第3話 Marika
私は足元に置いた大きなバッグをよいしょっと肩にかけ、まだ半分以上残ったコーヒーの乗ったトレイを手にした。このコーヒーは別に飲みたかったわけじゃなくて、ただ指先を温めるのに何かが必要だったのと、長いこと席を借りていることに対する対価を支払う必要があると思ったから買っただけ。開封すらしていない袋入りの巨大なクッキーはバッグの中に押し込んだ。
泊めてもらえませんか、なんて初対面の男の人に頼むなんて、自分でも思ってみなかった。家出してきたのは本当だけど、しばらくの間安いホテルにでも泊まるつもりで貯金も下ろしてきたのに。
なんでこの人に声をかけたんだろう。思い返してみる。
一目見て、清潔そうな人だと思ったから。それに、どこか人恋しそうに見えたから。そう感じたのは自分を投影したせいだけじゃない気がした。
「それ、持ってやるから貸して」
差しのべられた手にトレイを差し出す。
「それじゃなくて、そっちの重そうなやつ。持ってやるから」
大した物は入ってないけど持ち逃げされたら嫌だなって一瞬思って、でも、もしも殺されて死んじゃうんだったら荷物もいらなくなるのかと思い直してバッグを預けたら彼の体が大きく傾いだ。近付いた体から、微かに柑橘系の香りがした。
「……マジで重いな。何が入ってんだ、これ」
「夏期講習のテキストとか、問題集とか」
「は?」
目の前の男がポカンと口を開ける。
「アンタ、家出するのに勉強道具持って来たの」
「……悪いですか」
「いや、悪くはないけど」
彼はさっきまでとは違う、心配そうな顔でこっちをのぞき込む。
「おいで」
帰れと言われたときとはずいぶん違う優しい声に戸惑いつつも、彼の後について歩く。好奇の視線がまとわりつき、ちぎれていった。
太陽が傾き、歩道は建物の陰におおわれて幾分涼しくなっていた。もうすぐ秋が来るんだよ。そう教えるように西寄りのぬるい風が汗を乾かしていく。荷物の重さをものともせず、さっさと大股で歩く男に遅れないように時折小走りになりながら着いていく。横断歩道の信号待ちでようやく隣に並んだ。
「あの」
「なに」
不機嫌そうな声が帰ってくる。並んでみれば随分高いところに彼の目があった。
「名前、教えてください」
「コウイチ」
信号が青に変わる。周囲の人々に押し出されるように横断歩道に踏み出す。向かい側からやってくる人にぶつからないように右に左にとよけながら歩く。
人ごみを歩くたびに思う。どんなに混み合った人ごみでもまっすぐに歩く人と、たいして混雑していない場所でも隅へ隅へと押しやられる人は生まれつき決まっているのだと。
ぶつからないように歩くことに集中していたせいでコウイチの後姿を見失ったことに気付いたのは、横断歩道を渡り終えた後だった。左右を見回しても、それらしき姿は見えなかった。目の前にあるのはお尻の高さまでブロックを積み上げて作られた土台に柘植が植え込まれた境界壁だけ。
私の人生なんて所詮こんなものか。
そう思ったら体中の力が抜けた。ブロック塀に寄りかかる。
やっぱり、家に帰ろうかな。
そう思って顔を上げたら、にやにや笑ってるコウイチがいた。
「驚いた? アンタ歩くの遅いからはぐれたら困ると思って途中から後ろに回ったんだけど、分からなかった? それにしても、歩くのへただね。よけてばっかでさ」
そんなの、言われなくてもわかってる。私は道を譲る側に生まれついた人間なのだと思い知らされたのは今日のことではないのだから。唇を固く引き結んで見つめ返す。
イジワル。
そう言ってやりたかったが、声にはならなかった。
「こっちだ」
道を左に折れ、川沿いの細い道を十分ばかりたどるとアパートやマンションが建ち並ぶ一角に出た。少なくとも五階以上はあると思われる白いタイル張りのマンションの入り口をくぐる。エントランスには自動販売機と応接セットのようなテーブルとイスがあった。コウイチがオートロックの暗証番号を押しエレベーターホールへの扉を開ける。ちょうどエレベーターから降りてきた中年の女性が訝しそうにこっちを見た。
「こんにちは」
「こんにちは」
「生徒さん?」
「いえ、違いますよ。親戚の子です」
コウイチが嘘をついた。
当たり前か。
さっきコーヒーショップで出会ったばかりの未成年の女の子です、なんて言えるはずがないよね。
「ああ、そうなの」
中年の女性が私を見つめる。頭のてっぺんから足のつま先までという表現そのままに、じろじろと、遠慮なく。いたたまれなくなった私はとっさに言い訳をした。
「両親が海外旅行に行くことになって。私一人で留守番だといろいろ心配なので、無理を言って叔父の所でお世話になることになったんです」
半分本当で、半分は嘘。でも、丸っきりの嘘でない分、言葉は自然に流れ出た。
「あら、そうだったの。そうよねえ。最近はいろいろ物騒だから、女の子が何日も一人で留守番するなんてあぶないわよねえ」
それでは、と女性は去っていき、後には憮然とした表情のコウイチと私が残された。
「おい、アンタさ、あんなこと言って、どういうつもり。泊まるのは今夜だけじゃなかったの」
「……ごめんなさい。なんか言ったほうがいいかなって思って、つい。両親が海外に行っちゃったのは本当だし」
コウイチがため息をついた。
「で、ご両親はいつ帰ってくるの」
「五日後、です。ごめんなさい」
「もういいから。いちいち謝るな。いくぞ」
「はい」
コウイチの部屋は二階の真ん中にあった。見た目よりは軽そうな金属製のドアを開けると一メートル四方の土間があり、そこから十字の廊下が伸びていた。廊下はドアを開け閉めするのに必要なスペースと人ひとりがやっと通れるだけの幅を残して、物に占拠されていた。小ぶりの段ボール箱が三つと四十五リットルのごみ袋が二つ。半透明のごみ袋の中には色鮮やかな布がたくさん入っていた。
「これには触らないで」
そういって、彼は廊下に邪魔なものなど存在しないかのようにすたすたと奥に進んでいく。慌てて靴を脱ぎ、鍵はかけたほうがいいのかなと迷ったけどそのままにして気を付けながら歩いた。正面にある真ん中に長方形の型ガラスをはめ込んだドアの向こうはリビングで、毛足の長いラグの上にソファとガラステーブルが、そして奥の窓際にテレビがあった。殺風景なほどにすっきりと片付いた部屋だった。コウイチはリビングの左隣りの和室に私のバッグをドサッと下ろした。マンションサイズの畳が六枚敷かれたその部屋は、がらんとしていた。
「この部屋使っていいから」
「あの、本当にいいんですか」
「何が」
「ここに泊まっても」
彼の顔に、ア・キ・レ・タ、と文字が浮かび上がった気がした。
「今更、何を言い出すかと思えば」
コウイチは冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを二本取り出すとそのうちの一つを放ってよこし、ソファにどさっと腰掛けた。
「ホントはさ、家出少女を保護しましたって交番に連れて行こうと思ったんだ。だけど」
彼はそこで言葉を切るとペットボトルのキャップをひねり、水を一口飲んだ。
「勉強道具抱えてまで家出してくるって、よほど何かあるんだろうなって。誰かに話して楽になるんなら聞いてやるから。それに……まあいいや」
彼はまた一口水を飲んだ。私はペットボトルを持ったまま、立ち尽くす。それに、に続く言葉は何だったのだろう。
「話したくなったらでいいから。それから」
コウイチは手招きしてキッチンの方に向かった。和室とはリビングを挟んで向かい合う位置にダイニングがあり、奥が対面キッチンになっていた。キッチンの入り口の右側にあるドアを開けると、玄関から十字に伸びていた廊下の一つに繋がっていた。
「ここが洗面所と風呂」
そのまま右に進んで玄関とリビングを繋ぐ廊下を横切る。
「ここがトイレ」
玄関の真横にある左のドアを指さす。
「それから」
正面のドアに背をもたせ掛け向き直ったコウイチが真剣な顔で言った。
「このドアは、絶対に開けるな。絶対、何があっても、だ」
いつか読んだ昔話を思い出す。
「開けたら、ここが野原に戻っちゃうとか?」
コウイチが何かを思い出してふっと笑った。
「いや、違う。アンタの死体がこの部屋にぶら下がることになるんだ」
「青ひげ?」
「そういう事にしておこうかな。ところで、アンタのことは何て呼んだらいい?マリカ?」
両親や友達にはマリって呼ばれてたけど、彼の口から発せられたマリカって響きが気持ちよかったからそのまま頷いた。
「あなたのことは何て呼んだらいいですか。コウイチさん?」
「それでいいよ。さっき下で会ったおばちゃんにまた何か聞かれたら、僕の兄の子だってことにしといて」
「お兄さんがいるんですか」
「隣の県に住んでる。上の娘が今年中学生になった」
そこでぷっつりと会話は途絶えた。短い廊下の突き当りにドアを背にしたコウイチがいて、廊下の入り口に私。私が通路をふさいでるから彼が動けないのだと気付き、慌てて後ずさったら右足のかかとにごみ袋が引っ掛かって倒れた。綿ぼこりが舞い上がる。袋の口からとろりとこぼれた鮮やかな色の布地は、若い大人の女性が好んで着そうな衣類だった。しまった、と思って元に戻そうと手を伸ばす。
「触るな!」
頭上から響く大きな声に驚き、手の動きが止まる。急に動きを止めたことでバランスを崩し、尻餅をついた。
「……ごめん。驚かせるつもりはなかったんだ。……しばらく、あっちに行っててくれないかな」
リビングの方を指さす彼の声はなんだか悲しかった。
「マリカ?」
コウイチの声がした。掃き出し窓に向かって体育座りをし、ガラス越しに暮れていく空を見ていた私はのろのろと立ち上がり、リビングと和室の境の引き戸をゆっくり開けた。
「ごめんなさい」
「何が?」
「袋、倒しちゃって」
「いや、気にしないで。さっきは大きな声出して、ごめんね。それよりもさ、暗くなる前にコンビニに晩飯買いに行こう」
「うん」
私は財布の入ったポシェットを手に立ち上がった。
川沿いの道をさっきと同じ方向に五分も歩くと、コンビニがあった。学校や予備校の行き帰りに寄るのと同じ系列のコンビニなのに品ぞろえが随分と違うのが面白くてゆっくり見て回っていたらずいぶん時間がかかった。
「いつも行くコンビニにはこんなもの売ってないよ」
私はカット野菜や果物、卵なんかを指さした。
「この近くには食品スーパーがないんだ」
コウイチによると、繁華街に近いこの辺りではターミナル駅近くのデパートの地下か徒歩では少し遠いと感じるほど離れた場所のスーパーまで行かないと食材をメインで扱っている店がないのだという。
「大変だね」
「僕は自分で料理しないから関係ないけど」
そう言った後、コウイチはしばらく無言になった。
私は晩ご飯用にお弁当とお茶、明日の朝ご飯用にサンドイッチとヨーグルト、オレンジジュース、お風呂上り用にアイスクリームを買うことにした。すでに十分羽目を外しているので、これくらい大したことはないと普段は買わない高いアイスクリームを買うことに決めた。バニラとストロベリーで迷って、結局両方ともかごに入れた。
「僕が払うから貸して」
コウイチがかごを取り上げる。
「自分で払うからいいよ。これ以上迷惑かけたくないし。それに、高いアイスが二つも入ってるよ」
そう言ったのに、コウイチはかごを返してくれなかった。
「いいから。おじさんの言うことを聞きなさい。子供は大人の言うことをおとなしく聞くものです、ってお母さんに教わらなかったの?」
冗談っぽく、おじさん、のところがゆっくりと強調されていた。
「まだお兄さんで十分いけるよ。それに、大人の言うことをおとなしく聞いてる子どもだったらここでこんなことしてないよ」
