第7話 ハジマリ
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私の目の前で、彼女はインターホンに手を伸ばし、甲高い音を響かせた。数秒の空白の後に大きな扉が開かれ、「彼」が顔を覗かせた。
「彼」の元に、茉優は駆けてゆく。そこに、彼女らの邪魔をするものなど、何もなかった。ずっと前から面識があり、さらに好きあう関係となっていたかのように、二人は自然な流れで笑顔を交わしていた。
「祐さん! その……今日はお渡ししたいものがありまして……」
誰とも分け隔てなく接し、先輩にすらも軽い雰囲気のまま会話する茉優が、今日は少し緊張していた。私が見る限りでは、視線は一点に定まることなく浮遊しており、口調がいつもよりも堅苦しい。最後の「あ、上がらせてもらってもいいですかっ?」まで言い終わると、彼女は赤い顔で息を吐きながら、それでも残る力を出し切って、彼を見た。
「そんなに緊張しなくても。ほら、お茶用意するから。遠慮なく上がって」
震える茉優の肩にぽんと手を置き、彼は爽やかな笑顔のまま言った。それは、かつて私が見せてもらっていたものと何ら変わりはなかった。私が、誰かを安心させられる笑顔と感じた、そのままの表情だった。
茉優は「はい!」と頷き、安心しきった笑顔で中へと吸い込まれていく。やがてその姿は奥へと消え、彼は茉優が行った方向を身動ぎせず見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……どうしてここに?」
先ほどが天使の声であるのならば、今の彼の声はきっと悪魔の声と例えられるのだろう。私が知る彼の出す声ではない。爽やかさなどは微塵もなく、これが、「本当の人間」が持つ声だったのかもしれない。
ここは大通りから少し逸れた小さな道に面する場所なので、周りは静かな方だ。わずかに車の走る音が聞こえてくるが、それは私たちの頭上を風のように飛んでいく。だが、彼の発したものはずっとその場に残り続けた。数秒前に消えたものは、周りを凍てつかせる余波のごとく私の身体を蝕んでいく。
「私は――」
彼の問いに答えようとしたとき、家の中から「まーだでーすかー?」と間延びした茉優の声が聞こえてきた。私を一度睨んだのち、「すぐいくよー」と天使の声で返した。
彼女が他人の家でこんな大声を出せるということは、彼の両親は不在なのだろう。思わず私は一歩、二歩と後ずさった。私が憧れていた空間が、醜く薄汚れた廃墟のように映った。私に背中を向け、戻ろうとしていた彼はドアを閉め切る寸前にその動きを止め、顔だけをこちらに向けて、低く言い放った。
――邪魔するな。
金属音と共に扉は閉められた。背後を一台の乗用車が通り過ぎていく。私はさらに一歩、二歩と後退した。それから数分程、その場に立ち尽くした。冷たい空気が頬を刺し、どんよりした空は、永遠に続いていた。絶えず、大通りの走行音は聞こえている。
車がやってくることはなかった。
様子を見にやってきた里奈に救出され、私は里奈が待機していた喫茶店へと運ばれた。自分の足では歩いていたのだが、もはや引きずられているような状態だった。
二人で頼んだホットココアを前に、私たちは沈黙する。店内に私たち以外の客はおらず、何やら荘厳なオペラのような曲がかかっている。厨房ではオーナーと思しき男性が、退屈そうにテレビに視線を向けていた。
「……その……聞かせてもらっても……いいかな?」
里奈が腫れものに触るような調子で問うてくる。私は無言で頷いた。
「……それで、何があったの?」
もう一つ無言の頷きを見せた後、私は話し出したのだろう。ほとんど無意識だったと思う。後で里奈に聞いたところ、それはお経のようだったと言った。
全てを聞いた後、里奈はわが身に起こったことのように憤慨した。
「何それ! それじゃその男は香織を裏切ったってこと!? こっちに来てる間に別の女を――!」
「……里奈、落ち着いてよ」
机を二、三度叩き、怒鳴る里奈をかすれた声で宥める。里奈はごめんと謝り、冷めているであろうココアを一口飲んだ。
「ありがとう、里奈。怒ってくれて」
「……何言ってんの。香織は被害者なんだよ? もっと怒ってもいいんだよ?」
先ほどの怒声とは正反対の、心の底から湧き出たような優しい声をかけてくれる。それを聞くだけで、心がすっと軽くなった気がした。
