KLMNOPP

佐谷望

第1話 Koichi

 八月半ばを過ぎたある日の夕方。蝶道からはぐれたアゲハがふわりと目の前を横切った。

 強すぎる日差しに怯えるかのように、街路樹や植え込みの提供するまばらな影をたどるように飛ぶ蝶を追いかけて角をいくつか曲がり、そして信号待ちの間に見失った。

 その時、僕の目の前にはコーヒーショップがあった。どうせ暇だし、のども乾いたから寄ってみるのもいいかなと思った。まだ家に帰りたくなかった。


 自動ドアが開くと店内の冷たい空気と表の熱気とが僕の周りで渦を巻き、背中に張り付いたシャツが急激に冷やされ、汗のにじんだ髪の生え際がすうっと冷えていく。ほっと息をついて奥に向かって細長い店内を見回せば、奥の席には四人がけのテーブルをショップの紙袋とともに一人で占領している若い女や、多分これから出勤するらしい、いささか下品な、しかし彼女たちはそれが最高にイケていると思っているであろう派手なメイクを施した女たち、そしてイヤホンからシャカシャカと音を漏らしながら、その音楽とは関係ないゲームに没頭している男がいた。入り口近くのショーケースに並べられた焼き菓子の前で迷っている小柄な女の子を追い越し、店員に声をかける。

 いくつか空席はあったもののその場のにおい――香水のにおいと柔軟剤のにおい――に耐えきれず、僕は一番大きなサイズのアイスコーヒーを手にすると二階の飲食スペースに向かった。

 踊り場でしかすれ違いができないほど狭い曲がり階段を登ると正面は衝立で隠されたトイレの入り口で、衝立にくっついて申し訳程度の大きさの洗面台があった。窓際に長く伸びるカウンター席の日の当たらない場所を目指した。

 柱と柱に挟みこまれるように据え付けられたテーブルの真ん中あたりに黒のナイロンバッグとコーヒーを置き、入り口まで戻って手を洗う。コーヒーを載せたトレイの上にはストローと並んで紙製のおしぼりもあったが、汗でべたついた手を拭くには頼りないサイズでしかなかった。

 階段が狭いのが難点だが、中に入ってしまえば一階よりも座席数が多く席と席の間が広くとってあり、ところどころに観葉植物も飾られている二階席は快適だった。微妙な時間帯のせいか僕以外には巨大な観葉植物を取り囲むように円を描く中央の席でノートパソコンに向かっている男が一人いるきりだった。

 とりあえず、コーヒーを氷ごと口に含む。じゃりじゃりと氷をかみ砕き、飲み下す。体の内側と外側の両方から冷やされ、ようやく一息ついた。

 ふと左側に目を向けると忘れ物なのか観葉植物に隠れるような隅っこの席に一冊、文庫本が置いてあった。僕もさっきまで立ち寄っていたこの辺りでは一番床面積の広い本屋のカバーが掛かっていて、そのカバーのよれ具合から判断すると、今日買ったばかりの物のように思えた。

 僕もカバンから買ったばかりの本を取り出す。真新しいハードカバーの、表紙をめくるときにちょっとだけ抵抗するような感じとか、つるりとした紙の手触りがなんとも心地よかった。

 ガラス越しにさっきまで歩いていた通りを見下ろせば、幾分影の範囲が広がっていた。

 あの蝶は自分の所属するべき場所に戻れただろうか。一瞬、あのアゲハチョウのことが気になったが、本のページを一つめくればそんなことはもうどうでもよくなっていた。


 後ろから小さな足音が近づいてきて、脇をすり抜けるようにして奥の席に腰掛けた。こんなにがらがらの店内でわざわざ近くに座るなんて変わったやつだと思った後で、あの文庫本は忘れ物ではなく場所取りのために置かれていたのだとようやく気が付いた。こっそりと左を見れば、さっき追い越した中学生ぐらいの女の子だった。

 くすんだ緑色のシャツワンピースにレース編みの黒いボレロを羽織っている。斜め掛けにしたポシェットの色は赤だ。全体的に艶のない、くすんだ印象の子だった。トレイに乗せられているのはホットコーヒーとクッキー。

「あ、あの、すみません。さっきから、この席に座ってたので」

 うっかり目が合ってしまった僕の顔がよほど訝しそうに見えたのだろうか。彼女はおずおずと説明を始めた。

「ずっとここにいたら、寒くなってきちゃって。荷物は置いたままで、あったかいの、買いに行ったんです」

 よくよく見れば彼女の足元には中学生が修学旅行に持っていきそうなタイプの、大きなバッグが押し込んであった。

 彼女は寒いと言ったけれど、「節電」「28℃」とでかでかと書かれたビニール袋にくるまったコピー用紙が壁に貼ってあることからも分かるように、この部屋の気温はそれほど低くない。ドアが開くたびに外部の空気が侵入してくる一階の入り口だけは頭の上から冷風が吹き下ろしていたが、二階は辛うじて暑くはないと言える程度の温度に調整されている。

