第九章 危機(1)



「やあ、遠くからお呼びたてして申し訳ない。石川くんを呼ぶ前に、あなたに確認しておきたかった」


 部屋へ入ると、なじみの切れ長の目をした男が笑顔でそう言いながら正面から歩み寄ってきた。


 男にお辞儀をした時、ワイシャツの上を滑る上着の抵抗が緩く感じられ、内村鑑三郎は往時より自分が痩せたことを再び実感する。一度目は今朝、家を出る時だった。すっかり袖を通すことの少なくなったスーツの肩が落ちたような気がしたのだ。


 内村はふと思う。


――俺は今、みずぼらしく見えていないか。


 そこで、腰を折ってお辞儀をした後、意識的に胸を張って現役時代の威厳を演出してみた。


 視界の隅に毛利の姿が入った。


 内村を案内して先に入室した毛利正文もうり まさふみ官房長官は、そのまま部屋の脇に居流れていた。官邸ヘリポートまで迎えに出ていた彼と握手を交わした時にも思ったが、こうして室内に入ってこちらに顔を向ける彼に目をやれば、やはりテレビで見るより顔色が悪い。日々の激務に加えて、取り組むべき重要な案件がたくさんあるのだろう。そして、自分もその取り組みの一環で、山梨県の山奥からわざわざ呼び出されたのであろうことは想像に難くない。


「内村さん、疲れていませんか」


 切れ長の目の男が握手を求めながらそう訊いてきたので、内村は毛利から男に向き直って、握手に応えながら言った。


「山梨県庁からこんなに早く飛んで来られるのですね。あっという間でしたので疲れてはいませんが……もう引退して四年にもなる老いぼれに、このお呼び出しは大そうな刺激ですよ」


 男は手を握ったままもう片方の手を内村の背中に添え、身体の向きを変えて内村をソファーへと促した。


「はは、内村さん、老いぼれと申されますな。いまだ後輩の高級官僚たちがあなたの見解を伺いに、ご隠居先の山村まで度々押しかけているというじゃあないですか。老いたる馬は道を忘れずという。皆があなたを慕い、現状打開のヒントを乞うておるのでしょう?」


「いや、さすがに最近はそういうことも減ってきました。年寄りと釘の頭は、本来、引っ込むのがよいのですよ」


 そう答える内村を座らせた男は、テーブルを挟んだ向かいの椅子に回り込んで腰を下ろす。毛利官房長官も男の隣に座った。


 内村は表情を引き締めて、向いの男が腰を下ろすなり尋ねる。


「それよりも、明日で三月も終わりです。今年は本予算こそ早くに成立して、めでたい限りですが、年度末ですのに国会も審議停止、加えて国会議事堂や官邸周りはこのデモ。ヘリから見ましたがかなりの人が集まっていますね。大丈夫なんですか?」


 部屋の扉脇には秘書官と思われる若い男が一人だけ立ち、他の人間は部屋から静かに出て行った。入れ替わりに、お茶を載せた盆を掲げて官邸職員が入室してくる。


「そう、それらの対策でこの後の予定が押しているので、単刀直入に本題に入りたい。内村さん、私にもお力をお貸しいただきたいのです」


「大泉総理、いったい何事ですか」


 職員の女性が手際よくお茶を出し終えて引き下がるのを待ってから、内閣総理大臣大泉万三郎おおいずみ まんざぶろうは、内村の問いにゆっくり答えた。


「あなたが東京に残したアレで、ひとつ、世界を救ってはいただけませんか」

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