第十二章 騒乱(19)

十九


 ユキが頭を抱えたその時、後方階下から複数の男たちが言い争う声が聞こえてきた。


「いやだ! やめろッ!」


「おい【bad!】、【hope】に手荒なことするな!」


「止めろ! 放せ、クソッ!」


「【hope】! おとなしく僕らと行こう」


 誰が何を言ったのか、にわかに判じ難かったけれど、ユキが見ると、聴衆が逃げて、人気ひとけがなくなったアトリウムのステージの上で、赤いワンピースの女が、半ズボンの子どものうち、一人を後ろ手に取っていて、それを見ているもうひとりの男の子がその傍らに立っていた。女に自由を奪われた方の子どもが暴れ、騒いでいる。その傍らで、万三郎と杏児がそれぞれ男たちに組み伏せられていた。そこへひたひたと迫りくる白い毒ガスの流れ。


「万三郎! 杏ちゃん!」


 ユキは三たび走る。


 そこにいた【crutch】が振り返る。


「あ……ユキさん」


 ユキは、【crutch】の向こうのエスカレーター昇降口にまだ群衆がひしめき合っているのを認めた。


「それ貸して!」


【crutch】から最新式の杖を一本、半ばひったくるように受け取って、手すりから身を乗り出しながら、その松葉杖の先端を吹き抜けの空間に差し出した。


 吹き抜けの天井からシャンデリア状に垂れ下がる何十本もの装飾ロープには、フェイクの桜の花びらが多数あしらわれている。


 ユキが目一杯松葉杖を伸ばしたその先に、二階廊下の天井と三階廊下の床の境い目に固定されているそれらのロープのひとつが弧を描いて一番低く垂れている部分があった。


 うまく松葉杖に絡んだ。松葉杖を手前に引くと、ロープが手元に寄ってくる。ロープを手に、乗り出した身体を戻し、松葉杖を放り出してユキはロープを手繰り寄せる。最後には、頭上に固定された部分を力任せにグイっと引っ張った。つなぎとめられていた所がブチッと外れる。そのロープの端を手に、ユキは一度大きく深呼吸した。


【crutch】が叫ぶ。


「や、やだユキさん、まさか……」


 慌てる【crutch】を無視してユキはグイグイと二、三度引っ張ってロープの強度を確認すると、ロープを両手でつかんで、体重を預け、斜め後ろに勢いよくジャンプした。


「ユキさん、待って! あの――」


「待てない!」


 廊下の上一メートルに浮いたユキの身体は、ロープに引かれて吹き抜けの方向へ加速度を伴って戻り始める。ユキの両足は手すりの上に斜めに着地した。そこで勢いを和らげるようにいったん膝を折ると、足先を支点に身体が引き起こされる。ロープを手繰りながら、ほど良いタイミングでユキは曲げた脚をばねのように弾けさせた。さっきより高い位置の後方空間へ、身体が振れる。ところが、振れきったところに立っていた【crutch】が向こうを指さしてユキに叫んだのだ。


「エレベーターが来たのよ!」


「ええーッ?」


 左右の脚を揃えて水平に伸ばしきった瞬間、ユキは【crutch】と一瞬目が合ったが、もう遅かった。目一杯後悔しながら、ユキは吹き抜けに飛び出して行った。

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