お互いの目が合って、二人とも少しだけ笑った。
支払いを済ませたコウイチは、私の頭をぽんぽんと撫でてから歩き出す。そこまで子ども扱いしなくったっていいじゃないかと思ったけど、手のひらの感触が気持ちよかったから何も言い返さなかった。
「マリカって、結構よくしゃべるね」
「そうかな」
「最初はすごくおとなしそうで、ちょっといじめたらすぐに泣き出すタイプに見えたけど、今だってぽんぽん言い返すし」
「よく言われる。おとなしそうだねってみんなから言われ続けてるとさ、だんだん、本当にそうなんだって気がしてくるんだよね。それで、周りのイメージと違うことしちゃいけないって思うようになって、窮屈になる。……私の通ってる学校、中学と高校でメンバーが変わらないから余計にそう感じる。だからね、自分のこと知ってる人が誰もいない場所に行きたいなあって」
「それで家出したの」
「ううん。それはまた別」
「そっか」
「だからね、大学はよそに行きたいなって。マリの成績なら推薦で間違いなく内部進学できるのに、わざわざ受験勉強するなんて馬鹿げてるって友達には言われたけど、でも、あそこにそのままいたら、自分が無くなっちゃう」
こんなこと、誰かに話したのは初めてで、すっきりしたけど少し恥ずかしくなった。
道の向こうにコウイチの住むマンションの外壁がちらりと見えた。
「あそこまで競争しよう」
私は走り出した。低いヒールのついたストラップのあるサンダルは走るのに向いてなくてあっという間に追い抜かれた。それでも私は走るのをやめなかった。マンションの入り口に立つコウイチがこっちを見ていた。
「久しぶりに走った」
息があがって、言葉が切れ切れになる。
「僕もだ」
コウイチが深呼吸を一つして、腕で額の汗をぬぐった。
「あ、走ったから、弁当ぐちゃぐちゃになったかも」
コウイチが手にしていた袋をのぞいてみたら、陳列棚ではきれいに広がっていたはずのご飯やおかずが寄りあい、くっつきあって隙間だらけになっていた。
「ほんとだー」
私たちは息を切らせたままで、けらけら笑った。疲れたけど、体の中の空気が全部入れ替わったようないい気分だった。
お母さんは、あんなものおいしくないわよ、って言っていたけど、初めて食べるコンビニのお弁当はなかなかおいしかった。コンビニのお弁当を初めて食べたと言ったら、コウイチは驚いた。サンドイッチやおにぎり、中華まんなんかはおやつ代わりに買って食べたことがあるけど、買ってきたお弁当を食事代わりにしたことがないのだと言ったら、お母さんがしっかりしてるんだねと感心された。家族で暮らしているおうちはみんなそういうものだと思っていたけど、違うのかな。
「ところでさ、なんで家出しようと思ったのか、そろそろ聞いてもいいかな。別に、話したくないなら話さなくてもいいんだけど」
お弁当を食べ終わり、ミネラルウォーターを飲んでいたコウイチがこっちを見た。
話したくないわけじゃなかった。誰かに聞いてもらえるなら、聞いてもらいたかった。でも、何から話そうかな。私は目を伏せてご飯に乗っていた小さな梅干しを突っつきながら言葉を探した。
箸をおいて手を膝の上にそろえる。小さく息を吸って、吐いた。
「私、二人きょうだいで、三つ上の姉がいるの。姉は小さいころから何でもよくできて、両親の自慢なの。私はおまけみたいにくっついてるだけ。お姉ちゃんは何でもできて、お父さんやお母さんにいっつも褒められて、ずるいなって思ってた。ピアノの発表会の時も、お姉ちゃんは、がんばれ、期待してるよ、って言ってもらえるのに、私は、緊張して失敗しないようにね、ってしか言ってもらえないの。テストでいい点を取ってきても、お姉ちゃんは、さすがだな、どっちに似たのかな、って言われるのに、私にはそんなこと言わない。意外だって顔で、マリもやればできるんだな、って」
右手の親指と人差し指で、左の親指の爪を強くつまむようにこする。普段は意識したことのない、迷った時の私の癖。
「お姉ちゃ…あ、姉がね、去年の夏から一年休学してアメリカにホームステイに行ったの。それまでずっと四人で暮らしてきたのが三人になった。そしたらね、父も母も急に私に構うようになった。成績のことなんかそれまでほとんど言われたことがないのに事細かにチェックされたり、帰宅時間がいつもより遅くなるとうるさく言われるようになった。お姉ちゃんがいなくなった途端にこうなったんだと思ったら、ものすごく腹が立った。私はお姉ちゃんの代わりじゃないって。そんな風に私に構わないでほっといてって思った」
鼻の奥がつんとしてきたのをごまかしたくて、ペットボトルのお茶を一口飲んだ。
「今、両親そろって姉を迎えに行ったの。父の勤続記念の休暇があって、お姉ちゃんがアメリカにいるこのタイミングを逃したら、海外旅行するチャンスはなかなかないぞって。鬱陶しいからほっといてって思ったくせに、二人そろって海外旅行に行っちゃうんだ、しかも、お姉ちゃんを迎えに行くんだって思ったら、なんだか悔しかった。やっぱりお父さんもお母さんも、私よりお姉ちゃんの方が大事なんだなって気がした。勝手にどこへでも行けばって思ったのに、二人がそろって出ていったら、急に家の中が広くなって、空気が薄くなった気がして、この辺りがきゅうっとした」
胸のふくらみの間あたりで両手を重ねる。思い出したら、目の奥が熱くなってきて、まばたきを繰り返すしかなくなった。声が震える。
「昨日の夜、ベッドに入ってたら、部屋の壁が自分に向かって崩れてくる気がして、眠れなくなって……家にいるのが嫌になって、荷物を詰めたの。私がここにいないって誰にもわからないんなら、いなくてもいいよねって。予備校の夏期講習にはいかなくちゃって思ったから、勉強道具も持って来た。本当は夏期講習のために遠くから出てきた学生のふりをして、どこかのホテルに泊まろうと思ってたんだ。……ごめんね」
目の端にくっついた涙を見られたくなくて、下を向いたまま空になったお弁当の容器とペットボトルをコンビニの袋に詰め込んだ。まぶたを拭った人差し指の背中に、一本の線ができた。
「僕も、ちょうど寂しかったんだ」
かすれた声で、コウイチが言った。二人用の小さなダイニングテーブルの上に、軽く握られたコウイチの手があった。お父さんの手よりもほっそりしていて、私の手よりは大きかった。その手を握ったり開いたり、組み合わせたりしながらコウイチがつぶやく。
「ひと月前に、彼女が出ていった。好きだって言われて、成り行きで付き合い始めて、気が付いたら彼女がここに住んでた。そのうち好きになれるかなって思ったけど、そんな事はなかった。彼女がいてくれて助かることもあったけど、面倒に思うこともあった。……別れようって思うほどの大きな出来事は何もないままに時間が過ぎて、そのうちに小さなずれが積み重なって、リセットしたいなって思い始めたころ、結婚をほのめかされた。僕は、彼女と結婚する未来を思い描けないことに、その時ようやく気が付いた。それでも、別れようと言う勇気もなかった。そのうちに、彼女が出ていった。何も言わずに。……ほっとしたけど、やっぱり一人は寂しい。好きだ、結婚しようって言えないことは分かり切っているのに、彼女が戻ってきてくれないかなって思ったこともある。その度に、自分がどれだけずるい人間なのかを突き付けられる気がして、僕にこんな思いをさせる彼女を恨んだ。入り口にあった荷物は、その時彼女が置いて行ったそのままなんだ。さっきまで、一度も触ったことがない。……だから、マリカがここに来てくれて、一緒にご飯を食べてくれて、嬉しかった。ほんとだよ。だから、ご両親が帰ってくるまで、ここにいてくれないかな。変なことはしないって、約束するから」
「……うん。そうする」
真剣な面持ちで願いを口にする彼に、私はさっきよりも親しみを込めて告げた。
こっちを見ているコウイチの目に、薄い水の膜があった。私の思ってた大人のイメージは、悩んだり迷ったりしない強い人だったけど、大人になったからと言ってそういうこととは無縁になれるわけではないらしかった。
======
時計の針は、間もなく九時を指そうとしていた。
マリカに先にバスルームを使うように勧め、僕は客用の布団を出すために押入れを開けた。僕とナツがしょっちゅうケンカするようになってからは、ナツも使った布団だった。大掃除の後、太陽の光によって殺菌され新しいカバーにくるまれたそれは、見知らぬ他人のような顔で押入れに収まっていた。
僕はニュース番組にチャンネルを合わせ、ソファに腰掛けた。けれども、テレビの内容はちっとも頭に入らなかった。
明後日の土曜日は、同僚の結婚式だ。新郎、新婦とも同じ職場で親しく付き合った仲だし、素直におめでたいと祝ってやれるいいカップルだ。しかし、彼らにも、そして他の誰にも、僕はナツとの同棲を解消したことを告げていなかった。ナツはもう誰かに話しただろうか。僕は、僕たちの事情で新たに夫婦となる二人の幸せな気分に水を差すことはないと思っていた。だけど、もうナツとの関係が続いているように振る舞うことはできない。式の進行に合わせて忙しくしている二人はともかく、他の友人たちには分かってしまうだろう。僕はナツと顔を会わせることを考えただけで気が滅入った。ナツも、今まで荷物を取りに来ないでそのままにしているってことは、僕に会いたくないんだろうな。
とりとめもなくそんなことを考えていたら、後ろでドアの開く音がした。
「あの、お先でした」
振り向いた先にいたのは、さっきとは別人の女の子。
きつく編まれていた髪がくるくるとウェーブを描いて顔を縁取り、胸あたりまで流れている。血色の悪かった顔は温められ、ほんのりと桜色に染まっていた。窮屈そうな髪型をやめるだけで、服を着替えただけで、マリカは見違えるほど魅力的な女の子に変わった。黒地に黄色の平行線が何本か並んだデザインのTシャツが、視界を横切る。
まるで、さなぎから抜け出したばかりの蝶を見るような思いだった。
不思議なものを見るような僕の視線を避けて、マリカは冷凍庫からアイスクリームを取り出すとダイニングテーブルに腰掛けた。ソファに掛けた僕からは、ハーフパンツから伸びる足がよく見えた。程よく筋肉の付いた日に焼けているふくらはぎと白いままの足首のコントラストが目についた。なんだかいけないものを見てしまった気がして、頬がほてった。運動系の部活動に所属していたのか聞いてみようと思ったけど、足に注目していたと悟られるのは恥ずかしかった。
「髪の毛、そんな風にふわふわさせてる方が似合ってるのに、どうして三つ編みにしてるの」
無難なところで、髪型を話題にしてみる。
「天然パーマだから」
「先生がうるさいの?」
「ううん。違う。小学校の時に、くるくるあたま、ってからかわれたから。それからずっと」
「今まで一度も変えようと思ったことないの」
「うーん。どうだったかな。忘れちゃった」
投げやりな返事。マリカがアイスクリームの蓋を取り、スプーンの入ったビニール袋を破った。言葉が、体の動きが、この話はおしまいだと告げていたけど、僕はもっと聞いてみたかった。
「ねえ、からかってきたのは男子?」
「そうだよ。いっつも意地悪で、何回も泣かされた。今だったら負けない自信があるんだけど」
その時のことを思い出したのか、マリカはまだ固いアイスクリームにスプーンをぐいぐい押し込むように突き立てた。
「きっとその子、マリカのことが好きだったんだよ」
「えー、嘘だ。好きなら泣くまでからかったりしないと思う」
「恥ずかしくて、かわいいって言えなかったんだよ。男の子ってそんなもんだよ」
「そうなのかな。……コウイチさんは、もう言えるようになった?」
