はい、数日中にとは思ってます。バイトの休みも取ったし、荷物も部屋にまとめてるのであとは帰るだけって感じですね」
「そういうことなら、これから一緒に帰らないかい? 帰省するのだって電車代とか安くはないだろう? 涼太くんさえよければ、うちの車に乗っていくといいよ」
「いいんですか? 助かります。それではお願いします」
こうして、陽子の父親の言葉に甘える形で車に乗せてもらい帰省することになった。
あの古民家が立ち並ぶ古い町並みを残す地域のあるあの町にこれから向かう。
自分にとっては生まれ育った場所で帰るべき場所で、そして、梨奈や陽子と三人で大事な時間をいくつも共有した思い出の残る場所――。
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