第2話 Lepidoptera
僕はとある高校の教師をしている。担当は生物。
子どもの頃から虫が、特に蝶が好きでその研究がしたいと思っていた。けれども、希望の大学に入った後でようやく、それは無謀な夢だったのだと気が付いた。
まず、僕は英語が得意ではなかった。二次試験に英語がないところを探すぐらいに苦手だった。だから、論文を書くことはおろか、読むのにさえ苦労した。それに加えて、僕は蝶を眺めるのが好きなだけで、幼虫や蛹を切り刻むのは全く好みではないといくつかの実験を重ねた後で知った。けれど、フィールドで捕まえた成虫の標本を作ることにはさほど抵抗を感じなかった。それは彼らが恐らくすでに産卵を終えているからかもしれないし、出来上がった標本を後で眺めることができるからかも知れなかった。実際、そのうちのいくつかは今でも部屋に飾ってある。
フィールドワークには体力も必要だが、それ以上にお金も必要だと知った。アルバイトをしなければ小遣いに事欠く僕に、一か月も連続で山にこもるだけの資金など無かった。
研究というのは、僕よりも頭がよく、お金にも苦労しない、いわゆるいいところのお坊ちゃんたちが暇つぶしに、あるいは本当に興味の赴くままに成し遂げていく物だと思い知った後で、なんとか教員免許を取得した。正規の職員として採用されたのは、ただただ運が良かっただけだと思っている。
配属された高校は進学率の良い品行方正な学校で、出だしは上々だと言えた。ただ、進学率の良い学校である以上、東大や京大に合格する子が毎年何人もいるわけで、そういう子を見るたびに彼らの頭の良さは到底自分が持ち得ることの無いものだと思い知らされる。自分よりも頭のいい、そんな彼らを教えなくてはならない。自分が高校生だった時には感じなかった劣等感に苛まされる日々が始まった。
教科に興味はないけれど、卒業するのに単位が必要だから、あるいは受験に必要な科目だから。
ただそれだけですいすいと記憶し、理解していくその姿には恐ろしさすら感じた。彼らに必要なのは学問ではなく問題を解くための知識とテクニックだけ。僕の授業なんて必要ない。そんな気さえした。
「スズキ先生、お疲れですか?」
理科教室棟から職員室に向かう途中の廊下に、鮮やかな赤いシャツに黒のタイトスカートを履き、白衣を引っかけるように着た若い女性が立っていた。白衣を着ているが、彼女は理科の教員ではない。彼女の席は保健室にある。
「いえ。その……まだ慣れないもので」
「そうでしょうね。それに、さほど年の離れていない子どもたちの集団って、なかなかきついものがありますよね」
「ナツ先生もそう思います?」
「ええ。私が着任してすぐの頃なんか、毎日のように男子生徒が保健室に押しかけてきて、下ネタばっかり。まあ、彼らの幻想なんて木っ端みじんに打ち砕いてやりましたけど」
ふふっと笑いながら腰に両手を当てて胸を張る。そんなことをしなくたって彼女の胸はその存在をありありと主張しているというのに。僕は目のやり場に困って顔をそむけ、中庭を見つめる。そこには稼働していない噴水と、それを取り囲むように濁った水をたたえた四角い池がある。その中だけで生態系を完結させているかのようなどろどろとした緑色の水の上には睡蓮が浮かんでいた。
泥中の蓮。そんな諺が頭に浮かび、いや、あれは見た目の美しさを言い表すものではなかったと考え直す。
掃き溜めに鶴。ナツ先生を表すならこっちの方が相応しい。本当に、どうしてこんなきれいな人が学校の保健室に、と思うほど彼女は美しかった。
もともと色素が薄いのか、それとも染めているのかは知らないが、背中まである髪はやわらかな薄茶色。無造作にシュシュで一つにまとめているだけなのに、彼女のそれはとてもおしゃれに見えた。透明感のある瞳は髪と同じ色で、うっかり目が合うと吸い込まれそうな錯覚に陥る。びっしりと生えそろったまつげはくるんと上を向いていて、漏れ聞こえた会話によるとマスカラもビューラーも使っておらず、何もしなくてもその状態だというのだから驚きだ。鼻は大きすぎず小さすぎず。そしてちょっと肉厚の唇はいつも微笑んでいる。アキレス腱がくっきりと浮かび上がるほど足首が細く痩せているのに、胸だけがふっくらと大きい。
くすんだ、あるいは穏やかな色彩をまとう人々の中で、彼女はいつも鮮やかな原色をまとっていた。それが許されるだけの何かを彼女は確かに持っていた。それに引き換え、僕は――