「寒くなるほどって、いつから座ってたの」

 仕事柄、このぐらいの年頃の女の子と会話しなれている僕の口から、自然に質問がこぼれた。

「……二時、ぐらいかな」

 砂糖を二本、ミルクを一つ入れてぐるぐるかき混ぜたホットコーヒーのカップを両手で抱えて手のひらを温めながら、彼女が答えた。

「誰か待ってるの?」

「いいえ。行く所がないので」

「まさか家出してきたんじゃないよね」

 冗談っぽく聞いてみる。

「はい。家出したんです」

 笑顔であっさり肯定されるとは思ってもみなかった。

「おうちの人が心配するから、日が暮れる前には帰った方がいいよ。君、どこの中学校?」

 さっきまでのおどおどとした様子を脱ぎ捨てて彼女が顔を上げ、まっすぐににらんでくる。

「わたし、中学生じゃありません。高校生です。三年です。学生証だって、ほら」

 肩にかけた小さなバッグから取り出されたそのカードには、前髪を真ん中から二つに分けて耳の所でひっつめて結んだ生真面目な顔の写真と、ここからそう遠くもない場所に建つそこそこの偏差値の中高一貫の女子高の名前、そして、彼女の言葉を裏付ける数字が書き込まれていた。

「ああ、ごめん」

 とりあえず、謝る。


 ――とりあえず、謝っとけばいいと思ってるんでしょ。コウのそういうところ、大嫌い――

 一瞬、そう言って泣いた女の面影が目の前をよぎった。


 目の前にいるのはほっそりしているというよりも痩せすぎという表現がぴったりの体と、校則で定められているならともかく、なぜ私服の時にそんな髪型を、と思うほどきつく編んだおさげ髪の少女で、十七、八歳だと認めろという方が無理だと思えた。着る人によってはお洒落に見えるかもしれない服のしわがものすごく貧乏臭く見えるし、お世辞にもその服が似合っているとは言い難かった。目立たないように地味な服を選んだ結果、かえって周りから浮いて目立ってしまっているような、そんなちぐはぐな印象だった。そんな彼女に褒めるべき点があるとすれば、涼しそうに輝いている瞳だけだろうか。ただそれを取り囲むまぶたは切れ長の一重で、今時もてはやされるようなものではなかった。


「……すみません」

 目の前にいる女の子は、目を伏せると学生証をバッグにしまった。

「カンザキマリカさん?」

 学生証に書かれた名前を思い出しながら、声にしてみる。

「コウザキ、です」

「ああ、ごめん」

 すっかり口癖になってしまった言葉が、意味もなく空を漂う。

「あの、お願いがあるんですけど」

「なに?」

「あの……今日、泊めてもらえませんか」

 は?ふざけるにも程がある。よほど怒鳴りつけてやろうかと思ったが、ここが公の場であることを思い出して何とか思いとどまった。その代わりにストローで氷をザクザクとつつきまわす。コップの周りに集まった水滴が均衡を壊されて流れ落ちていく。トレイの上に敷かれた薄い紙が丸くふやけて裂けた。それでも、口調が乱暴になるのまでは止められなかった。

「アンタ、家そんなに遠くないだろ。今からしばらく遊んでも十分、明るいうちに帰れる。帰れ」

「帰りたくないんです。帰っても、誰もいないし」

 そんなはずはない。さっきの学生証を信じる限り、それなりに収入のある、ある程度きちんとした家の子のはずだ。

「嘘つくんじゃない。帰りなさい」

「嘘じゃありません」

 近くの会社の終業時間が過ぎたのか、先ほどよりも客の数は増えていた。ちらちらと不愉快な視線を感じる。

「じゃあ聞くけど、アンタ、出会ったばかりの男に泊めてくれって頼んで、その後どうなるか分かって言ってんの」

 声を潜めて、その分体を寄せて問いかける。

 コウザキマリカは一晩の宿を乞う旅の女というよりも、親とはぐれた迷子の女の子に見えた。

「……分かってる、つもりです」

 彼女の両手がきつく握りしめられ、肩に力が入ったのが分かった。さっき土気色に見えた頬がさらに青ざめている。多分この子は、何も分かっていない。男女にまつわるあれこれを知識としては知っていても、経験はない。そう踏んだ僕はさらに詰め寄った。

「ほんとに分かってる?散々やられた挙句に殺されちゃった子のニュースだってしょっちゅう流れてるんだよ。僕がそんな事をしないという保証はない」

「それでも、いいんです。家に帰るの、嫌なんです」

 ああ。僕はため息をつく。

 なんで僕が自分の教え子でもない生徒の子守をしなくちゃならないんだとうんざりしたが、このまま突き放すこともためらわれた。

「なら、ついてくれば」

 僕は彼女に声をかける。

 近くの交番に放り込んでやる。そう決意して。

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