第6話 ゲンジツ
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二月十四日の朝は、強烈な冷え込みで幕を開けた。ただ、それはこの地に於いては日常であり、特に普段と異なった意味合いを持っていることではない。私たちの感覚が、そう錯覚を見せていただけにすぎないのだ。
支度を終え、玄関先で里奈を待つ。雪は重々しく振り続け、白い傘を、それを越えた純白さで染めてゆく。傘越しに空を見上げると、地上をそのまま映し出したような、凹凸(おうとつ)のある空が広がっていた。
先日、里奈が帰ったあと、クラスの男子たちに義理でも何か作ろうかなと考えはしたのだが、やめておいた。話したことがない人はもちろん、名前すらも覚えていない人も確かにいる。以前私が思ったことだが、そんな状態で義理のものをあげたところで、そこに何かしらの感情が宿るとは思えない。だから、また来年に作るとして、今年は何も渡さないことに決めた。
「あっ、香織―。おはよー」
数メートル向こうから、里奈が手を振って近づいてくるのが見える。私も軽く手を振って応え、それから並んで歩き出した。
「どう、里奈? 緊張しちゃってる?」
私が尋ねると、里奈はメガネを曇らせながら目を細めた。
「うん、そりゃもちろん。でも、当たって砕けろとも言うしね。とりあえずやれるだけやってみようと思う」
言い終わって、里奈は唐突に自身の鞄をごそごそと漁りだす。
「何してんの?」
「いや……ちゃんと入れたか不安になっちゃってね……。もう三回目だよ」
そう言って、彼女は快活に笑った。
里奈が無理をしていることは目に見えて明らかだった。マスクで隠れてはいるが、きっと唇は小さく震えていることだろう。先ほどから話しづらそうにしている。
「……何かあったら私が何でも聴くから。言ったでしょ? 安心して」
「う、うん、ありがと香織。香織も、週末頑張ってよ」
少し早足で里奈は歩き出す。私は置いて行かれないように、必死に彼女の背中を追いかけた。それでも、徐々に間が空いていく。地面に積もった雪で歩きづらいのだが、里奈はそれをものともせずに進んでいく。
「ちょっ、ちょっと里奈、待ってよ!」
「え? あ、ごめん。あたし、そんなに歩くの速かった?」
「う、うん……っ。どうしたの、急に……?」
止まってくれた里奈に、肩で息をしながら問いかける。
「……何か、早く学校行きたくなっちゃって」
はにかんで里奈は答えた。私にはその意味がよく解らなかったが、その後歩き出してからも、里奈は終始早足だった。
私は彼女と離れないよう、常に里奈の倍ほどの速さで歩きつづけた。だが、里奈の小さな背中はとても遠く、白く美しい世界に吸い込まれていくようだった。瞬きをするたびに緑の偽りの闇が視界を覆い、次に新たな世界を見るときは、彼女はまた小さくなっていた。物理的にも当然離されていたが、そこには確実に「心の距離」が存在した。きっと、彼女は私が知らない何かを知っている。学校に着いて、彼の席へ向かう里奈の姿と表情を見た時、私は心の中に巣くうように居座っている漠然とした不安と共に、そんなことを感じたのだった。
バレンタインデーから三日が経過した土曜日の朝。私と里奈は二人、電車に揺られていた。理由は以前から計画していた通り、祐君にバレンタインのチョコを渡しに行くからだ。窓側に座る里奈は、黄昏(たそがれ)たように流れる風景を眺めている。
当初の予定では、これは私一人で行くことになっていた。里奈と祐君を会わせても仕方ないし、久しぶりに二人で水入らずの時間を過ごしたいとも思っていた。加えて里奈には、この週末は予定が入るはずだったのだが……。
隣から深いため息が聞こえてくる。あの日から数えて何度目だろうか。当然数えているはずがないが、少なくとも、本日に限った話だと五回目だった。
「……元気だしなよ、里奈……」
無駄なことだとは分かっていても、そう言葉を掛けずにはいられない。里奈は力なく私の方に顔を向け、弱々しく微笑んだ。
「ははは……大丈夫。あたしは大丈夫だから……」
駅への到着を告げるアナウンスが車内に響く。それはとてもゆっくりで聴き取りやすいのだが、まるで彼女を貫通して、心の中に直接のんびりと継続する痛みを与えているようで、私には酷に感じられた。
「当たって砕けろ」の精神の元、彼へとアタックした里奈は、まさに字の如く砕けてしまった。さすがに教室では想いを告げることが憚られたので、適当な理由を付けて彼を外に誘い出し、二人きりになることには成功したらしい。そのまま、里奈はクッキーと共に告白したのだが、彼からの返事は「ノー」だった。里奈のことは嫌いではなく、寧ろ好きの部類に入るらしいのだが、あくまで友人としての好きであり、異性として里奈を見ることはできないと彼は告げたのだ。少々歯に衣着せぬ物言いだが、里奈曰く、彼は心の底から申し訳ないと言いたげな表情をしていたらしい。それもまた、彼の優しさなのだろうと思った。彼は結局、クッキーだけ受け取り、ホワイトデーには必ず返すから、と宣言して去っていったと言う。
「ねぇ、香織……」
消え入りそうな声で、里奈は私を呼ぶ。これもまた、ここ数日で繰り返している行為の一つだ。
「なーに?」
