第九章 危機(9)


 その石川は、二時間後、首相官邸から少し離れた、都内民間病院高層病棟の最上階にあるVIP用待合室の大窓からひとり、街を見下ろしていた。


 春先の小雨は路面を艶めかして、カラフルな傘の小花を躍らせている。自動車やバスやトラックも、秩序正しく動き、止まり、曲がっていく。そこには一見、日常と変わらない街の姿があった。


 日本人というのはつくづく真面目な民族だと石川は思う。この星が直面している真実について、確かに日本政府は何も発表していない。だがもちろん、アマチュア天文学者や、ジャーナリストや、インターネット上の扇動家に端を発した様々な噂は、信ぴょう性の高いものとデマがごちゃまぜになって、すでに国民の大多数が知るところとなっている。


 日本に限らず、世界各国の政府や国際機関が情報隠蔽疑惑を疑われていて、インターネットを介して、不穏な空気が世界中に共有されているのだ。


 情報統制をしている国はもちろん統制を強化して不穏な情報を封じ込めようといるし、独裁国家では、すでに軍を総動員して治安の維持に努めている。それらの国々では不信が即座に不満と結びついて暴動に発展するからだ。


 これらの国々を含め、政府に対する民衆の不信は、世界のどの国でも予断を許さないほど高まっているのだ。


 実はアポフィスは破壊されていなかったのではないのか。アポフィスもしくは未知の小惑星が近く地球に衝突するのではないのか? 政府はなぜそれらの噂がデマであることを裏付ける証拠を提示しないのか。


 テレビもラジオも連日途切れることなく噂を検証し続けている。その影響で大衆の不安があおられ、水、食料品、日用品、ガソリン、電池などは、すでに入手困難な状況になっていた。


 また、学生たちが春休みに入っていることもあり、国会議事堂前では、連日大規模なデモが行われている。シュプレヒコールは日増しに激しくなってきていた。だがそれでもこの国では、それが暴動にまでは発展していなかったし、この機に政府に揺さぶりをかけようとするテロも発生していなかった。


 もちろんそれは、警察が主要施設の警備を強化していることや、政府関係者が各方面で不安の鎮静化に全力を挙げているためでもある。


 実際、金融証券部門については、世界各国政府で歩調を合わせた、秘密かつ空前の大規模市場介入によって、株価の暴落をかろうじて食い止め得ているし、日銀も特例的に市場銀行に無制限に現金を貸し出し、取り付け騒ぎの火種を断固として抑え込んでいた。


 だが、治安がぎりぎりのところで保たれている何より大きな理由は、それ以外の社会が普通に機能している事実だろう。行政機関は動いているし、大企業も多くは通常業務を行っていた。


 一億二千五百万の人口を擁するこの経済大国が、比較的冷静な状態を保っているのはまさに奇跡だと、細かい雨粒に曇る摩天楼を見ながら石川は思った。


 歩行者信号が青になったのだろう。いくつもの傘が横断歩道を行き交っている。遠くに雲の切れ目が見え始めた。たそがれ時には雨が上がり、陽が差すのではないだろうか。


 その時、セキュリティーのしっかりした奥のドアが開き、古都田誠が待合室に入ってきた。


「石川さん、お待たせしました」

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