第2話恋は盲目

7-2

正造にはこの女性、桜井弘子が初恋だったのかも知れなかった。

子供の頃の憧れを初恋と呼ばなければだが、過去に女性に対して、この様に積極的に成った事は一度も無かったのだ。

駅前の小さな宿で寝付けない正造は興奮していた。

うとうととしていただけで熟睡が出来なかった。

四時過ぎに起きて、朝飯も食べずに旅館を出て駅に向かった。

時間はもうすぐ五時、薄暗い、晩秋の風は冷たい。

駅前で暫し待つが、知っている人は誰も来ない。

やがて始発電車がホームに到着する。

乗り込む人達の息が白い、彼女の姿は何処にも無かった。

窓際に座ると、次の駅の状態が見えないので、空席が有る車内で立ち続ける正造、不思議な光景だ。

到着する駅の度にホームを確認の為に先頭車両から探す。

幾つもの駅を通過しても、彼女は勿論彼女の友達も乗車して来なかった。

今日は彼女が乗る曜日に間違いは無いのだが不思議と居ない。

遂に終着駅まで彼女を見る事は無かった。

勿論その日のいつもの車両にも、彼女を始め友達の姿は無かった。

正造のショックは相当なものだった。

仕事の帰りまた電車に乗って、始発駅まで車を取りに行くのは気が重かった。

何も判らない辛さをしみじみと感じたのだった。

でも数日後、彼女に電車で会うと心が時めくので、正造にはどうする事も出来ない。

また満員電車の通勤、一目惚れ、疑似恋愛の世界しかなかった。

切掛けが無いまま時間が過ぎて行く。


そんなある日、正造の弟亮造が正造に「電車に、凄い!可愛い女の子が乗っているのだよ、女優さんにそっくり」と言った。

亮造は一浪して今年から国立大学に通学していたのだ。

話しを聞いていると、特徴がそれは桜井弘子そのものだった。

信じられない、あの満員電車の中の一人の女性を弟が見つけるなんて、まさに奇跡に近い出来事だった。

正造は「その人と話しをしたの?」と聞いてしまった。

それは自分のライバルに弟が?に成った様だった。

「無理だよ、友達居たしね、でも美人だった、近い内にチャンスが有れば、声かけてみよう」そう言って笑った。

自分の憧れの女性だとは言えない正造だった。

多分弘子は弟よりひとつ下だろう、でも急がないと弟と懇意に成ってしまうと焦る正造だった。


冬休みまでに何とかしなければ、仕事の段取りと彼女の通学の日にちを合わせて、二度目の始発駅待機を決行する正造だ。

もう朝は寒い十一月半ば、早朝はもう冬だ。

ホームで待つ正造、もし自分の事を相手が知っていたら、完全にストーカーだ。

でも知りたい思いは止められない。

そう思うと、今度は自分が見つからない様にする事を考えるのだ。

正直に「貴女の事が好きなのです、お付き合いお願いします」と言えない正造だった。

もし「ごめんなさい、好きな人が居るので」と言われるのが恐い。

それと始発駅まで来ていきなり言うのも変な感じだ。

結局何処から乗車するのかを、調べるだけにしようと考えてしまう正造だった。

ホームの先頭で待つ正造の目に桜井弘子の姿が目に入った。

始発だったのだ。

薄暗い時間に、ホームに寒そうに立つ弘子の姿は幻想的な美しさだった。

こちらをチラッと見た様な気がして、思わず目を背ける自分が虚しい正造だった。

本当なら、このまま車で戻るのだが、仕事に遅れるので、一緒の電車に遠く離れて乗り込むのが精一杯だった。

次の駅でいつもの友達、野々村真希と大山順子が乗り込んできて、いつもの光景に成っていた。

この三人が何処の短大なのかは、四月の会話で判っていたが、初めて遠方から、二時間以上通学に時間を費やしている事を知ったのだ、

駅からまた自転車を使うならもっと時間が必要だ。

田舎の通学は大変なのだと痛感する。

通学の距離では多分ギリギリの距離だろうと正造は思った。


数日後、彼女の住んでいる町を知りたいそんな思いが車を走らせる。

