6 初恋
夜。カタカタとパソコンのキーを打つ音だけが辺りに響く。それは自らが発するもののみで、気づけばここに残っているのはわたしだけ、ということだった。
私の勤める学校はいわゆる歴史的に伝統ある学校で。しかし、数年前大々的に取り壊し建て替えたことで近年の大学キャンパス並に綺麗になっている。建て替える前は所々コンクリートがひび割れ、木質の床も欠けている所が目立っていた。転勤直後はなんて古い学校に来てしまったんだろうと少しガッカリしたものだが、綺麗になって空調も完備された今は今で、あの頃の古き良き雰囲気もよかったなぁと思う。
さて、と、私は準備し忘れていた資料を取りに席を立つ。冷房完備された職員室から出ると、雨上がりの湿度の高い、それでいて気温の高い夏の何とも言えないまとわりつくような空気が全身を撫でる。
学校には誰もいないと言うことを考えると少々身震いしたが、気にしないようにして資料室へ向かう。
資料室は何故ここだけ残したのか、と皆が口々に言うその通りの、今の校舎から渡り廊下を渡った昔の建物の一室にあった。
古びた引き戸を開き中に入り蛍光灯のスイッチをさがすが見当たらない。差し込む廊下の照明が暗い資料室を僅かに照らす。仕方なくもう一、二歩中に入るとカツンと何かを蹴飛ばしてしまった。慌ててその行方を追い拾うとそれは我が校の校章バッチだった。
「あ、先生!それ私のなんです!」
指先で校章バッチをつまみ、眺めていると背後で声がした。誰もいないはずなのに、とドキリとして振り向くと、そこにはちゃんと我が校の制服を着た少女がキラキラした目でこちらを見ていた。
「あ…君は…まあいいか。これ、君の?」
どこかで見たことはあるような気はするが名前は出てこない。たぶん二年生だろう。最近流行りの大きなレトロ風な眼鏡と綺麗に切り揃うボブショートの髪が「はい!」と縦に揺れる。校章バッチを差し出すと小さな手がそれを受けとり流れるように胸ポケットの所定の場所に付けられた。その様子を見ていると胸ポケットにはもうひとつ何かがついていることに気付いた。
「それ、第二ボタンか?」
私がそう指摘すると少女は顔を少し赤らめて笑った。
「そうなんです!先輩に…もらったんです!」
ふふっと微笑みながら胸ポケットに光る詰め襟のボタンを撫でる。
「……さ、帰りなさい。もう遅いから」
薄暗さに目が慣れてきたのに少女の顔に焦点が合わなくなってきて私は疲れたのか早く資料をとって職員室に戻らねばと少女に背を向けて帰宅を促した。
「……そうですね。ありがとうございました。先生、先輩に似てるから…つい、話しかけちゃいました。それに、ここは、先輩に会える場所だから……」
少女の言葉に一瞥をくれると、少女はにっこりと笑って、詰め襟のボタンを胸ポケットから外し両手で包んだ。
「会える場所?」
今度はしっかり振り返った。しかし、少女の姿は忽然と消えていた。
背筋に冷たいものを感じた瞬間、押してもいないのに資料質の蛍光灯が光を点した。眩しくて目が眩む。
「……あ」
眩む目に一つの額縁が映る。
何代目であろうか。歴代校長の額縁の中によく知った顔があった。
祖父だった。
忘れていた様々なことが甦る。
まず、少女の制服が、今は廃止になった旧制服で、さらに校章バッチが刺繍でないと言うことは相当昔の制服であるということ。もちろん、男子生徒の制服が詰め襟だった時代も相当前である。
また祖父がこの学校の卒業生であり、教師と校長まで勤めあげたこと。
幼い頃に少し痴呆の出てきた祖父が何度も学生時代の青春を話してくれて、その中に第二ボタンをある下級生の女の子にあげたことや、もちろん、祖父も好意を抱き、写真まで撮っていたのを見せてもらっていた。
その後は戦争などでうやむやとなり、祖父は私の祖母となる人と結婚した。
若き日の全てが、淡く叶わぬまま弾けた泡のような、それでいて、輝く星のようにかけがえのない思い出であった。
少女は今でも、胸ポケットに誇らしく、初恋を飾っているのだろう。
この古い校舎の中で。
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