第十六章 使命(17)

十七


「一人で、飛べるよ」


 そこそこ飛んだところで【wish】はそう言って、自分を抱きかかえている杏児の手をゆっくり振りほどいた。なるほどこのワーズも、普通に飛ぶことができていた。


「エネルギー・レベルがはるかに小さいから、あんたたちヒューマンのように長時間は飛べないけど」


「助かるよ」


 杏児はそう言ってから、並んで飛ぶユキをちらりと見た。疲労をその顔に色濃くにじませている。高所恐怖症の恐怖に耐えつつ、懸命に飛んでいるユキには、もう「大丈夫か」などと安っぽい言葉をかけられない。


 杏児は【wish】に聞いた。


「で、どうする?」


「……」


【wish】が黙っているので、杏児も続けるべき言葉を失った。


「……」


 数秒間、三人は平泳ぎのように黙々と空中を掻いた。


「……とりあえず、会う……」


【wish】がそうつぶやくと、今後は杏児が沈黙せずにすぐに問い返した。


「会って、どうする?」


「……分からない」


【wish】は本当に当惑しているようだ。杏児はゆっくり噛んで含めるように【wish】に語りかける。


「いいか、四時半から、国連総会議場で、リアル・ワールドの万三郎がスピーチを始めるんだ。今から直行して、ぎりぎりのタイミングだ……」


 飛びながら【wish】は、杏児の目をしっかり見すえ、反論した。


「それについては、あんたたちに何の約束もしない。僕はひとりで【bad!】のところに戻るかもしれない。それどころか【hope】を連れて【bad!】のもとへ行くかもしれないし、どちらの側にも行かないかもしれない……」


「そんな……」


 茫然とする杏児。するとユキが【wish】に目を向け、口を開いた。


「私たちが最後に【hope】に会ったのは、七番街、五十三丁目の辺りよ。あなたたち双子なんだから、会ってよく話し合うことね。お互いの誤解を解く。それが一番!」


 ユキは【wish】に向けて、顔をひきつらせながらもわずかにほほ笑んだ。


「『【hope】を……総会議場へ連れて来い』って、言わないの?」


 怪訝な顔をする【wish】にユキは言った。


「I wish you good luck.(幸運を祈ってる)」


 ことだまワールドの総会議場の前には、ワーズの人だかりができていた。リアル・ワールドでは今にも万三郎のスピーチが始まるというのに、救国官たる二人がいまだ会場に到着していないのだから、不安でざわつくのも無理もない。


「あっ、来た! あれだろ」


「本当だ。確かに三浦さんとユキさんだ」


「【hope】は?」


「見当たらない。だめだったのか……」


「……って、【hope】がいないのに『タッチ・ハート作戦』、どうやって遂行するんだ?」


 ワーズたちの指摘通り、二人の救国官は【hope】を連れ帰ることなく皆の前に降り立った。


「急いで! もう始まりますよ」


【information】が急かすのを、杏児が手で制した。隣のユキが、着地と同時に前に倒れこんだからだ。


「ユキさん!」


 ワーズたちは、地面に突っ伏したユキとその傍らの杏児を丸く取り囲んだ。杏児が皆を見回して言う。


「僕も飛行中、リアル・ワールドに意識を向けていた。確かに急がなくちゃいけないけど、まだ万三郎は待合室にいるようだ。みんな、あと五分、いや、一分だけ待ってくれ」


 そして杏児は片膝をついて、突っ伏したまま肩で息をしているユキに小声で話しかけた。


「いろいろ見てきたことを僕はまだ整理できない。ただ、気分はよくない。君が僕と万三郎に嘘をついていたことは確かだからだ。ユキ、君がいったい何者なのか、君をどこまで信用していいのか、分からない。だけど、今は……力を合わせて作戦遂行にベストを尽くす」


 ユキはしばらく沈黙してただ呼吸に合わせて背中を上下させていたが、やがて杏児と顔を合わせることなく答えた。


「……それでいい。責任は後で取るわ」


 杏児はそれを聞き届けると立ち上がった。


「ようし、みんな、一世一代の大勝負だ。総会議場に入ろう。マスメディア用の部屋から、会場内の各席へ飛んでくれ。行こう」


 杏児を先頭に、ワーズたちはぞろぞろと建物内に入っていった。

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