「あたし、今回の事でよくわかったよ。やっぱ恋って難しいし、理解できない事だらけなんだね。あたしは香織が羨ましいよ。順風満帆らしくて……」
洟を小さく啜る音が聞こえた。私は反対側の窓の方を見、彼女には顔を向けないようにした。こちらとは違う景色が、あの窓からは見えている。木々が茂るこちら側に対し、あちら側には広々とした田園風景が広がっていた。
「彼のことは悔しいし寂しいけど、でも折り合いはついたと思う。ありがとう、香織。本当に約束通り色々なこと、聴いてくれて」
失恋したその日、私は宣言していた通り、里奈の愚痴の捌け口となった。滝のようにどんどんと言葉を溢れさせた里奈は、三十分も話すと疲れたのか、それとも緊張が解けたせいか、そのまま静かな寝息を立て始めてしまった。それは放課後の、無人の教室での出来事だったので、私はそのまま一時間ほど彼女と共に薄暗い教室に居続けた。下校時間を過ぎ、外が薄闇に包まれ始めても、見回りの先生が来るまで、私たちはその場所に座っていた。結局先生にばれ、二人とも説教を受ける羽目になったのだが、帰り道、里奈は時折すべてを忘れたかのような清々しい笑顔を浮かべていた。これならすぐに元の里奈に戻るだろうと思ったのだが、それからは今し方のように、たまに陰鬱なムードに浸る彼女を目にすることになるのだった。
「私自身が言ったことだし、気にしないでいいよ。里奈は頑張ったんだから」
「……ありがと、香織。本当に」
再度同じセリフを彼女は繰り返した。目的の駅に着くまでの一時間ほど、私たちは特に喋ることなく、里奈は外の景色をぼーっと眺め続け、私はこの後の出来事について緊張とも期待ともつかぬ想いに身を固めていた。
「あ、それと……。今更ではあるんだけど、本当にあたし、今日ついてきて良かったの?」
「本当に今更だね」
次に私たちが口を開いたのは、電車から降りて、改札口を抜けた時だった。暖かい車内から吐き出された私たちの身体は、縛られるような痛みを共にして動く。ポケットに手を突っ込み、マフラーに顔を埋めながら、私はゆっくりと歩きだした。
「別に気にしてないよ。香織も家に居ても手持無沙汰だろうし、それに、正直に言うと少し心細かったんだ。だから、こうして一緒に話したりしながらここに来れて、今はちょっと落ち着いたの。気にしないでよ」
後ろを歩く里奈に微笑みかける。
こちらは雪が降った跡すらなく、乾いた固いコンクリートの地面が延々と続く道が、目の前に広がっている。人と自動車の流れは川の水のように絶えることはなく、人の手によって作られた甲高い音が、私たちが立つ空間を支配していた。
「そ、そう……? あ、でもでも、香織が彼氏さんと会う時はあたしどっか違う所にいるから! 流石にそれぐらいは……!」
「え? 別に気遣ってくれなくても……」
「あたしが辛いの!!」
「じゃ何で来たの……」
「だって気になるんだもん……」
そんなくだらない会話を展開させながら、私は彼の家に向かって歩き出す。歩けばきっと三十分ほどかかるはずだ。特に変わらぬ街の風景を眺めつつ、私はゆっくりと歩く。久しぶりに吸う都市部の空気は、非常に辛(から)く感じられた。
「ねえ香織。家、まだなの?」
「ん? もうすぐだよ……ホラ、あれ」
見慣れたレンガ造りの家が、私の指先にはある。時が流れていないように、一晩しか経っていないように私には感じられた。昨日会話した彼が、何一つ変わっていない姿で、話の続きでもしようと誘いに来てくれそうな錯覚に陥った。
ぽんぽんと肩を叩かれる。
「……香織、ガンバ」
曇ったメガネの奥で、きっと両の瞳が微笑んでいる。里奈はそれから先はついてくることはなく、私に背を向けた。
今一度、私は鞄の中を確認する。バレンタインの日に彼女が覚えたであろう心情を、私も覚えている。何もせずとも、鼓動の音が口のあたりまで響いているのが分かった。
一歩、また一歩と家に近づく。いつもの三倍の時間をかけて到達したインターホンの前で、私は小さく深呼吸した。そして手を伸ばそうと、ポケットから片手を出した時、唐突に私を呼ぶ声がしたのだ。
「あれ? もしかして香織?」
「え?」
完全に裏返った声を上げて振り返ると、厚着に身を包んだ茉優が、そこに立っていた。
「あ、やっぱ香織だー。久しぶり! どしたの、こんなとこで?」
大きな瞳で私を覗き込む。数センチ身長が私より高い彼女は、やや見下ろしているようだった。
「どうしたもこうしたも……って、え? 茉優こそ何でここに……?」
久しぶりの再会を喜びたいのだが、この状況に思考が追い付かない。茉優は待ってましたとばかりに破顔させ、一つの包みをポケットから出した。
「わたしはこれを渡しに来たんだー! 前に作ったの!」
ピンクの包装紙とハートのリボンで飾られたそれは、明らかにバレンタインの贈り物だった。茉優の視線は、既に私を射抜いてはおらず、その包みと、私の背後にそびえる一軒の家に注がれていた。
「……渡すって、誰に?」
茉優は少し胸を張った。それは、私が最初に知った彼女の姿で、彼女が放つ言葉も、それを追いかけたようだった。昔にタイムスリップしたように、茉優は無垢な笑顔を携え、告白したのだ。
この家の住人――錦戸祐に、これを渡すと。
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