第5話 ココロ
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*
もうすぐバレンタインデーだ。あの日から既に一年半以上が経過しており、そろそろ心の傷も癒えてきたことだろう。しばらくは登校することすら苦難に感じられ、引きこもってしまおうかと考えたこともあった。それほどに、わたしは彼を好いていた。だから、別れた時には、親友である彼女に色々と愚痴ってしまった。行き場のなくなった想いをどこに向ければよいのかわからなくて、結果、身近な人に、変換された「好き」を与えたのだ。
『まぁ、まだまだ中学生活は始まったばっかりなんだし、新しい人を見つけなよ。茉優ならすぐにできるよ、そういう人』
その時の彼女の言葉を、わたしは心の底から信じて生きてきた。表向きは虚勢を張って「恋人なんて二度と作らない!」と言っていたが、内心ではやはり欲しいと感じていた。可能ならば、もう一度彼とやり直したい。彼と過ごした時間は短くはあったが、この上なく充実していた。この気持ちは完全に拭い去れたものだと思っていたが、都合よく消えてくれることはないようだ。彼と仲を取り戻すか、それを越える恋を見つけるしか方法は無いらしい。
「でも、それも数日前までの話……!」
バレンタインを三日後に控えた日曜日、わたしはいそいそとチョコづくりに励んでいた。昔の彼氏への想いは、きっと心のどこかに未だ残っている。だから、こうして楽しげに茶色の液体を弄び、オーブンで灼熱の空間に浸している間にも、時折背徳感のような、心を痛めつける思いがわたしの動きをわずかに静止させるのだ。
「……ダメダメ、集中集中!」
もし今、前の彼氏から連絡が来て、「もう一度付き合ってくれないかな?」と言われたら、わたしはこの想いの結晶であるチョコを放り出して彼の元へ行けるだろうか。新しく覚えた想いを捨て、彩りを取り戻そうとしている昔の想いへ縋りつくことができるだろうか。
焼き上がったパウンドケーキを袋に詰め、リボンで可愛らしい装飾を施す。あとはメッセージを書いてリボンに結び付ければ完成だ。
「ありがとう、香織。わたし、新しい恋、見つけられたよ!」
離れてしまった友人を目の前に思い浮かべて、わたしは笑む。彼女も今頃、元気にやっているだろうか。時々文字での会話はするが、わたしの恋愛事情は伝えていない。いつか再会した時に驚かしてやろうと思う。その時には、もしかしたら香織も彼氏を作っているかもしれない。……どっちも驚くことになりそうだね。
「えっと、それじゃペンと手紙を……」
両親は出かけているので、家の中はわたし一人。とても静かなものだ。文章や内容を考えに考え、書いては消し、書いては消しを繰り返す。それでも彼への想いを忠実に、一枚の紙の上に綴った。純白のそれは黒い文字を鮮やかに映えさせ、わたしの気持ちは些か膨れ上がるようだった。
「……うん、これでいいかな。……っとと、名前書くの忘れてた。危ない危ない」
ゆっくりと二つの名前を二段に分けて記す。
「錦戸祐さんへ。西永茉優より」
わたしは一人、笑う。
部屋の中は甘い香りで満ち溢れており、外の世界とは一線を画しているように、わたしには思われた。
*
「香織―、これでいいの?」
「えー? ちょっと待ってー! 今手が離せなくて……!」
「――わっ! 零れるかと思った……」
「……久しぶりに賑やかなのもいいねぇ」
私と里奈のやりとりをお茶を飲みながらのんびりと眺めていたお母さんが、子猫でも見るような瞳を携えて言った。お父さんは娘に気を遣ってか、朝からどこかに車を走らせに行った。
「もー、他人事みたいに……」
「だって他人事じゃないの。お母さんは何も関わってないわよ」
「あ、あの……すみません、折角のお休みにお騒がせしちゃって……」
幾分か縮こまって謝る里奈に、お母さんはぱたぱたと片手を振り、笑顔で応える。
「いいのいいの、母親としてはとても嬉しいから。新しい場所でちゃんとお友達ができているか不安だったしね。これからも香織をよろしくお願いします」
「ちょっと、お母さん……」
二人のやりとりにため息を漏らしたりしながらも、私たちのクッキー作りは着々と進んでいった。途中で里奈がホットケーキミックスをくしゃみで吹き飛ばしかけ、部屋が粉に塗れかねない事態が発生し、三人そろって慌てたりもした。だが、完成が近づくにつれ、それらも過去の想い出のように笑えるものになりつつあった。オーブンから漏れるチョコの苦みの混じった香ばしい香りに、私たちの、特に里奈の期待は秒刻みに増してゆく。焼き上がるのを待つ今は、三人そろってリビングでお茶を飲む時間だ。タイマーをセットしているので、たまに異常がないか確認にはいくものの、基本的にはどっかりと腰を据えて待っていられる。
「里奈ちゃんは、誰に渡すの?」
静かにお母さんが問うた。まるで女子高生になったように、恋する友人をからかうような瞳をしていた。
「えっ、きゅ、急になんですか……?」
慌てる里奈にお母さんはくふふと笑う。
「だって気になるじゃない? 今日のやりとりを見てると、失礼だけど料理が得意そうには見えないし、作ってるのもそんな大勢分じゃないわよね? だからクラスの男の子に義理であげるわけでもなさそうだし……。ってことは、特別な誰かがいるのかな? って思っちゃってね。そこんとこ、どうなの?」
心の底から彼女をいじることを楽しんでいるようで、お母さんはどんどんと精神的に里奈を追いこんでいく。狼狽する里奈は、私に助けを求めるように視線をこちらに向けるが、私も里奈の想い人は気になっているのだ。里奈には申し訳ないが、今はお母さんに味方したい。
「私も……知りたいなぁ? ねぇ、教えて、里奈?」
私が里奈の瞳を覗き込みつつそう訊ねると、「うっ」とうめくような声を漏らした後、恨みがましい視線を向けてきた。それでも多勢に無勢と思ったか、逃亡を止めて、一つ深い息を漏らした。室内には、相変わらずほろ苦い香りが漂っている。
「……みんなには内緒だからね……。もし言ったら……」
「分かった分かった。お母さんも。無いと思うけど、クラスの人のお母さんにばらしたりしないでね」
私たちが頷くのを確認してから、里奈は告白してくれた。
「へぇ……あの子が……」
「お母さんは全然わかんないんだけど……その子、どんな子なの?」
「えっとね、大人し目で心配りができてね――」
話している途中でオーブンが時間の経過を告げたが、私たちの誰一人もその場から動くことはなかった。興味という気持ちだけでその場に石のように固まっていた。
「話してくれてありがと、里奈。いいんじゃない? 別に恥ずかしがるようなことじゃないよ、お似合いだと思うよ。里奈だったら」
「……ホント?」
「うん、私が保証する。だから自信持って」
里奈が告げたクラスの男子は、他人の気持ちを無下にするような人ではなかった。仮に里奈のことを異性として好いていなかったとしても、想いは真摯に受け止めてくれるはずだ。
里奈は最後に漏らした。「もし振られて、今後の関係に影響が出たらどうしよう」と。里奈がその話をしたとき、私の脳内には、水が流れるように彼女が浮かんだ。一クラスメイトの関係でいられる方が幸せだったのか、何れ別れることになろうとも恋人の関係になれたことを喜ぶべきなのか。結果論とはいえ、彼女は自問するように言いながらも私に問いかけていた。当時の私に答えは出せなかったが、自分が思うことの全てを彼女には吐き出しただろう。
私も今は一人の想い人を持つ身であり、目の前の友人もまた、同じ存在を心の中に持っている。私はまだ考えてはいないが、きっと、いつかは茉優が考えたことと同じことを考えなければならなくなる日が来るだろう。それが吉に転ぶか凶に転ぶかわからないが、どんな結果になろうとも、今、彼の地で元気に生活を送っているであろう少女のように、再び元の自分を取り戻さなければならない。
「……やっぱり、不安だな、あたし」
私の心を代弁するように、小さな里奈のつぶやきが心の隙間に入り込む。何かが失われてできたであろうその場所に、覆いかぶさるようにそれは埋められる。
「……落ち着いて。何かあったら、私が全部聴くから。ね?」
入り込んだそれを静かに排出するように、里奈に笑顔を向ける。小さくも、彼女は頷いた。
本当は「大丈夫」と言って安心させたかった。だが、恋心に対して「大丈夫」とは言えないような気がした。
もしかしたら想い人にこっぴどく振られるかもしれなくて、それはこれまでの短い人生の中で最も苦しいことになりうるかもしれなくて、仮に受け入れてもらえたとしても何れは別れてしまうかもしれない、そんな脆く弱いつながりの関係に対して「大丈夫」は、とてつもなく無責任な言葉のように感じられた。
「里奈はいい子なんだから。いつも通りの里奈でいれば、きちんと想いは伝えられるよ」
この先発するすべての言葉が、恋に対しては何の意味も価値もない、塵のようなものに思われる。だからもう私はそれ以上心の中の想いを言葉にすることはせず、小刻みに震える里奈の手を握り締めた。
私は片手で、用意しておいた袋を手繰り寄せ、彼女の目の前に出す。一つ頷くと、里奈も察してくれたのか頷き返してくれた。
「ありがとうね、香織。いろいろ」
「ううん。楽しかったよ」
間もなくして里奈は帰宅した。メッセージカードは家で書くということで紙だけ渡した。
里奈がいなくなり、部屋からチョコの匂いが消えるまで、私の家の中から沈黙は消えなかったような気がする。お母さんの言葉にも、生返事しかしていなかった。会話と呼べるようなものはなく、流れていたものは空気だけだったように思う。
「あ、スマホ……」
ポケットに入れていたスマホが震え、メッセージが表示される。
『もうすぐバレンタインだねー(>_<) どう!? そっちに気になる人いる!?』
茉優からだった。何と返そうか暫し思案していると、矢継ぎ早に次のメッセージが到来する。
『わたしは見つけちゃった(#^.^#) 素敵な人(^O^)』
恋、ってそんな軽いものなのかな……?
確かに私はあの時、茉優ならすぐに良い人が見つかる、と言った。それは実現化し、二度と彼氏は作らないと言っていた彼女は、容易くその宣言を破ってしまった。すぐに見つかり、すぐに消え去り、すぐに次を見つけ出す。恋とはそんなに薄く、容易なものなのだろうか。彼女が求める恋とは、そんな小さなものでいいのだろうか。私の恋が正しい、とか、あの子の恋が間違ってるとか唱えるつもりは無い。だが、茉優のメッセージを見ていると、何も存在しない「無」の空間に取り残されたような、言いようのない寂しさを覚えるのだ。
きっとこの子はまた後悔するんだろうな……。
少し前にこの家を出て行った少女の背中と比べ、私はそう思いながらぽつぽつとメッセージを打ち込んでいくのだった。
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