マリカが横目でちらりとこっちを見た。
「うん。マリカはかわいいよ」
「嘘つき」
本気でそう言ったのに、マリカはそっぽを向いてしまった。プラスチックのスプーンがピンク色のアイスクリームをえぐるようにすくう。白いスプーンに乗せられたストロベリーアイスが、僕の心の一部のような気がした。
心を奪われる、とか、恋に落ちる、というのはただの比喩表現だと思っていたけどそれは間違いで、そのようにしか表現できない何かがあるのだと初めて知った。
ゆっくりと、でもためらいなく、マリカがアイスクリームをすくっては口に運ぶ。始めは冷えて固く、スプーンの上におとなしく収まっていたアイスクリームはやがて縁の方から緩んで溶け出し、彼女の唇を汚した。桃色の舌がわずかにのぞいては、さらっていく。
そのわずかな動きを、もっと近くで見ていたい。
この手でその髪を撫で、唇に触れてみたい。
そしてそんなことを考えた自分に気付かれたくない。
そう願った。
体全体が心臓になったんじゃないかと思うほどどきどきした。
たかが、高校三年生の女の子じゃないか。教壇に立って見下ろす生徒たちと変わらないじゃないか。僕は努めて冷静さを装い、自分の気持ちを隠すための言葉を手繰り寄せようとした。
「明日はどうするの」
「朝七時半ぐらいにここを出て、予備校に行く。お昼まで夏期講習」
「じゃあ、どこかでお昼ごはん一緒に食べない? それとも、誰かと約束してる?」
少し声が上ずった気がした。おまけに、これではマリカともっと一緒にいたいと告げているのと変わらないじゃないか。僕は思わず両手で頭を抱え、それをごまかすように肘を広げながらソファの背もたれに寄りかかり、テレビに向き直った。
「お仕事は?」
「夏休みなんだ」
視界の端でマリカがカップの中のアイスクリームをぐるぐるとかき回している。僕からは見えないけれど、それはやわらかくとろとろとして、彼女の手の動きに合わせて表面の模様を変えているに違いなかった。
ほんの数秒の返事が返ってくるまでの間がずいぶん長く感じられた。
短い言葉を交わしながら、僕たちは待ち合わせの場所と時間を決めた。電話番号もメールアドレスも交換しなかった。僕からは言い出せなかったし、彼女にもそのつもりはないようだった。
「僕はお風呂に入ったら向こうの部屋で寝るから。勉強するんならそのテーブル使って。布団は和室に出してあるよ」
「ありがとう。コウイチさんっていい人だね」
褒められたのだろうけど、ちっとも嬉しくなかった。もっと、それ以上の関心を、好意を向けてもらいたかった。担任している生徒たちと同じ高校三年生の女の子に抱く感情としてはいささか不適切な気もしたけれど、どうしようもなく止められなかった。
=====
祖父母の家でもないよそのおうちでお風呂を借りるというのは初めての経験で、シャワーそのものはさっさと済ませたものの、その後、何か余計なものを落としていないかどうかの点検にものすごく時間をかけた私は、緊張しながらリビングに戻った。
「あの、お先でした」
とりあえず、声をかけてみる。振り向いたコウイチは、何かに驚いたように目を見張り、期待してたのとは違うものを見たような戸惑った顔をした。ひと月前に出ていったという彼女の姿を期待して振り向いたら、そこにいたのは私で、がっかりしたということなのだろうか。
私が倒してしまった袋の中からこぼれ出た赤や青の色鮮やかな服。きれいで、明るくて、強くて、自分に自信のある女の人が着ていたんじゃないだろうか。多分、お姉ちゃんみたいな。私がどんなに努力してもかなわない、太刀打ちできない人。そんな人ですら、結婚したいと思えるほど好きになれなかったというのだから、彼の目から見た私は女性ではなく小さな女の子みたいなものなんだろう。実際、私はきれいじゃないし、胸だってないし。つい頭をぽんぽん撫でてしまいたくなるような幼い存在で。そこまで考えたら、なんだか自分がかわいそうになってきた。
そうだ。アイスクリーム食べよう。
冷凍庫にしまっておいたアイスクリームを取り出す。コンビニではどちらか決められないほど迷ったのに、今の私は迷わずストロベリーをつかんだ。心が、ちぎれそうなほど揺れていた。
夕飯の時にコウイチと向かい合って座ったダイニングテーブルの椅子に一人腰掛けると、私は彼を見ることができなくなった。窓を背にしている私の斜め前にコウイチが寛いでいるソファがあった。多分、彼からは私がよく見えるのだろう。自分の自信のなさに追い打ちをかけるような質問が飛んできた。
「髪の毛、そんな風にふわふわさせてる方が似合ってるのに、どうして三つ編みにしてるの」
「天然パーマだから」
似合ってるかそうでないかは関係ない。くせ毛を通り越して、パーマとしか表現しようのないほどうずを巻くこの髪は、一重まぶたと共に私のコンプレックスの双璧を成している。せめて二重まぶたとこの髪、あるいは一重まぶたであってもストレートの髪だったら良かったのに。まっすぐでさらさらとしたストレートの髪にどれだけ憧れたことだろう。身だしなみを意識するようになったころ、周りのみんなと違うくるくるとうねる髪はちっとも思い通りにならず、好き勝手な方向を向いて立っていた。くしゃくしゃともつれるように踊る髪を必死にとかしつけたところで何も変わらない。「マリちゃん、髪の毛とかしてきた?」って、ぱっちりした二重まぶたでさらさらの髪をした女の子に問い詰められたときは泣きたくなった。さらに、クラスの女の子たちみんながちょっとかっこいいと認めている男の子からはくるくるあたまって散々にからかわれた。この時は、本当に泣いた。それからの私は毎晩、早く髪が伸びますように、とお祈りしながら一生懸命髪を引っ張った。髪が伸びて結べるようになるまでの間にまた何度か泣かされ、ようやく三つ編みができるようになったときはほっとした。それ以来、自宅以外で髪をほどいたのは修学旅行と宿泊学習の時ぐらいだ。髪を伸ばしたことにより髪の毛自体の重さに引っ張られてウェーブは目立たなくなったけれど、三つ編みをほどいて学校に行く勇気はなかった。
こんなこと、もう忘れたと思っていたのに。思い出したくなかったのに。
アイスクリームの蓋を取り、スプーンですくおうとした。冷凍庫から出したばかりのアイスは固くて、プラスチックのスプーンをはねつける。なんでこんなに思い通りにならないことだらけなんだろう。私の手の中にあるアイスクリームぐらい思い通りになってくれたっていいじゃない。それともこれが使い捨てられる運命の短くて白いスプーンでなく、繰り返し使われるはずの銀色に輝くスプーンだったら、物事はもっと滑らかに進んでいくのだろうか。
それなのに。
「きっとその子、マリカのことが好きだったんだよ」
コウイチが突然こんなことを言うから、思わず手が止まった。
そんなこと、あるわけないじゃない。
「好きなら泣くまでからかったりしないと思う」
好きな人から優しくされたい、大切に扱われたいっていうのは女の子に共通の願いだと思う。好きだから、気になるからからかったりいじめたりするっていうのは全く腑に落ちない。たとえ男の子がどんなにバカだったとしても、長い長い歴史の中で学習を積み重ね、女の子の嫌がることはしないように進化しているはずだと思う。だから彼はきっと、私のことなんか好きじゃなかった。私の髪があまりにもみんなと違っていて、目立っていただけなんだよ。
でも。
「恥ずかしくて、かわいいって言えなかったんだよ」
昔男の子だった人がそう言うなら、人によってはそんなこともあるのだろうか。指先が冷たくなっていくのと引き換えに、カップの縁から淡いピンク色がにじんだ。少しだけ、コウイチの言うことを信じてみてもいいかなと思った。
「そうなのかな。……コウイチさんは、もう言えるようになった?」
男の子が大人の男の人に変わるとき、見た目だけでなく中身も入れ替わったりするのだろうか。コウイチは今までに出会った女の子や女の人たちにかわいいって言ったことがある?そういうつもりで聞いてみたのに。
「うん。マリカはかわいいよ」
突然そんなことを言うから、反射的に言葉がこぼれた。
「嘘つき」
私はかわいくなんかない。幼いころのしぐさや、あるいは幼児にありがちな勘違いや言い間違いを取り上げて、小さい時のマリちゃんはこんな風にかわいかったのよって両親や親戚の人たちの思い出話を聞くことはあった。けれども容姿の面に限って言えば、かわいいのもきれいなのも全部お姉ちゃんで、私ではなかった。友達に、マリは笑うとかわいいね、って言われたことはあるけど、それってつまり、普通の顔はかわいくないってことじゃないの? 笑うと少しましになるってだけで。
ああ、もう。嫌になっちゃう。こんな私も、そして、こんなことを考えさせるコウイチも。
ピンク色のアイスクリームにスプーンを突き立て、えぐるようにすくう。心を刻んで、ばらばらにしたい。そしたら、こんなことで悩んだりしなくて済むのに。
がむしゃらにアイスクリームをすくっては口に運ぶ。口の中が冷たさにじんじんして、もう我慢できないってところまで食べ続けた。そのうちに、ピンク色の塊は抵抗をやめ、ゆるゆると崩れ始めた。かき回せば周囲からほどけてくるくると回り、思い通りの文様を描き始める。
お昼ごはん一緒に食べようって言われて少し迷ったのは、本当は私よりも誘いたい誰かがいるんじゃないかと思ったから。もう、誰かの代わりにされたくはなかった。
だけど結局、私たちは待ち合わせの約束をした。男の人からかわいいって言われたのも初めてなら、男の人と待ち合わせするのも初めてだった。
あんなに固かったストロベリーアイスはすっかり溶けて、甘い飲み物に変わっていた。
夏期講習を終えた私は駅ビルの上階にある大型書店に向かった。そこでは本棚に挟まれた全ての通路の天井から陳列されている本がどの分野のものなのかを示すプレートがぶら下がり、端から順に番号が振られていた。コウイチが指定した番号の通路には難しそうなタイトルの本がたくさん並んでいた。短い髪をつんつんと固め、サングラスをかけた見知らぬ男の人が一人立ち読みしている他は、誰もいなかった。
平積みになった本の表紙を順にながめていく。手に取ってみようと思うほどの関心を引き起こすものはなく、私は通路の番号札と携帯電話の時計を交互に見詰めながら約束の時間になるのを待った。
約束の時間になった時、さっきの男の人が近づいてきてサングラスを外した。
「分からなかったの?」
とても愉快そうな顔で、コウイチが言った。私はあまりにも驚いたので、口を半開きにしたままうなずくことしかできなかった。髪を短く切った彼は、昨日とは違う人に見えた。
「僕はマリカが髪型を変えていてもすぐに分かったのに」
「サングラス、かけてるんだもの」
そもそも、これはフェアな勝負ではない気がした。確かに私は昨日までの三つ編みをやめて、後ろで一つにまとめてゴムで結わえた。だけど、正面から見た印象がそれほど変わったとは思えない。左右に振り分けて固められていた髪が、後ろで綿菓子のようにふわふわしているだけ。短く切ったわけでもないし、サングラスで目元を隠したりもしていないのだから。それでもやっぱり、髪を短くしたコウイチを見ていると昨日とは違う人のような気がして、サングラスがなくても分からなかったような不思議な気持ちがしてくるのだった。
私にとっては長年続けた三つ編みをやめるのはものすごく勇気がいることだったし、髪型を大きく変えた気分でもあったのだけど、はた目にはそれ程でもないのかもしれない。今日すれ違いざまに軽く挨拶を交わした同じ学校の子たちも、特にコメントはしてこなかった。まあ、首都圏の私立高校を狙う彼女たちはうんとおしゃれで大人びていて、地元の国立大志望の私とは普段から挨拶以上の会話をする関係ではないのだけど。