次の休みには車で彼女の町迄でかけて、散策をしたいと思った。

兎に角同じ空気を感じたい正造だ。

二回来たけれど、何も見ないで駅前の旅館に泊まり、空き地に車を駐車しただけだったから、そして暗くて何も見えなかった。

正造が見た昼間の町並みは中心に川が流れて、川を中心に町並みが造られていた。

その昔は川で染色作業をしていた風情が残っていた。

最近は郊外型のスーパーが進出して賑わっている。

町の歴史を調べると、昔は今よりもっと栄えていた事を知った。

織物、染色に各地から女工さんが働きに来て賑わっていて、パチンコホール、映画館とかが数軒駅前に存在していたらしい。

今では一軒だけが、ポルノの映画館として残っているだけだった。

正造は車で町中を色々散策しながら走っていたら、前に警官が出て来て止まれの合図。

車の窓を開けると「此処は今の時間走れないのですよ」と嬉しそうに言った。

時間指定の侵入禁止だった。

青の交通切符を切られて、警官は嬉しそうに「この町は初めて?」と言った。

正造は嫌みな警官だと怒りの顔で走り去った。

この町にはその後も良い思い出は無かったのだ。


桜井弘子の自宅は判らなかったが、正造は何か彼女に近づいた気分に成っていた。

交通切符だけが大きな失敗だった。


その後弟の亮造から彼女の事を聞いた事は一度も無かった。

多分もう見かけていないのだろう、偶然だったのだと安心に成った。


師走に成って、世の中はクリスマスムードに包まれた。

名前と乗車駅が判ったがそれ以上は何も判らない。

ある日友達が「弘子もうすぐ誕生日ね」と話した。

「いつも、クリスマスと一緒だから、お祝い気分が判らないわ」

「でも損した気分でしょう」そう言って微笑んだ。

「二十三日だからね、毎日ケーキは食べられないわ」

正造は弘子の誕生日が、十二月の二十三日だとその時判ったのだ。

本当はお祝いを買って持って行きたい正造だった。

家は何処なのだろう?が気になり出した。

確実に学校に通学した日に始発駅で待つのは?どうだろう?

仕事をサボって、正造の思いは高く成る一方だった。

そう考えると冬休みまで後僅かだから焦る正造。

もうクリスマスまで数日のある日、正造は決行したのだ。

朝会社に行って、午前中で病気の為に早退を申し出ていた。

明日は土曜日、正造の保険会社は大きいので世間がまだ週休二日に成っていなかった時代に、既に土日が休みだった。

会社では具合が悪そうな顔をして、午前中に早退をしたのだ。

急いで自宅に帰ると、自動車を飛ばして始発駅まで走った。

幸い家族には見つからないで、自動車を出せた。

母に見つかると又、心配させる。

自分は言い訳の嘘を考えなければ成らなかったから、もし彼女の授業が一時限で終わっていたら、万事休すなのだが、運を天に任せてカメラを持参で向かったのだった。

恋は盲目だ!

性格も何も判らない女性に、恋い焦がれる哀れな青年の姿がそこに有った。

正造が駅前に到着したのは十五時半だった。

もし既に帰宅していたら会う事は無いのだが、夜まで我慢だった。

十九時位まで待ってみよう、車を少し離れた駐車場に止めて、駅前を見渡せる喫茶店で遅めの昼食を食べる。

一時間に一本しか電車が来ないので、一本が到着すると一時間は暇だった。

駅前をぶらぶらして、喫茶店に入って時間を潰す。

次の電車でいつも見かける友人の笹倉真子が降りてきて、帰って来たと期待したのだが、一人だけだった。

もう自宅だろうか?辺りは薄暗く成って来た。

寒いので駅前のパチンコ店に入って暖まる。

パチンコをしない正造には五月蠅いだけの場所だったが、寒さと時間を潰すには最適だった。

もう一本電車を待ってみよう、もしも駄目なら諦めて帰ろう。

そう考える正造の耳には、騒がしいパチンコ店の音も聞こえなかった。


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