第26話 手繰り寄せた糸と不安

 私は携帯電話の連絡先から陽子の母親を選びタップする。そして、スピーカーに切り変える。部屋にはコール音が小さく響く。私と涼太は緊張から息をむ。

『はい、もしもし』

「おばさん、久しぶりです。桑原梨奈です」

『ああ、梨奈ちゃん。いつ振りかしら? 半年振りくらいかしら?』

「そうですね。新年の挨拶して以来ですからそれくらいですね」

 私は涼太をひじで軽く小突こづいて、何か喋りなさいよと合図を出す。

「おばさん、こんばんわ。町谷涼太です。お久しぶりです」

『あらあら、涼太くんもそこにいるのね。二人は元気にしてたかしら?』

「はい。俺も梨奈も基本的には元気です」

『それはよかったわ。それで、急に電話を掛けてきて今日はどうしたのかしら?』

 私は小さく深呼吸をする。

「あの、おばさん。今日は聞きたいことがあって連絡させてもらいました」

『聞きたいことって、何かしら?』

「何度目になるか分かりませんが、陽子の連絡先を教えてもらうことはやっぱりできませんか?」

 空気に急に重みが増してくる。引っ越した後に陽子の母親と何度か話したが、陽子以外の話題だとこの町に住んでいたころのように柔和にゅうわな声と雰囲気なのだが、陽子のこととなると口が堅くなり、冷たく重い壁のようなものを感じる。

『ええ。何度も言っているけれどそれはできないわ。ごめんなさいね』

「そうですよね。今日はそれが聞きたいのではなくて、連絡先以外のことを聞きたいんですけどいいですか?」

『えっ? ええ……まあ、質問にもよるけどいいわよ』

 隣にいる涼太も同じように驚きの声を上げていて、その情けない声に私は少しだけ緊張が和らぐ。おかげで、さっきまで緊張で言葉に詰まりそうになっていたが、今は普段通りに舌が回る気さえしてくる。

「ありがとうございます、おばさん。それじゃあ、さっそく……陽子は元気にしていますか? 今年は夏風邪が流行りましたが体調を崩したりだとかしていませんか?」

『ええ、大丈夫よ。陽子は元気よ』

 陽子の母親の声に柔らかさが戻ってくる。

「よかった。じゃあ、陽子は毎日楽しそうにしていますか?」

 電話の向こう側で一瞬変な間が生じる。

『陽子が楽しいかは本人にしか分からないから、おばさんにはちょっと分からないわ。ごめんなさい』

「そうですか。それでは、おばさんは毎日が楽しいですか?」

 電話の向こう側でまたしても変な間ができる。先ほどもそうだが、質問に答えにくいのだろう。

『楽しいことばかりではないわ。それは、誰しもがそうでしょう?』

「そうですね。普通に暮らしていれば楽しいことも辛いこともありますからね。じゃあ、おばさんは今の暮らしに満足はしていますか?」

 今度は決定的だった。明らかに答えようがない、答えたくないというようで、しかしそれでも適当な言葉を探すために声にならない言葉を何度かしぼり出そうとしているというのが感じて取れる。涼太もそれに気付いたようだった。そして、涼太が今度は質問をする。

「おばさん、俺からもいいですか?」

『……え、ええ。何かしら?』

「おばさんにとって、こっちでの暮らしはどうでしたか? 楽しかったですか?」

『……ええ、楽しかったわ。私自身も同年代の気の合う母親友達と出会えたからね』

「それを聞けてよかったです。最近、おじさん――陽子ちゃんのお父さんにも会いましたが、食生活を中心に家族といられないことをストレスに感じているようでした。そのことをよく一緒に飲んでる俺の父にも零しているようです。おばさん自身はそのへんはどう感じているんですか?」

『それは私も同じよ! ……家族で一緒に暮らせないというのは辛いわ。それにお父さんの健康も気になるのに、すぐそばで支えることもできないこともね……』

 陽子の母親の心からの本音が聞けた気がした。そして、涼太の後を受けるように私が続ける。

「おばさんは今、心から笑えていますか?」

 その質問に答えは返ってこなかった。さらに私は質問を重ねる。

「おばさん。陽子は笑って毎日を過ごせていますか?」

『いいえ。口にも表情にもあまり出さないけど、あの子も相当無理してると思うわ』

 私と涼太はその答えに言葉を失う。それは可能性として想像できた答えだったが、陽子には笑っていてほしいと思っていて、そうではないということが辛かった。私たちは恥ずかしそうに笑う陽子の姿をよく見てきた。最初はなかなか笑わなかったがしばらくすると自然に笑うようになった。一緒にいるのが当たり前で、陽子が寂しがらないように遠回りして陽子の家に寄って学校に通ったりしたこともあった。

 そんな陽子の顔が今は曇っている――それは私たちには知りたくなかった現実だった。

『あなたたちはどうなの? 今は笑って過ごせてるかしら?』

 陽子の母親からの聞き返す質問に私は固まってしまう。聞かれる立場になることを全く考えていなかった。しかし、固まる私の代わりに涼太がすぐに返答する。

「陽子ちゃんがいなくなってからしばらくは心の底から笑えませんでした。高校に上がってすぐくらいはそのことからか梨奈とも距離ができてしまって――でも、こっちは二人だったので少しずつ笑えるようになりました」

 涼太が肘で小突いてくる。

「私も同じです。陽子が引っ越して、連絡も取れなくなって、何をしててもなかなか楽しいと思えませんでした。それでも近くに涼太がいたから段々笑えるようになりましたが、陽子がいないということは正直ずっと尾を引いていると思います。どこかで、二人だけで笑っていていいのかなって思ってしまうんです」

『そう……あなたたちにも私たち家族の引越しの影響は大きかったのね……』

 そう言うと陽子の母親は黙り込んでしまった。私と涼太も釣られるように黙り込む。今は私たちからは踏み込んではいけない、そんな気がしたのだ。なぜなら何かを決断するための間のようで、沈黙は重たかったが嫌な感じは全くしなかったからだった。

『それで、あなたたちは本当は私に何を聞きたかったのかしら?』

 陽子の母親がゆっくりと穏やかな声で尋ねてくる。私と涼太はその声に安心して、大きく息を吐きだした。

「回りくどいことをしてしまってごめんなさい。私たちが知りたいのは陽子の進路です」

『進路? 本当にそれでいいのかしら? 今ならあなたたちには陽子の連絡先を教えてもいいのかもしれないと思っていたのだけれど――』

「ええ。今度は私たちが陽子のことを追いかけます。そして、離れてしまったえんを結び直して、連絡先を本人から直接聞いてみせます」

『わかったわ。本当に進路以上のことは教えなくてもいいのね?』

「はい。また陽子と一緒に笑って過ごせるようにしてみせます」

『私もそうなるように願っているわ』

 それから陽子の母親は陽子から聞いていた志望大学を教えてくれた。涼太がそれを横で自分の携帯電話のメモ帳にメモしていく。

「ありがとうございます。おばさん」

『ええ、いいのよ。それにこんなことを言ってはなんだけど、偏差値の高い私大ばかりだけど大丈夫かしら? あなたたち中学までは勉強不得意だったわよね?』

「私はともかく涼太なら大丈夫だと思います。高校に入って人が変わったかのように勉強ができる子になってしまいましたから」

「おい、俺にばっか押し付けるなよ。女子大はお前が受けることになるんだから、お前も勉強しろよな?」

「あんたが女装じょそうして受ければいいじゃない。なんなら制服貸してあげるわよ? 着れるかは保障しないけどね」

『あはははっ!! あなたたちは相変わらず仲いいのね。陽子のこと頼むわね。おばさんも出来る限りは協力するわ』

「ありがとうございます」

『それじゃあ、長電話して陽子にかんぐられでもしたらあれだし、そろそろ切るわね。おやすみなさい。がんばってね、梨奈ちゃん、涼太くん』

「「はいっ!」」

 私と涼太の声が重なる。そのことに陽子の母親はくすっと笑ってから電話を切った。

 電話が切れると同時にそろって大きく息を吐き出す。目的を達成できたことと、緊張から解放されたことで疲れがどっと出る。背にしているベッドにこのまま倒れこんで寝てしまいたいほどだ。それは涼太も同じようで背にしたベッドに体を預けて疲れた表情を浮かべていた。

「なんだか私の思いつき……というか、言い出したことでこれから大変なことになりそうだけど、なんかごめんね」

「いいよ。こういうことなら大変だろうと大歓迎だ。これから勉強がんばらないとな」

「うん。そうだねえ……」

 涼太は体を起こし、私の頭を優しく撫でてくる。私はそれを素直に受け入れ目を閉じる。

 今、この私のことを優しく撫でる手は私だけが独占している。それはこれから先も変わらないと思っている。私はそれを信じられるだけの時間を涼太と過ごしてきた。


 それなのにどうしてこんなにも胸の奥がざわつくのだろうか――。


「ねえ、涼太」

「なに? どうした?」

 涼太が頭を撫でる手を止める。それをちょっと残念に思う自分がいて、ちょっと可笑しかった。しかし、これから涼太に聞きたいことは笑えない話だ。だから、私は「なんでもない、呼んだだけ」と誤魔化ごまかした。さすがに今、陽子と仮に再会した後も私を選んでくれるよね、なんて口に出すことは出来ない。

「そうか? じゃあ、俺はそろそろ家に帰るわ。あんまり遅くなったら、うちの親も面倒だしさ」

 涼太がそう切り出してきたので私は玄関先まで涼太を見送りに行った。私は涼太の背中に小さく手を振る。




 部屋に戻り、壁にかかってあるボードに貼られている三人で写った写真に再び目をやる。

 今日、私がしたこととこれからしようとしていることは私の自己満足で、陽子に対する自分勝手な贖罪しょくざいなのかもしれない。後悔はしているが、今日をやり直せるとしても私は同じことをするだろう。

 この先、近い未来で涼太と進路が違っても関係は変わらないと言い切れる。そして、進路はおそらく一緒にならないだろうことも分かっている。もし陽子と同じ進路に私がなれば笑い合える自信はあった。ただ以前と全く同じようにとはいかないだろう。

 ただ陽子と同じ進路になるとしたら、陽子の第一志望と第二志望の大学とすべり止めに考えている大学を受ける涼太だろう。私が受ける女子大は滑り止めの滑り止めで、そこしか選択肢がない状態なら陽子は浪人を選ぶかもしれない。

 そして、この段階で涼太と陽子が同じ大学で、私だけが違う大学ということは決まったと言っていいのかもしれなかった。そうなれば、涼太とは今みたいに近所で気軽に会えることはなくなるかもしれない。遠距離恋愛だって覚悟しなければならない。


 そうなった場合、私は耐えられるのだろうか――?


 私は突然、胸の苦しさと息苦しさに襲われ、部屋の窓を開け、大きく深呼吸をし空を見上げる。

 私の感じる不安や苦しさがラムネの炭酸のようにすぐになくなればいいのにと思いながら、自分の選んで進む路の先が涼太と同じ路になり、陽子の進む路と交差しますようにという、自分勝手でわがままのお願いを夏の夜空に浮かぶ天の川にそっと流した――――。

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