銭湯力

ここ何日か引きこもっていた。普段は外に出る性分だが、薄暗い部屋に一人。朝から何も食べてない。トイレに行ったのが最後、ベッドから降りずにいる。電気は付けたくない。家族は出払ってる。開いている窓から湿った匂いが漂う。朝から少しずつ、体が得体も知れぬ黒いものに覆われてきている気がする。

この気持ち悪さを洗い流したくなった。家の風呂で充分だとも思ったが新鮮な空気も吸いたくなった。

外に出る理由づけに銭湯に行くことにしよう。

玄関の鍵を掛けながら空は黒く分厚い雲で覆われていたことに気づいたが、雨の予感を他所に自転車にまたがった。

しばらく漕いでいくと上り坂に差し掛かる。途中まで進むとだんだん足が重くなっていく。ふくらはぎの痛みに我慢ならなくなって、諦めて手押しで登った。

私がよく行くのはスーパー銭湯みたいな所ではなく、地域密着型の、いわゆる昔ながらの銭湯だ。看板の文字が薄れて店の名前がよく見えない。こういう少しボロがキテるところが良い。

銭湯には、白いペンキから剥き出しになって錆び付いている鉄格子で囲われた狭い駐輪場がある。数台止まっていた自転車と自転車の間に無理くり押し込んだ。

鍵を掛け、ふっと力を抜くと、さっきより身体が重くなった。

番台に風呂代を払って脱衣所に入る。

脱衣所に設置してあるテレビからサクラと思われる笑い声が大音量で流れている。嫌でも耳に届く。

テレビを無関心で見ながらゆっくりゆっくり服を脱いでいく。服を脱いでも身体は重いまま。

木製の扉のない大きいロッカーを優雅に2つ使い、編み椅子にまで自分の荷物を広げていった。

中に入ると人はいなかった。私以外の服が置いてなかったから脱衣所で既に分かっていたが、人がいないのが目に見えたことで、ちゃんと実感することができた。

はじめの一歩で軟水が使われていることが分かる。ぬめりのおかげだ。石鹸とは違うぬめり、こすってみても取れないのが軟水の特徴だ。

軟水は良い。シャンプーはすごく泡立つし、何しろ化粧水と言っても良いくらい肌をコーティングしてくれる。

扉の側に積み重ねて置いてあるプラスチック製の風呂椅子と桶を1つずつ持って、角のシャワーの前に腰掛けた。

手動の熱湯と冷水をちょうどいい温度に調節してから、身体に掛ける。すると、一皮脱皮した感覚がした。身体にまとわりついていた黒い何かが流れ落ちていく。一皮どころじゃない、三皮くらいむけた気がした。

いちいち温度調節するのが面倒くさかったから、頭と身体を洗っている間も出しっぱなしにしていた。勿体ない気持ちはもちろんあるが、今日は時間をかけて洗いたい日だった。番台さんに心の中で一言謝った。

一通り流し終わり、湯船の前に立つ。まずは足先を入れて、温度の確認。とても熱い。足から熱さに慣らし、ゆっくり身体を浸けていく。全身がカッと熱くなり、血が全身に巡り、指先から爪先までピリピリと痺れてくる。

頃合いを見計らい、浴場から出て、身体を拭き、服を着ていく。優雅に広げた私物はそのままに、20円ドライヤーで髪を乾かしながらカルピスを飲む。

この銭湯には牛乳がない。もちろん、コーヒー牛乳もフルーツ牛乳もない。普段からガラガラだから仕入れることができないらしい。

大音量のワイドショーを観ながらカルピスを飲み干し、温かい身体のまま脱衣所を出る。

この銭湯の売りを言うとすれば「寝るまで湯冷めしない」だろう。身体はずっと熱いままだ。身体に覆われていた黒い何かの正体は、熱さに対する欲求不満だったのかもしれない。

外へ出ると、さっきまでの黒く分厚い雲はどこかへ消え、夕日が迎えてくれた。

帰りは大きな坂をブレーキ無しで全速力で下る。スピードが速すぎて漕いでもペダルの抵抗がない。怖さとドキドキと少しの興奮を覚えた。

風が肌に当たる、身体の内側の熱さと風の冷たさが心地良い。この気持ち良さを味わうために銭湯に来たのだろう。

これこそ私の求めていたものだ。

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日日 浮遊 @yuyake2you

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