落ち込む様子を見かねてか、ナツ先生は僕を食事に誘ってくれた。一人ぼっちでコンビニのお弁当食べるぐらいなら付き合ってよ、そう言って。彼女との会話は楽しかった。愚痴を聞いてもらうと心が落ち着いた。そうしていつの間にか、僕はレストランや居酒屋で食事をしながら、ナツ先生に愚痴をこぼすことが当たり前になっていった。
養護教諭の彼女のもとには、どこも悪くないけれどさばけたお姉さんに話を聞いてもらいたいという理由で常に女子生徒が集まっていた。押し寄せる男子生徒を蹴散らした後、彼女たちを通して他の教職員のいろんな情報を手に入れることができたナツは赴任して一年も経たないうちに職員室の陰の実力者となったのだという。ある中年の教師がこぼしていたことがある。ナツ先生に少しでもセクハラめいた発言をすると、次の授業で女子生徒から総スカンを食らったり、あるいは、とあるクラスでの失敗が全学年に広まったりするのだと。
そんなナツが、僕にはいつも親切だった。初年度ということでいろいろと失敗もしたけれど、僕の悪評が広まることはなかった。担当していたクラスの女の子に言われたことがある。
――ナツ先生はスズキ先生のことが好きなんだよ。先生から告白して付き合っちゃえばいいのに――
ナツ先生のことは本当にどこを見てもきれいな人だと思っていたけれど、それは芸能人の誰それの足がきれいだとか顔立ちが色っぽいとかと言うのと同じレベルで、お付き合いしたいとは思ったこともなかった。ただ、誘われれば食事に行く。支払いは割り勘。僕は愚痴をこぼし、ナツ先生はそれを咎めることなく聞いてくれる。ただの同僚だと思っていた。
職員の平均年齢が高いがゆえに、若者――二十代の職員の結束が固く週末には頻繁に飲み会が催されていた。参加人数はその時々で違っていた。二人だけの時もあれば八人全員が揃うこともあった。だから、ナツ先生との食事もその延長――たまたま参加者が二人だけになった集いだとしか思っていなかったのだ。
そうして三年が過ぎた。ナツ先生は同じ市内の別の学校に移動になった。送別会で飲みすぎたのか彼女は珍しく酔っ払い、同僚たちが僕に彼女を家まで送って行けとしつこく言った。ナツ先生のことは嫌いではなかったし、今まで世話になったとも思っていたので、僕はタクシーを呼び止め一緒に乗り込んだ。
「ナツ先生、家はどこですか」
そう。僕は彼女の住んでいる場所を知らなかった。何度も夕飯を共にしたのに、その程度の関心しかなかった。
「家?…今日はねー、スズキ先生のおうちに泊まるの」
酔っぱらった彼女の口からアルコールの匂いとともに吐き出された言葉に僕はあきれた。
「先生、冗談はよしてくださいよ」
「冗談じゃないわよ。ずっと、好きだったんだから……ずーっと」
ナツ先生の腕が首に絡まる。枷のようにずっしりと重い腕だった。
「お客さん、どこまで行きますか」
バックミラー越しにタクシー運転手と目が合う。こんな状況に出会うのは今日が初めてというわけではないらしく、好奇心よりも面倒くささが勝った口調だった。
「早く決めてもらえませんか」
仕方がなかった。僕は自分の住むマンションの住所を告げた。
そうして僕たちは成り行きで一夜を共にした。僕の意志が弱かったといえばそれまでのことになる。ただあの夜、ナツの手足は蜘蛛の巣のように僕をからめとり、赤く塗られた唇がぱっくりと開いた。喰われる、と思ったら逆らっても無駄な気がした。多分、ナツを送って行けと言った同僚たちもこうなることを予測して、あるいは知っていて協力したに違いない。もう逃げられないのだと観念したのはいつもよりたくさん飲まされた酒のせいだけじゃなかった。
それからのナツは頼んだわけでもないのに時々やってきては食事の用意をし、僕に感想を求めた。僕の答えはいつも決まっていた。「うん。おいしいよ」
ただそれだけ。
使われている材料についてたずねることもなければ、また食べたいとお願いすることもなかった。彼女の作る料理がまずかったわけではない。ただ、洋風の、今まで聞いたことのない名前の料理はレストランで食べる分には新鮮だったけれども、自宅で食べるものではない気がしていた。
「たまには普通のものが食べたいな。例えばカレーとか」
ナツが僕のマンションに通うようになってから半年たったころ、彼女に頼んだことがある。
僕が思い描いたのはどこのスーパーにも売っているカレールーを使った茶色くてどろどろのカレーだったのに、ナツが作ったのはスパイスをたくさん使った黄色くてサラサラのカレーだった。それが僕たちは根っこの部分でひどくずれていると思った最初の出来事だった。
例えて言うなら、アゲハの幼虫を育てているのにキャベツを持ってこられたような困惑。
