第十二章 騒乱(21)

二十一


「おい万三郎、行こう!」


 杏児に急かされ、万三郎も我に返る。その万三郎の後ろで【bad!】がむくりと起き上がった。サングラスはとうに外してしまっているし、金髪のズラはすでにどこかに飛んで行ったようだ。スポーツ刈りの大柄な男が、まず赤いワンピースの裾を自ら引き裂いて脚を動きやすくしてから、鼻の穴を指先で拭った。拭ってもなお、どろりと血が流れ出るのを確認してから、その鋭い眼光を目の前にいた万三郎に向けた。ある意味、阿修羅よりシュールで恐ろしい光景に、万三郎は総毛立った。


「あ、あ、杏児……早く! 行こ行こ行こ!」


「おのれらァ!」


 【bad!】は足元にあったワイヤレス・マイクを拾うと、力任せに万三郎に向かって投げつける。万三郎は瞬間的にかがんでマイクをやり過ごし、そのままステージから飛び降りた。


 そのマイクは、ステージに突っ伏して顔をしたたかに打ち、ようやくよろよろと立ち上がった祖父谷の顔面に直撃した。祖父谷は両手で顔を覆い、うーんと唸って再びステージに没した。


 万三郎と杏児は、ドライアイスの煙で足元がよく見えない中、聴衆が逃げ出す時に配置が乱れた椅子に躓きながらも、やっとのことで会場を抜け出した。


「おいッ、お前ら、あいつらを捕まえろ!」


 【bad!】に言われて我に返った男たちは、ステージを飛び降りて二人の追跡を開始した。【bad!】自身もそれに続く。


「【hope】の、バカヤローッ!」


 涙声で叫んだのは、為す術もなくステージに立ち呆ける【wish】だった。


 万三郎と杏児は、ユキや【hope】と合流しようと、先を争うようにエスカレーターを二階に駆け上がって行く。そしてそれを四人の男たちが追いかけてくる。


 万三郎が叫ぶ。


「ユキ、走れる?」


 二階でユキが立ち上がった。


「痛くて脚、あまり上がんないけど……一応」


「よし、逃げよう」


 ユキと【hope】を取り囲んでいた無数の野次馬たちは、エスカレーターを駆け上がってくる屈強な男たちの姿を認めると、パニックになって蜘蛛の子を散らすように逃げまどい始めた。


 そんな中、万三郎と杏児が合流、【hope】を含めた四人は、吹き抜け回りの廊下に沿って走る。


 前方には【crutch】(松葉杖)がいた。【crutch】が持つ一対の松葉杖のうちの片方、自慢の最新型松葉杖の先端部分の収納がうまく行かず、床に座り込んで、懸命にメンテナンスしているようだ。さっき、ユキがロープを引っかけて手繰り寄せた時に壊れたのかもしれない。


「あ、ユキさん……」


【crutch】が顏を上げた瞬間、メンテナンス中だった松葉杖は、先頭を走ってきた万三郎に蹴飛ばされて、ブンブン回りながら数メートルも前方にふっ飛んだ。そのあおりで先端部のクリップは完全に吹き飛んだ。


「あ……ごめん!」


 万三郎は顏だけ後ろを振り返って、唖然としている【crutch】に謝った。


 次を走っていた杏児が、その松葉杖を拾い上げた。


――武器になるかも……。


「使い物にならないだろうから、もらっていくね」


【crutch】は、相変わらずそこに座り込んだまま唖然としていた。


 先頭の万三郎は、エレベーター扉の前に到着するや、下ボタンをカチャカチャカチャと何度も押した。


「早く……早く!」


 四人が固まってエレベーターを待っているところに、奴らがやってくる。


 そのとき、こちらを向いてぺたりと座り込んでいた【crutch】が、急に我に返って、傍らの、もう片方の杖を手に急に立ち上がった。そしておそらく、すべてがうまくいかないことへの怒りによる暴れ始めのアクションだったのだろう、その杖の、先端部分の方を両手で持って、虚空に振り上げるや、野球のバットを振るように、ブンと勢いよく振り回したのだ。


「うがあ!」


 これまでのおネエのような声音ではなく、野太い、男のそれだった。最初ユキの前に近寄って来た時のような、松葉杖の助けを借りた、よたよたとした足取りとは対照的に、【crutch】は力強く両足を踏み込んで、フルスイングで松葉杖を振りぬいた。


 結果その杖は、万三郎たちを追って【crutch】の脇を一列に通り抜けようとしていた男たちのうち、先頭の一人の顔面に高速で喰い込んだ。その勢いで男は大きく後ろにのけぞった。そこへ二人目、三人目、四人目が相次いで激突した。大惨事だ。


「あの人、やるわね」


 ユキは【crutch】を振り返って感心することしきりだ。

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