第5話 変わるもの、変わらぬもの
構える。
足を開き、軽く膝を曲げ、脱力する。
風の気を練り、前方に掲げた掌に乗せる。
周囲の大気の流れを感じ取り、即座に対応するための構え。
「それでは、ゆくぞ」
5mほど離れた所にいた師匠が音もなく視界から消えた。
地精の反発を用いた歩法の奥義、縮地。
初動も終端も無音であるこの技に、目だけで反応することは不可能。
故に、大気の僅かな揺れから移動先を予測して即座に回避運動を取る。
――右方、上段突き。
右上腕で受け流す。またすぐに気配が消える。
――後方、前蹴り。
足捌きで左に半身を寄せ避ける。
――正面、裏拳回し打ち。
腰を落とし頭を下げる。
――直上、拳槌打ち。
落とした腰の反動を利用して後退。
――左方、左後ろ回し蹴り。
体を捻り、当て身に近い形で間合いを詰め、通り過ぎるように体を入れ替える。
考えていては間に合わない。
少しでも無駄な動きをすれば次で詰む。
最小の回避を感覚だけを頼りに行う。
その内に思考が意識から消え、攻撃を捌いているという緊張も消え、意識と大気が溶け合うような浮遊感だけが残される。
正面からの正拳中段突きを左掌で捌いた所で師匠が止まった。
「よしここまで。直撃なし、擦過六回か。まあまずまずといった所じゃろ。一応は
合格にしてやるわい」
呼吸とともに風の気を吐き出す。遠ざかっていた意識を呼び戻す。
「押忍!ありがとうございます!」
「やれやれ、こんな辺鄙な山奥に住んでおると時間の流れが早すぎていかん。鼻垂れのガキが、顔を泥まみれにして崖を登ってきたのが昨日のことのようじゃわい」
またひと回り体の小さくなった師匠が目を細めて言う。
師事して七〇年、その時間の中で一度も見たことのない顔だった。
「とりあえず駆け出しのガキに伝えられそうなことは一通り伝えた。長年引きこもっとる儂には里の外のことなど分からんから、今のお前の腕が通用するかは知ったこっちゃない。だからあとはお前次第じゃ。分かったらさっさと行くが良い」
そう言うと師匠はまた背中を向けた。思えばこの人の顔よりも背中の方が多く見てるんじゃないかという気さえする。なら、ひとまず記憶に残すのも、顔でなくこの背中であるべきだ。
「師匠、今の俺が外でやるべきことを全部やり終えたら、またこの里に帰ってきます。その時は、また続きをお願いします」
背中に向かって礼をする。師匠はもはや振り返ることもなく、手を厄介払いのように振るばかりだ。その姿を目に焼き付けて、俺は崖から飛び降りた。
村の広場では、二百数十年ぶりに里から降りる若者を見送るために、大人達が集まっていた。年を取り少し油が落ちた木こりのディンギルさん、何十年すぎてもほとんど見た目の変わらないイルメアおばさん達、鍛冶師のエルタ兄の方に半ば押しかけ気味に嫁いだダスティーさん。そのせいでエルタ弟も俺達と一緒に里から出ることになってしまったのはちょっと気の毒な気がしなくもないが、本人曰く「これ以上あのむせ返るような艶粘っこい空気の中にいたら気が狂う」ということなので仕方ない。
一人一人と握手を交わし、抱き合い、別れの挨拶をする。俺とエルタ弟はそれほど湿っぽくもなく、かと言って乾いているわけでもない別れの儀式を順当にこなしていったのだが、一人大苦戦してるやつがいる。
大人達の塊から少し離れた所で、エサに群がる獣のように村中のガキたちから組み付かれているエルフの少女、リミリディアその人である。つーかガキどもの泣き声がもうセミの大合唱みたいで物凄いことになっている。
「あーもう、大丈夫!お姉ちゃん、ちゃんと帰ってくる!ちょっと出かけるだけだから、皆の事忘れたりしな、どぅわっとっとあっぶな、いやもうホントに大丈夫だから、ていうか逆にこのままだと大丈夫じゃなくなっちゃうから、いったんはーなーしーてーぇ……!」
脚に絡まれ、背中に飛びかかられ、胸と腰にしがみつかれ、両腕を左右から引っ張られグルングルン回転してるリミは、そういう種類のオモチャか何かに見えてきた。子供の頃、母様に聞かされた旅芸人ってのは多分あんな感じなんだろうなあ。
「あっはっは大人気だなあリミ。俺達は一切懐かれないからなんか寂しいぞ」
「ノンキに笑ってんじゃないわよ、このままだとどうにもなんないでしょうが!いいから手伝ってー!!」
「だってよ、どうするミルミス」
ダークエルフは基本一人っ子なので、兄弟がいる場合だけセカンドネームが付く。ちなみに兄貴の方はガスティスという。
「いやー僕はマキア兄みたいに武術の修行とかしてないから、ちょっとあの数の無垢な暴力に手を出すのは無理かなあ。そういうマキア兄はなんとかしてあげないの?」
近肉達磨という表現がこよなく似合う兄のガスティスに対して、弟のミルミスは線が細く教養もある。仕草も性格も何から何まで正反対の兄弟だが、欠けた所を補い
合うように二人の息はぴったりだった。しかし兄貴が所帯を持った以上、いつまでもパーツの片割れではいられないというわけだ。
「俺もついさっき師匠からの卒業試験をクリアしたばっかで疲れてるからなーちょっとなー。稀代の天才精霊術師リミリディアさんならなんとかするだろ」
「アンタらあとで覚えてなさいよ!その稀代の天才の力、とくとその身に刻み込んでやるわ!」
などと和やかなやり取りをしばらく交わしているとガキ達も流石に泣き疲れたか、リミを取り囲んで座り込み鼻声を漏らすだけになった。リミはその頭を一つずつ心を込めて撫でて行く。青くてコロコロした石っころみたいなガキ達の真ん中で、一人
金髪で白い肌のリミだが不思議と違和感は感じない。里の外の連中が見ればまた違って見えるのだろうか。
「リミ、もうマルダさんとこには挨拶に行ったのか?」
「そりゃ朝一番に行ったわよ。と言っても導師とは定期的に進捗やら研究やらの成果を遠隔通話で報告することになってるから、そんなにお別れって感じはしないんだけどね。アンタもゴルヴァさんの方はもういいのね?」
「ああ。あとは……」
生まれ育った家を振り返る。
そこには、今日までこの里で過ごしてきた日常と何ら変わらぬように、穏やかに
こちらへ歩いてくる母様の姿があった。
足を肩幅に広げ胸を張る。右拳を左掌で包み前に掲げる。
また少し、肌が藍に近づかれた気がする。目尻の皺が少し増えたような気もする。
しかし、その瞳の黒の輝きだけは変わらない。変わることのない、母様だ。
母様の両手が、優しく慈しむように俺の両手に重ねられる。
「それでは我が子マキアよ。今日も一日、森の精霊に感謝を忘れず、何よりも強く
在りなさい。決してその心を忘れぬように、己の信ずるものを護りなさい」
「はい、母様!行ってまいります!」
こうして俺は生まれて以来、百二十年過ごした里を離れ外の世界に旅立った。
誰に言われたわけでもない、この俺自身の意志によって。
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