第十九章 前夜(5)
五
――古島さん、しっかりして! ダメだよ、古島さん、死んじゃダメ! もう、私を一人にしないで、お願い……。
「古島……さん……」
古島を助け起こしながら目が覚めると、恵美はちゃぶ台に突っ伏して寝ていた。黄八丈の着物の袖が涙でしとどに濡れていた。
恵美は頭を起こして振り返り、時計を見る。大きなのっぽの古時計は朝七時を指していた。この振り子時計は夜には時報を打たないように設定している。うっかり寝ている間に、日付けが変わって朝になってしまったようだ。
部屋の照明を少し暗くしたことで、ついあんな夢を見たのかもしれないと思いながら恵美は立ち上がり、着物の乱れをしゃんと直してから、壁に懸けられた小さな鏡の前に立った。眠っている間に泣きはらした顔には、普段のりんとした涼やかさがない。
「やだ、何て顔してんだろ、私……」
恵美は一瞬苦笑いを浮かべ、ハンカチを軽く当てて、目もとに残った涙を吸い取らせた。
次に、その鏡の隣り、柱に掛かった日めくりカレンダーをしばらく見ていた恵美は、やにわに一枚をめくり破り、さらにもう一枚をめくって、現れた「五」という数字をわざと口に出して言ってみる。
「四月五日、衝突記念日」
それから、その「五」をちらりとめくってみる。「六」があった。
「あるじゃない……」
当たり前のことを恵美がつぶやいた時、「カアー」とカラスが鳴く音がした。
――えッ、誰?
恵美が驚いて、台所への入口にかかる縄のれんの横にあるカラーモニターに警戒の目を向ける。エレベーターの上方からと前後の隠しカメラから撮影された侵入者の姿は、三浦杏児のそれだ。恵美は目を見開き、手で口元を隠して鋭く息を吸った。
「古……三浦さん!」
恵美は土間の先にある扉に慌てて駆け寄って行った。チン、と音がしてエレベーターの扉が開く。乗っていたのはやはり杏児だ。
「うわッ」
扉が開くと目の前に恵美が迎えに出ていたので、杏児は少なからず驚いた。
「お、お帰りなさい、三浦さん」
恵美は嗚咽が込み上げてくるのを必死でこらえながら、軽く腰を折ってお辞儀をした。
「え、恵美さん、ただいま」
お辞儀から直りながら杏児を見上げて、古島に生き写しのような杏児の目もとを見ると、恵美は自分の目がみるみる潤むのをもはや抑えることができなかった。
「無事に帰国したのね。首尾はどうだった? 撃たれた足は? ああ……とにかく帰ってきてくれて、すごく、嬉しい」
抱きつきたい衝動に任せ、
その恵美の両肩を杏児がいきなりがっしりつかんだので、恵美はビクリと身体をこわばらせた。
「恵美さん、訊きたいことがあるんです」
恵美はおずおずと杏児を見上げる。帰って来るなり、ろくに事情も話さずに、勢いづいた杏児の性急さが恵美に妖しい胸騒ぎを覚えさせた。
「な……何」
杏児は華奢な恵美の肩をつかんだまま言い聞かせるようにわずかに前後に揺すった。
「恵美さん、ちづるは、死んだのですか? それともこのラボにいるのですか」
恵美の肩を揺らしながらそんな問いを発した杏児を、恵美はうらめしそうに見上げた。そこへ杏児がさらに訊くのだ。
「小村、小村ちづる。僕と一緒に発見されたはずだ。恵美さん、あなたは全て知っているのでしょう?」
杏児のその一言を聞いて恵美は悟った。杏児は、ニューヨークへの往復旅程のどこかで、何らかの事情で、自分がどうしてここへ運ばれてきたのかを知り得たのだろう。
幾度となく上半身を揺すぶられる恵美は、今度はうつむいたまましばらく無言で考えていたが、口を真一文字に結ぶと、杏児の目をしっかり見据えて答えた。
「先日も言いましたが、小村ちづる、などという人は、リンガ・ラボの検体群には存在していません」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます