第11話 マユ
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*
「ねぇ、祐」
「うん? 何?」
二人でのんびりと再放送のバラエティー番組を見ながら笑っている最中、わたしは祐に先ほど香織に聞いたことを確認してみようと思い、平静を装いながら話しかけた。今の錦戸家にはわたしと祐しかおらず、グレーゾーンの話も比較的しやすい状況にあった。
「さっきは急にどうしたんだ? 俺を置いて出ていくなんて。びっくりしたじゃないか」
「あれはー、えっと、そのー……。友達が緊急の用事だったらしくて……。で、でも大丈夫! もう話は終わらせたから!」
「そう? ならいいんだけど」
相変わらず、彼は笑顔を常に崩さない。暗く、どんよりした表情なぞ、一切見せそうになかった。どんな窮地に追いやられても、笑っているような気がする。香織の話を聞いた後の状態では、それが少し恐ろしく思えた。
逸れつつあった話題を慌てて元に戻す。
「その……祐って、わたしが初めての彼女?」
心音が直接耳の横で響くようだった。軽い吐き気すら覚える。
「ん? どうしたんだ、急に。さっきも言わなかったっけ? 茉優が初めてだよ」
「…………そう」
そのことを言った相手とは、もしかすると香織なのではないだろうか。先ほどの香織は、わたしにもう彼と付き合うな、と言った。愛し人を貶されたという一時の怒りの感情でわたしは彼女に当たったが、本気で考えるべきかもしれない。目の前で祐は、自分が嘘を吐いたと気付いていないような爽やかな表情でテレビに見入っている。
「……さっき、香織と話したんだ。どの香織か、なんてのは言わなくても分かるよね?」
「…………」
テレビの声に笑っていた祐は一瞬だけぽかんと口を開けた後、テレビを消した。それは彼が初めて見せた隙のある表情だったかもしれない。一秒と続くことはなかったが、軽い動揺が見て取れた。
「香織と出会って……。それで?」
「香織と祐の関係を聞いた。もう別れてしまっているなら、そんなに大きな問題でもなかったんだろうけど……。まだ二人は恋人同士らしいじゃない。……二股、かけてた、ってこと?」
わたしが祐の家に帰る途中ですれ違ったと思しき少年たちの声が、甲高い声を上げながら家の前を通り過ぎて行った。わたし達は何と醜いのだろうと、その楽しそうな燥ぎ声を聞きながら思った。単なる友人関係がこの上なく清らかで美しく、今は感じられた。
「だとしたら、何か問題でもあるのかな?」
「はぁ?」
間の抜けた声が出てしまった。謝罪を求めたかったわけではないのだが、予想外の返答に思考が追い付かなかった。
「俺がお前以外の誰かと付き合っていたからって何か問題があるのか、って訊いてる。お前は俺を好いている。俺もお前を好いている。その事実だけじゃ駄目なのか?」
「当たり前じゃない! 自分の恋人に、ほかに好きあってる人がいたら絶対に傷つくよ!」
そうか……と彼は天井を見て呟いた。一分ほど、空白の時間が続いた。わたしが呑みこむ生唾の音が、嫌に生々しく聞こえた。
「茉優。ちょっと」
「……なによ」
警戒しながらもわたしは彼に近づく。もし何かされそうになった場合はすぐに逃げ出せるように、後ろにも意識を向けて歩み寄った。
彼の手の届く距離までわたしが近寄った時、唐突に彼はわたしを抱きしめた。
「……え?」
祐の髪から少し甘い匂いがする。いや、彼全体からだろうか? とにかく、安心できる香りがわたしを一瞬、包み込んだ。
だが、そう思ったのも本当に「一瞬」だった。抱きしめられたのもまた同様で、すぐにわたしは抱擁の手を離され、勢いを止めきれずに後ろに倒れ込んだ。がつんっ、と鈍い音がして、頭にじわじわと痛みが広がる。
完全に寝ころぶ形になってしまったわたしの視界には、僅かであるが机の影があった。今の痛みは机の一辺に頭をぶつけてしまったことによるものだろう。
「ちょっと、急に何……? 痛いんだけど……!」
痛みの所為でまともに起き上がることもできず、そのままの姿勢で頭を押さえる。触る度になおも鋭い痛みが走った。
「ふふっ、ごめん」
彼は、まだ笑っていた。痛がるわたしを見ても特に気にする様子もなく、わたしへと近づいてきている。少し前に見た呆けた表情はどこにいったのだろう。ひかぬ痛みに涙すら浮かんできたわたしを見ても、楽しそうに笑っている。無邪気な子どものようだった。新しいおもちゃをもらった時の、幼稚園児みたいで――。
――ってことは……。
今の彼に映っているわたしは玩具に過ぎないということだ。人ではない。彼にとってわたしはモノなのだ。自由に弄繰り回して構わない。壊れても捨てるだけ。欲しくなれば新しいモノに買い替える。いくらでも代用が効く、永遠ではない存在。今のわたしが、まさにそれであった。
思考を巡らせている間に彼の姿は着実にわたしへと近づいてきており、次に意識を向けた時にはまさに目と鼻の先にいた。わたしを安心させるかのように祐は頭を撫で、目尻に浮かんでいた涙を優しく指で拭った。だが、それがわたしには彼から受け取れる最後の優しさのように感じられ――いや、優しさだとわたしには思えなかった。その間に彼の手はわたしの身体を撫でまわし、擽るように指を動かしていた。それが服に及ぶのも時間の問題だった。
もし香織のことを知らずに今の状況に至っていたのであれば、頭の痛みを無理やり意識の外に追いやり、彼を受け入れていたかもしれない。まだデートなどの恋人らしいことは何もしていないが、それらをすっ飛ばして新たな関係に至っていたとしても、恐らくわたしは後悔しない。順序が逆になっただけ。これからまた楽しい時間を過ごしていけばいい。そう考える。
逃げなければ。わたしの身体が、心がそう告げていた。受け入れられる自信はなかった。わたしは必死でもがく。だが、右手を強く掴まれ、ならば声を上げようとすると、口を塞がれた。
「大人しくしろ」
笑顔の後に見る表情は、どうしてこんなにも威力があるのだろうか。わたしは頷くしかなかった。勝手に涙が流れ出る。頭の痛みは既に感じなくなっていた。
――ごめん、香織。言うこと聞いておけばよかった……。
心の中で親友に謝った。だから助けて、と叫びたい。だが、叫んだからと言って彼女が助けに来るはずがない。彼女がわたしに差しのばしてくれた最後の手を、わたしは無下にした。その結果が、今だ。
最後にわたしは香織に感謝した。恨む相手に怒りの気持ちを覚えながらも、慈悲をもたらすことを諦めなかった香織に対し、純粋に凄いと思った。そして同時に、自分への惨めさを感じずにはいられなかった。
わたしが思い描いた恋って、こんなにも醜く辛いものだったかな……? 徐々に迫る彼の手と、それと共に走る不快感に耐えながら、わたしは固く目を瞑った。
Mayu's END.
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