「髪、昨日の夜みたいに下ろしてる方が、僕は好きなんだけど」
好きって言葉に反応して、うなじのあたりがざわざわした。
昼休みを終えて職場に戻っていく会社員や、帰省先から帰る途中の大きなスーツケースを転がしながら歩く親子連れで駅のコンコースは混雑していた。ともすれば人波にはばまれ遅れがちになる私を見かねたのかコウイチの手が私のひじに添えられ、進むべき方向を促した。彼の手が触れたのが肩でもなく背中でもなくひじであることが、この接触がただの介添えであることを示していた。それでも、紫外線や冷気を避けるために羽織った薄手のシャツを通して伝わる熱は心地よく、一人で歩けるからと振り払う気にもなれない。
お願い。これ以上甘やかさないで。でないと――好きになってしまう。
そんな思いがふっと浮かんで、焦った私は彼の手を振り払った。
しまった、と思ってコウイチを見上げても、サングラスをかけた彼の表情を読み取ることはできなかった。
「いったん駅を出て、隣のホテルに行くよ。二階だからね」
案内が音声ガイドに変わった。コウイチは自分のペースで歩き始め、私は再び人波に揉まれた。右に左にさまよいながら彼の後姿を追いかける。外は暑く、光と影の境目がくっきりしているくせに、すべてが白っぽく光ってあいまいだった。
ランチタイムのレストランはほぼ満席だった。お昼休みの会社員もいれば、これから駅に向かう、あるいは駅から出てきた旅行者もいた。女性ばかりのグループもあれば、そろって黒いスーツに身を包んだ男性ばかりのグループもいた。雑多なグループの中で私たちはどんな風に見えるのだろう。髪を短くしたコウイチは昨日よりも少し若く見えたし、三つ編みをやめた私はもう中学生に間違えられることはないと思う。
絶対に親子ではない。叔父と姪というのもやっぱり無理がある。兄妹というほど親しくはなく、友達というには少し年齢が離れている。久しぶりに会った従兄妹ぐらいが適当かな。そんなことを考えていたら、目の前に厚みのある茶色い表紙のメニューを差し出された。
「何にする?」
私は差し出されたのとは別の、あらかじめテーブルの真ん中に置かれていたラミネート加工されたランチタイム専用のメニューの中から本日のランチを指さした。これが一番無難な気がしたから。
「これにする」
「じゃあ、僕も同じのにしよう」
あっという間に注文を決めたのに窓際の隅っこの席の近くまではなかなかウェイトレスはやって来ず、ガラス越しに道行く人を観察するのにも飽きてきた私はふと思いついたままに質問した。
「ねえ、ここ、よく来るの?」
「お昼に来たのは初めてかな。昼間に女の子と外で食事するなんて、学生の時以来だ」
「うそ。だって、デートしたらどこかでごはん食べるでしょう」
「ほんとだよ。仕事帰りにどこかに食事に行くことはあったけど、彼女と付き合い始めてからっていうか、彼女がうちに来るようになってからは外で食事したことがない。……というか、デートは一回もしたことないな」
「どうして?」
なんだか信じられない。私の想像する異性とのお付き合いは、一緒にどこか楽しめる場所にお出かけするとか、一緒に食事するとか、そういうことを含んだいわゆるデートと呼ばれるものであって、それ無しで付き合うって、可能なんだろうか。
私がよほど怪訝そうな顔をしていたらしい。
「聞きたい?」
テーブルに肘を乗せ、背中を丸めたままの彼が上目づかいにたずねた。多分、聞かない方がいいんだろうなという気はした。だけど気が付いたときには、首を縦に振っていた。それはまるで、治りかけのにきびを突っついて赤くはれ上がらせたり、かさぶたの縁をそっと持ち上げてみたりするのと同じ衝動で、無防備に傷をさらして見せるコウイチの方が悪いのだ。私は自分にそう言い訳した。
「多分それが、僕が彼女を好きじゃなかったってことの現れなんじゃないかな。彼女のために何かしようって気分になったことがないんだ。それに、彼女も多分、僕とそういう関係になることを、彼女は望んでいたけれど僕はそうじゃなかったって、分かっていたはずなんだ。だから、始めのうちは僕にそれ以上の何かを望んでいる素振りさえ見せなかった」
言葉を探し、迷いながら、とつとつと語るコウイチの心は傷ついていて、その傷の大きさ分だけは彼女のことが好きだったのだと分かった。
「すごく不思議なんだけど、好きじゃなくてもお付き合いってできるものなんですか」
昨日の夜話を聞いてからの一番の謎がそのことだった。
「何て言うか、断るのにもエネルギーっているでしょ。いろいろと面倒で、どうでもよかったんだ。周りが彼女に協力して僕たちをくっつけようとしていて、その、成り行きで寝てしまったわけだし。……寝るの意味、分かるよね?」
それまで視線を外していたコウイチがまっすぐにこっちを見て唐突に質問した。ガラス越しとはいえ真昼の日差しが降り注ぐこの場所にあっても、夜の気配は消せなかった。絶対に入るなと言われた寝室。そこで何が行われていたのか分からないほど私は子供ではなかった。心臓の真ん中に突き刺さったとげから血液があふれ出し、皮膚の表面を赤く染めた。空っぽになった心臓は小さくよじれて縮んだ。
白いブラウスに黒のベストとタイトなスカートを身に着けたウェイトレスがやってきて注文を取り、紙ナプキンの上に伏せられたゴブレットを取り上げ、水を注いだ。ほのかにレモンの香り付けがされた冷たい水はあっという間に周りの水分を引き寄せるくせに、ガラス越しに澄ましかえったままで二つが混じり合うことはない。まとわりついた水滴は、やがて下に落ちていく運命にある。清潔そうでほのかに柑橘系の香りがするコウイチはグラスの中の水のようだと思う。私は彼に引き寄せられ、そしてただ流れ落ちていくだけの水滴に過ぎない。
