朝霧
杉山実
第1話満員電車の彼女
7-1
田宮正造は朝の散歩に出掛けていた。
最近は運動の為に早起きして,家の近くを散歩するのが日課に成っていた。
家から一キロ程の所に昔は遮断機が有って、電車の本数の多い時には数間待たされていたが、数年前に高架に成って,電車は遙か高い場所を走っていた。
数年前まであの電車で毎日通勤していたなあ、走り去る電車を見上げて考えていた。
懐かしくて苦々しい日々を、朝七時の電車に満員の状態で毎日通ったのだ。
約十八年間通った。
電車の中では、楽しい思い出、虚しい思い出が有った。
あれから、もう二十年目が過ぎ去ろうとしている。
あの時、決意してからもう二十年か、遠い昔?つい先日?
人間の記憶と思いは、いつまで続くのだろう?
もうすぐ、思い出に対面する時が近づいていた。
田宮正造は中肉中背、最近髪に白いのが出始めていた。
家族は両親が近所に住んでいる。
正造は独身で両親は正造の為に自宅を建てて、嫁を貰う準備をしていたが、正造が全く興味を示さずに、家だけが古く成っていった。
もう直ぐ築十七年が近づいていた。
母が新婚、新築の家、幸せな家庭を夢見て建ててくれたのだ。
正造の兄弟は三人で、長女美晴は結婚して二人の子供に恵まれていた。
弟亮造は近くに新宅を建てて貰って、妻と三人の子供と暮らしていたのだ。
正造だけが独身で、両親、田宮良造、春子には悩みの種だった。
四十五歳を過ぎて,もう結婚は望み薄だと両親も考えていた。
正造だけが自分の意志の強さと云うか、頑固さで独身を貫いていたのだ。
数年前、独立して仕事を自分で始めて、近くに事務所を構えている。
保険の代理店で、昔からの仕事の延長で独立した形だった。
従業員で三名の社員と、二名のパートを雇って順調だった。
損害保険を中心で、取り扱いをしているので、固定客が殆どで、客の紹介で新規が増える形が多いのだった。
自動車保険、火災保険、PL保険、傷害保険が中心の取り扱いだった。
最近では多彩な傷害保険、ゴルフの保険、地震保険、ペット保険まで扱っていた。
事故が起きるとそれぞれの保険会社の専門の係が対応するので、田宮はその後の処理をするだけなのだ。
この歳に成って、ペットの保険まで取り扱うのかと思ったが意外や意外、結構な需要が有った。
近隣の町の人も新しい顧客に成って、そこからまた、自動車保険、火災保険の加入が増加して嬉しい悲鳴だった。
仕事的には問屋業の様な物で、中間マージンで生計を立てているのだ。
人を雇える程だから、相当の顧客を持っていた。
田宮は電車が通過する高架の下を抜けて、近くの山まで歩くのだ、
山と云っても丘なのだが、一応は名前が山に成っている、
約二キロ、往復四キロ走れば半時間だが、歩くと一時間程だ、
雨の日と仕事で居ない時以外は、この工程を毎日、日課にしていた。
今朝はその山の展望台から見渡すと、朝霧が近くの川に漂って町が霞んで見えた。
暫く見ていると、朝の太陽が川面に反射してやがて霧は晴れていった。
いつもはこんなにゆっくりと見る事は無いのだが、今朝は遠い昔を思い出していた。
。。。。。。。。
あの日もあの場所は濃い朝霧に包まれていたと、人はどの位、記憶をしているのだろう?
もし二十年間思い続けられたら、その時初めて見に行こうと決めていた。
。。。。。。。。
その二十年が過ぎ去ったのだ。
自分でも信じられなかったが、遠い記憶の中にまだ居る女性を,今彼女を見れば、多分幻滅して諦められるだろう。
そして自分の青春は終わるだろう、正造は忘れ物を取りに行く心境だった。
もう彼女も四十一歳を過ぎているから、面影が有るのだろうか?
たった一枚の写真、白黒の驚いた表情の顔、偶然撮影した写真だった。
憧れだけで二十年もよく覚えていられたな、自分は常識人か?違うな、変態だな、ストーカー?
。。。。。。。
大学を卒業して働き出した四月のある朝、初めて彼女を見た。
その時に正造は身体が凍り付いて、心が彼女の虜に成っていた。
満員電車の中に一際浮き出て見える彼女の名前は桜井弘子。
七時過ぎの電車は満員で、各駅停車で駅に停車する度に乗り込む人で、すし詰め状態に成る。
弘子は週に三日この電車に乗った。
友達数人が交代で一緒に乗り込んで来る。
友人達だけが乗車している日も有った。
正造は週に三回、弘子に会うのが楽しみだった。
友達との会話を聞く、芸能界の話し、学校の話しと、特に親しい友達は三人、他にも友達は居たが三人が親しい様だ。
弘子が短大生で今年一年生、趣味?好みの男性は?気になる会話を聞いてしまう。
随分遠方から通学している事も、何度か会うと友達との会話で判った。
人は不思議なもので最初意識してない時は、意外とすぐ側で身体が触れあう場所で対峙出来たのに、意識して来ると意外と側には近づけなく成るのだ。
満員の客に押されて弘子と離ればなれで、話しが全く聞こえない事も度々起こる。
そんな日は一日中憂鬱な正造だった。
満員の電車で話す機会もなく、唯週に三度見かけるのみだったが、会える楽しみは格別だった。
予定の日に会えない時は病気だろうか?大丈夫?とか思う。
友達同士の会話で彼女の名前を知って喜ぶ正造だった。
半年が過ぎても話す機会は全く無く、唯、弘子を眺めているだけの日々だった。
夏休みで見られない辛さは正造には耐え難い日々だった。
その為新入社員の辛さを忘れていた。
正造は同僚達より遅れて、彼女の夏休みでそれを感じるのだった。
同期の社員が五月、六月に退社して転職していたが正造には所謂、五月病は無かった。
秋に成るのが待ち遠しい、何か切掛けが無いのだろうか?
ある日の会話で九月の末の日曜日に弘子が友達と最近人気の映画に行くと話していた。
正造は良い機会だ。
何処の映画館だろう?新聞記事で探す映画館。
しかし、場所が判らない、数日後場所が判る様な会話を聞いて、確信して朝から映画館に出向いたが、何時に来るのか判らないで、初回から待ち続けたのだが探せなかった。
虚しい一日を過ごして、結局映画は全く見なかったのだ。
満員電車では無理だから、何処から弘子は乗るのだろう?
正造が乗車する駅にローカル線が運行している。
彼女はその電車から乗り換えで来る。
ローカル線なら若しかして話しが出来るのでは?
一目で判る程、清楚で美しい弘子は百六十センチ程の背丈でロングの黒髪、少し額が広い。
今、人気の女優に酷似をしていたから、もしローカル線の短い車両の電車なら直ぐに判るだろう。
時刻表を見ると始発駅からだと朝二番目の時間の電車で通学している事に成るので五時台だ。
正造はまさかこんなに早く通学はしないだろう。
数駅前からの乗車だろう。
朝早く起きて下り電車で五番目の駅で上りに乗り換えた。
満員に近い電車に弘子はもう既に友達と席に座っていた。
正造は目を合わさない様にしながら、乗り換えて何時もの通勤時間のいつもの場所に乗り込むのだった。
何処から通学しているのだろう?
今朝は早起きして出掛けて行ったのに、と自分の失敗を悔やんでいた。
今度は、始発駅から乗車してみよう。
そう思い立ったら、我慢が出来ない直ぐさま行動に移した。
正造は車で始発駅まで走って、何処か駐車場に入れて始発に乗り込むのだった。
「出張?変な時間から行くのだね」母の春子が言った。
仕事から帰った夜の七時に家を出る正造に、怪訝な顔の春子だった。
夜道を約一時間半走る正造は、もう弘子と話す切掛け探しに必死だったのだ。
初めての町だったから,想像していた駐車場は存在してなかった。
田舎だと思っていたが、駅前は結構賑やかな雰囲気だ。
車を駐車する場所を探すのと、今夜泊まる旅館を探す正造だった。
漸く駅前の小さな宿を見つけて宿泊したのだ。
朝五時前には起きなければと気合いを入れる。
恋は魔物か?。
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