それでもいつしか、僕はナツの便利さになじんでいった。家に帰れば温かいご飯ができていて、愚痴を聞いてくれて、セックスの相手をしてくれる女がいる。何もしなくたってお腹は減るのだし、二十代半ばの僕には性欲のはけ口も必要だった。それでもやっぱり、ナツのことは好きでもないが嫌いでもないとしか思えなかった。彼女のことを利用しているとは思わなかった。彼女がやって来るのは彼女がそうしたいからで、僕がそうして欲しいと頼んだわけではないのだから。
やがて一年が過ぎた。
週末に気まぐれにやって来るだけだったナツが毎週訪ねてくるようになり、それが週二回になり、気付けば同棲するようになっていた。
便利さは享受する癖に、この部屋に彼女の持ち物が増えていくたびに僕は少しづつ自分を蝕まれていく嫌悪感を感じた。始めは歯ブラシが一本。次にパジャマ。彼女お気に入りのシャンプーとリンス。化粧品。整髪料。そして洋服。家に帰るとナツのにおいがするようになった。この部屋が自分にとっての安全な住みかではなくなった気がした。
寄生バチ。
卵を産み付けられたアゲハの幼虫は、死なない程度に神経や消化器官を残して内部を喰われていく。そして空っぽになったさなぎはハチが羽化するときに中から食い破られる。そのイメージが僕に付きまとい、苛んだ。
今年の六月、僕とナツのもとに職場の同僚から結婚式の招待状が届いた。夏休みの最後から二番目の土曜日に結婚式を挙げるその二人は、あの送別会の日に僕にナツを送って行けと言ったメンバーの中にいた。
招待状を手にしたナツが言った。
「私、二十代のうちに結婚したいな」
僕より二つ年上のナツはその時二十八か九のはずだった。そう。ずるずると一年も一緒に住んでいたのに、僕はナツの誕生日を聞いたことがないか、聞いたとしても覚えていなかった。
「そう、それなら、早くいい人探さないとね」
ぐしゃりと崩れ、溶けて流れ、醜く固まったその時のナツの顔は忘れない。
それでも、ナツは出ていかなかったし、僕も出ていけとは言わなかった。けれども、お互いが些細なことで腹を立てるようになり、ナツがしょっちゅう僕にケンカを吹っ掛け、一方的に怒っては泣いた。僕たちは何度も言い争った。次第にナツの顔を見るのが嫌になり、面倒になった僕が自分が悪いと思ってなくても謝り、ベッドの上でうやむやにして終わらせる日々が続いた。頭の半分以上が冷めたままの性行為は、醜悪な行為でしかなかった。
終わっているのは分かっているのに、終わらせ方が分からなかった。
学校が夏休みに入ってすぐの週末、僕は大学時代の友人とビアガーデンに行った。月が明るくて、星の見えない夜だった。
帰ったときに、ナツはいなかった。
一年の間に溜まった荷物が半透明の持ち手付きのごみ袋にまとめられていて、夏休みが終わる八月末までには取りに来るとメモ書きが添えられていた。玄関を入ってすぐの廊下に置かれた荷物は、部屋を出入りするたびに、トイレや風呂に行くたびに目に入り、僕の進路を妨げた。わざわざそんな場所に荷物を置き去りにしたことは、ナツのせめてもの抗議だったのかもしれない。僕はそれを見るたびにナツに嫌悪を募らせ、それでいて、部屋の奥の見えない場所に移動させることもできなかった。
僕はナツの存在を疎んじていたくせに、八月に入るころにはナツの不在をつらく感じるようになった。週末に一日中誰とも口を利かないで、セミの鳴き声を聞きながら家にじっとしているのは少しだけ寂しかった。洗面所の収納棚とクローゼットに残された不自然な隙間に一人ぼっちを突き付けられている気がした。他にすることもなかったので家じゅうを掃除した。窓を開け放って、だらだらと汗をかきながら雑巾がけをし、ナツのにおいを拭い去った。カーテンを洗い、シーツや布団カバーも買い換えた。それでも、ナツの洋服が入った袋の口を縛ることができなかった。触ったら思い出しそうで、寂しいからという理由だけでナツに戻ってきて欲しいと電話してしまいそうで怖かった。
今日から始まった僕の夏休みは、土日と合わせて五日もあった。僕は部屋にいることがつらいという理由だけで真夏の街を彷徨い、ふらりと入った本屋で平積みになっていた本を適当に買い求め、そしてアゲハ蝶を追いかけてここにたどり着いた。
それなのに僕の目の前には一齢幼虫みたいに弱々しく、ぱっとしない見た目の女の子がいる。
僕はほとんど水になったアイスコーヒーの残骸を飲み干すと席を立った。
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