私はゴブレットを持ち上げると水を一口飲んだ。水と一緒に注ぎ込まれたクラッシュアイスがざらざらと押し寄せてきた。
=====
白いテーブルクロスが掛けられた四角いテーブル。その上に斜めに落ち着いたえんじ色の不織布が乗せられ、四隅に小さな白い三角を形作っていた。手際よくカトラリーが並べられ、小さなカップに入った冷たいスープが運ばれた。オレンジがかった黄色のかぼちゃのスープの上に白い生クリームが模様を描き、小さなクルトンとみじん切りのパセリが彩りを添えていた。
見た目は温かそうな色合いなのに、冷たい。なめらかで抵抗なくのどの奥に流れていくくせに、ときおりさくさくとした食感がある。全体としてはほのかに甘く癖のない味なのに、ごくわずかに自己主張する緑の香り。見極めようとしたときにはすでに通り過ぎてしまっていて、謎めいている。まるでマリカのように。
人波を右に左に避けながら慎重に遠慮がちに歩く姿はなんだか頼りなく、守ってやりたいと思わせるほど弱々しく見えるくせに僕の手を拒否した。僕の手を跳ね除けておきながら、彼女は僕の心の膿んだ部分に容赦なく触れ、切り開く。それは多分、僕の弱さがそうされることを望んだから。
僕はナツとの暮らしに飽き、ナツを悪く思うことに倦んだ。ナツとの思い出をよく目を凝らさなければ見つけることのできない一本の白い筋としてひっそりと仕舞いこみたかった。袋に詰め込まれた思い出が発酵に失敗して腐敗を始めた以上、破裂するまで放置して袋がぎざぎざに切り裂かれ、中身があたりに飛び散るのを待つよりも、すっぱりと切開して中身を出し、きれいに早く忘れてしまいたかった。傷口に塗った塩は水分を奪い、これ以上僕が腐っていくのを止めてくれるはずだった。
マリカによって切り開かれた傷口から流れ出た赤黒い膿は僕たちの間に横たわり、縁の方から干からびていく。そしてパン屑のように払いのけられるのを待っていた。
さっきまで大人びて力強く見えていたマリカは再び気弱そうで幼い印象に変わり、ナイフとフォークを重そうに扱いながら料理を口に運んでいる。
僕たちは同じランチを注文したはずなのに、彼女の目の前には魚料理が、僕の目の前には肉料理があった。僕の目の前には順々に選択肢が現れ、常にどちらかを選び取らねばならず、後戻りしてやり直すことはできない。アナログに見える物事も、細かく分解していけば「0」と「1」の集合体になると聞いたのはいつのことだっただろうか。
僕は慎重にナイフとフォークを扱い、目の前の肉を切り取っては口に運んだ。二人とも食べ終わるとソースで汚れた白い皿と使用済みのカトラリーが下げられ、銀色のスコップに似た道具でパン屑がすくい取られた。干からびた赤黒い膿と一緒に。
何事もなかったかのように澄ましかえったテーブルの上に小さなケーキとエスプレッソコーヒーが乗せられていた。甘いものと苦いもの。全く相反する性質を持ちながら、互いを引き立てあうもの。
僕はマリカのことをもっとよく知りたかった。そして、僕のことをもっとよく知ってもらいたかった。ナツには決していだくことのなかった思いがむくむくと湧きあがり、傷口をふさいだ。
「マリカは、どこを受験するの」
「H大」
この辺りに住む人であれば誰でも名前を知っている地元の国立大学は、ここから電車とバスを乗り継いで一時間ぐらいの距離にあった。
「学部は?」
「まだ決めてない」
「どうして」
「もともと、エスカレーター式に内部進学したくないっていうのが動機だし。そんないい加減な理由しかないなら、自宅から通える範囲にある国立か公立の大学でないと駄目だって父に言われたから。後は偏差値と相談しながら考えてる」
「マリカは、大学で何がしたいの」
「……分からない。私、何にならなれると思う?」
「マリカが何になれるか、僕に聞かれても、ちょっと困るな」
大きくなったら、どんなことでもできるよ。何にだってなれるよ。そう語って聞かせることのできる年齢はいくつまでだろう。それを信じることができたのは何歳までだっただろう。振り向けば、すでに鍵の閉ざされた可能性の扉が立ち並ぶ細い一本道。目の前に残された扉の数は後いくつで、その扉を開けた先にあるものは何だろう。
開ける、開けない、開ける、開けない……
花びらをむしりながら「0」か「1」かで迷い続けているのは僕もマリカも同じだ。多分、ナツも。
「とりあえず、資格は取っておいて損はないよ。せっかく大学に通うんだったら、何か資格の取れるところにしておいたほうがいいんじゃないかな」
僕にできるアドバイスはせいぜいこの程度だった。
「コウイチさんは、何か資格取った?」
「教員免許」
「先生なの?」
「そうだよ。高校のね」
「先生って、楽しい?」
「いや、あまり楽しくはないよ。全然楽しくないわけでもないけど。仕事だからね。楽しいだけってことはあり得ないよ」
「そっか」
マリカはエスプレッソに角砂糖を一個入れてスプーンでかき回し、一口飲んで顔をしかめた。砂糖をもう一個加える。甘いケーキに甘い飲み物。今振り返って思えば、学生時代は甘くて脆い砂糖菓子でできていた気がした。
レストランを出た僕たちは電車に乗り、昨日と同じコンビニで弁当を買い、部屋に戻った。昨日と同じように向かい合って夕食を取った。その後僕はソファで昨日買った本の続きを読み、マリカはダイニングテーブルで勉強をした。
「明日、友達の結婚式があるんだ。帰りが遅くなるから、カギを渡しとく」
僕はスペアキーではなくていつも使っているキーホルダーに繋いだカギをテーブルに置いた。
マリカはナツのスペアなんかじゃない。そう思いたかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます