第29話 訪れた春と三という数字の意味

 私はキャンパス内にあるカフェに涼太を連れて行く。涼太はそのカフェに入るのは初めてらしく、表情を強張こわばらせる。注文の順番待ちをしている時からそうなので私は笑いをこらえるのに必死だった。

 順番が回ってきて、私はカフェオレを頼む。涼太はメニューとにらめっこをした後、カフェラテを注文していた。

 注文したものを片手にテラス席に、向かい合うように座った。

「涼太くんって、カフェラテとか頼むんだね。なんか意外」

「そう? まあ、苦いもの苦手だからね。コーヒーは砂糖なしだとちょっときついし」

 味の好みが変わってないことに思わず笑ってしまい、涼太は笑うことないだろと言わんばかりに目で抗議してくる。

「ここフィズとか炭酸系も置いてるんだし、そっち頼めばよかったのに」

「フィズって炭酸なの? 知らなかったよ。というかさ、こういうところではコーヒー的なのを注文するもんじゃないの? わからないけど」

 私は我慢できずに声を上げて笑い出す。そんな私を涼太は「そんな笑うことじゃないだろ?」と、困ったような表情をしていたが、すぐに一緒になって笑い出す。

 それはまるであの時から変わってないと感じてしまうほど自然で――。

 笑いの波が落ち着いたところで、

「それで涼太くんはどうしてこの大学のキャンパスにいるわけ?」

 と、ストレートに疑問をぶつける。涼太はズボンのポケットから財布を取り出し、そこから真新しい学生証を私の前にすっと差し出してくる。それは私と同じ大学の学生証で、学部は経済学部経済学科となっていた。私はやっと状況が飲み込めてくる。私の通っている大学は文系学部と理系学部でキャンパスが違う。細かく言えば理系はさらにキャンパスが分かれている。涼太がここにいるのはそういうことなのだ。私たちは出会わなかっただけで同じ場所にいたのだ。

 そうなると、私が試験会場で見たあの横顔は涼太本人だったのかもしれない。そんな小さなすれ違いの果てにみちが再度交わったことが嬉しかった。

「俺さ、陽子ちゃんを追いかけるために必死に勉強したんだ」

 目の前でそう言いながら胸を張る涼太を眺めながら、私はふいに投げかけられた言葉に嬉しさを隠せないでいた。顔が自然ににやけているのを自覚してしまう。それを誤魔化ごまかすためにカフェオレに口をつける。

「でもさ、私がもし別の大学に行っていたらどうするつもりだったの?」

「それは問題ないんだ。陽子ちゃんが受験して受かった大学言ってみて?」

 その要領の得ない返答に首をかしげる。しかし、私が答えなければ話は進まない。第二志望の大学名を口にする。涼太はそれを聞くと携帯電話を操作して、私に見えるように差し出してくる。そこにはさっき私が口にした大学の合格通知の写真が映し出されていた。そして、まさかという気持ちを確かめるように、私は第三志望のすべり止めの大学名を口にする。涼太はさっきと同じように合格通知の写真を見せる。

「すごいね。全部合格してたんだ。どうして、私の志望校知ってたの? もしかして……お母さん?」

「そうだよ。おばさんに聞いた。連絡先は教えないとは言われたけど、志望校は含まれてなかったからね。それにこういう誰かを驚かしたりする悪巧わるだくみというか計画は、親を巻き込むのが俺らのやり口だったでしょ?」

 涼太は笑顔でそう言う。そして、あの夏の日に涼太に甚平じんべいを着せるための悪戯いたずらをもう一人の幼馴染である桑原梨奈と計画していたことを思い出す。もう私には関係のない、戻れないと思っていたまぶしいほど楽しかった日々の記憶――。

「そうだったね。でもさ、私が受験に失敗しまくって、最後の滑り止めの女子大を選んでいたらどうするつもりだったの?」

「ああ。そっちはさ、梨奈の担当。陽子ちゃんには滑り止めの滑り止めレベルでも、梨奈には偏差値とかギリギリでさ、猛勉強した挙句、一番偏差値の低い学部に滑り込みで合格はしていたよ」

「……ということはさ、梨奈もこっちに来てるの?」

「いや、梨奈はこっちの大学には来てないよ。なんか、やりたいことが見つかったとかなんとか言ってさ、地元の女子大に家から通ってるよ。なんだっけ……現代心理なんたら学科だったかな。まあ、とにかく梨奈は変わらずあの町で今も暮らしているよ」

 私は涼太の話にうなづきながら話を聞く。そして、話を聞きながらどこかほっとしている自分がいた。

 梨奈とも会いたい、話したいという気持ちは確かにあった。涼太と話してその気持ちは強くなった。だけれども、それと同時に涼太と梨奈が二人で仲良く並んでいる姿は目にするのは嫌だったからだ。

 あの日、修学旅行で見かけた二人の後姿を忘れることができず、似たような光景を街中などで見るたびに二人の姿が重なってしまい、その度に私の心はとても寂しくて悲しくて切なくなった。

 真っ直ぐに涼太の顔を見れない私はカフェオレの入ったカップに目を落とし、静かにカップを揺らす。自分を含めた三人ともが成長して変わってしまったことを実感する。きっと私はもうあの頃のように笑うことができない。

 私が目を伏せて黙り込んでしまったせいで、重たい沈黙が降りてくる。涼太は私の方を気にしながらカフェラテを何度も口に運ぶ。涼太のそんな気配を感じながら、私は悩んでいた。

 きっと涼太は昔のような関係を私に望んでいる。それはきっと私にとっても居心地がいいものだろう。そして、それは私を友達としてしか見ていないというのと同義で――しかし、彼にそれ以外の選択肢がないのも理解できるところだった。私が関係の変化を望もうとすると梨奈という存在に行き当たる。

 はっきりと彼の口からは確認していないが、二人は恋人同士なのだろう。そんな二人の関係を壊すようなことはできないし、したくなかった。それと同時に自分が後悔するような選択はもうしたくかった。


 私は、涼太にただの友達ではなく、恋人とまではいかなくても少しは特別に思って欲しい。それくらいのわがままは許してもらえるだろうか?

 そして、もし梨奈が涼太を傷つけたり、二人が別れを選択することがあればそのときは――。

 もちろんそんな日が来ない方がいいに決まっている。そう思いながらも心の奥底ではほんのわずかでもそんな日が来たらいいのにと望んでしまう自分は最低だろうか?


 そんな後ろめたさを感じてしまう気持ちを知られたくなくて、見透かされたくなくて――私は顔を上げて、涼太と目が合うと笑ってみせる。私の作り笑顔に涼太はほっとしたような顔を浮かべながら、

「ねえ、陽子ちゃん。また俺と友達になってくれるかな?」

 と、私の心を見透かしたかのように尋ねてくる。少しの沈黙の後、

「ただの友達は嫌だな……」

 無意識に私はそうこぼしていて、言葉にした後でハッとする。しかし、涼太は驚いたような顔をした後、目を伏せ、

「たしかにまた一から友達としてってのはあれだよね。じゃあ、前と……あの町に住んでいた頃と同じような関係をまた望んでもいいのかな?」

 と、含みのある言葉が返ってくる。私は淡い期待を込めて、「それって、どんな関係?」と尋ね返す。涼太は今度はしっかりと真っ直ぐに私の目を見つめてくる。

「それはさ……ただただ大切な関係かな。いつも一緒にいたくて、笑っていたくて――友達だとかそういう言葉では表現できなくてさ。なんというか空気や水と同じでなくてはならないもので、自分の一部のような関係……かな」

 涼太は真剣な顔で静かに口にする。それは受け取り方によれば告白にもそれ以上にも聞こえる。でも、そこには他意はなく友情とか愛情とかそういうのを全部ひっくるめて、ただ一緒にいたい大切な存在なのだということは私も分かっている。


 それがあの町での私たち三人の関係だった。友達とも幼馴染とも違う――それ以上に深い関係。


 私は涼太の言う関係を受け入れることにした。断る理由なんてなかった。

 そして、涼太と改めて連絡先を交換する。私の携帯電話のアドレス帳に三年ぶりに町谷涼太の名前が登録される。ただそれだけのことが嬉しかった。好きな人の連絡先を知り、これからはいつでも連絡を取り合えるということが本当に喜ばしかった。

「ねえ、梨奈にも陽子ちゃんの連絡先、教えてもいい?」

 涼太は笑顔で尋ねてくるが、私は静かに首を横に振る。「どうして?」と不思議そうに理由を聞いてくる涼太に、

「大丈夫。梨奈もきっと分かってるよ。私と梨奈はあの頃のようには戻れないってことはさ」

 と、伝える。涼太は理解できないようで首を傾げていた。

 それから、冷たくなってしまったカフェオレを飲みながら、まだ間に合う履修りしゅう登録の訂正ていせいや変更を利用して、時間が合えば同じ講義を受けようだとか、お昼を一緒に食べたりしようと提案される。

 元々大学では一人で過ごすことの方が多く、まだ馴染みきれていなかった私はその提案を喜んで受け入れることにした。

 お互いの時間割を確認しながら話していると、涼太が腕時計で時間を確認して慌てた様子で立ち上がった。

「どうしたの?」

「ああ……ごめん。これからバイトの時間なんだ。もっと話したりしたいけど……」

「いいよ。それでなんのバイトしてるの?」

「居酒屋のバイト」

「そうなんだ。今度、涼太くんの働いてる店に行ってみたいな」

「そのときはサービスできるようになんとかするよ」

 立ち上がって時間を気にしつつも涼太はなかなかバイトに行こうとしない。

「どうしたの?」

「なんかさ……また会えなくなってしまうんじゃないかって不安になるんだ」

「何も言わずに涼太くんの前からいなくなるってことはもうしないよ」

 私は本心からそう答える。

「分かった。じゃあ、またね。陽子ちゃん」

 涼太は手を振って小走りで走り去っていく。その後姿に「またね」と届いているか分からない声で返事をしながら手を振って見送った。


「またね――か」


 その三文字が魔法の言葉のように思えた。

 そして、その“三”という数字になんとなく考えをめぐらせる。

 “三”という数字は調和を意味するのだと何かで読んだことがある。それは私と涼太と梨奈のかつての三人の関係を上手く表現しているように思えた。本当は誰一人欠けてはいけなかったのに、私がその調和の取れた関係を崩してしまったから今みたいな状況なのだろう。

 涼太と再会したからと言って、私たちの関係は“三”ではなく、“二”と“一”になってしまった関係は戻ることはないだろう。それは調和が取れているとは言いがたい。

 そして、“三”という数字には他にも意味がある。

 複雑な関係――それは今の私たち三人を表すには似合いすぎるほどの意味合いで――。



 春。出会いと別れという季節に相応ふさわしく、私たち三人には複雑な春が訪れた――――。

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