「まとめると……香織の彼氏は香織が引っ越した後に、別の彼女を作った。しかもその彼女は香織の親友で……今、二人は彼氏の家で出会っている、と」
机をかつかつと小突きつつ里菜は言う。その通りなのだが、私はうなずくことも否定することもしなかった。まだ、先ほど起こった現実での出来事を、受け入れきれないでいる。夢だと思いたがっている自分がいる。うなずいた瞬間に現実を現実だと認めてしまうようで、それは悔しかった。里菜も理解してくれているのか、私が固まっている間は、何も話しかけずにいてくれた。私はうつむき、目の前で揺れるココアの水面≪みなも≫を見つめる。私の身体が机にぶつかるたび、軋む音とともに空間が波を打った。
机の上に置いてあった私のスマホが、バイブレーションで何かの着信を告げる。里奈を見、彼女が頷くのを確認してから、私は内容を確認する。微かに、指が震えていた。
『さっきはどうしたの? 体調でも悪いの?』
茉優にしては珍しく、簡素な文体だった。それだけ、私のことを心配してくれているのだろうか。こうやってメッセージを送ってくることを思えば、きっと彼は茉優に私たちの関係の事を話してはいないのだろう。茉優は、目の前の男が既に彼女持ちの人間であると知らずに、今は嬉々として甘々しい室内で笑顔を零しているのだろう。ならば、茉優も私と同じ立場にいる人間だ。彼女もまた被害者。私はそう思った。
事実を教えるべきか否かで迷っていると、一分ほどの間を置いて、再びメッセージが送られてきた。
『何か手伝えることがあったら言ってねー(^O^)』
『香織には感謝してるんだから!』
傷つき、荒んでいた心が、やんわりと修復されていくような心地だった。身体が軽く感じられた私は、謝意を示そうと思い、字を打ち込んでいく。その最中にも、メッセージは送られてきていた。
『あ、そうそう! 香織!!』
彼女の言葉を聞くために指を止める。
『言っておきたいことがあるんだけどー…』
何だろう? と画面を凝視する。
『実は……お付き合いすることになりましたー!(^^)!』
写真が張り付けられている。そこには、彼と笑顔で映る茉優の姿があった。
「……は?」
それを見つつ声を上げる私の指は、勝手に画面の「×」を連打していた。言葉になろうとしていた感謝の文字は、食われるようにして消えていく。こちらの都合も知らぬ彼女は、自慢げに次々と写真やメッセージを送ってくる。いずれもこの先の未来に希望と夢を抱いているものであり、私を心配するときに出していた固い雰囲気など欠片もなかった。『何か手伝えることがあったら相談して』とかそんなことが書いてあった吹き出しはとうの昔に端へと追いやられており、その何倍もの数の幸せが、画面上には広げられている。
それらを見ていると、気持ち悪さすら感じるようになってきた。人間に隠された醜さが凝縮されているようで、彼女らはもっとも下卑た人種だと思った。
やまぬ手中の振動に耐えきれなくなり、私はスマホを机に叩き付けた。破裂音が静まりかえっていた店内に響き渡り、店主がはっと顔を上げていた。勢いで里奈の前にまで滑ったスマホを、彼女が覗き込む。「うわっ」と里奈は声を上げ、口元を手で覆った。
「……酷いな、こりゃ……」
奴らを放ってはおけない。今すぐにでも家に突撃し、二人を苦しめたかった。偽りの優しさで人を心配するような奴に対して持ち合わせる心などない。自分の中でどんどんと正当化されていく怒りを、とにかく二人にぶつけたかった。
「香織」
「何」
呼びかけに対し、苛立ちを隠さぬ物言いと共に里奈を睨む。
「まさか、怒るなって言うの?」
私の問いに里奈は場違いであるが、くすりと笑う。
「そんなまさかなんてないよ。真逆。香織、あたしから頼みがある」
「何」
少々萎縮しながらも、里奈はきっぱりと言い切った。彼女もまた、深い想いを胸の中に携えていた。
「あたしにも手伝わせてほしい。今、香織がやろうとしてること」
「……どうして」
「香織をこんなに雑に扱うような男がいるってことに腹が立った。あたしは香織の友達だから、友人が酷い目に遭っているのに何もしないのは、正直言って心苦しい。だから――」
「それだけ?」
私には一種の確信があった。私のことを友人だと言ってくれ、そんな私に加担してくれるというのは、純粋に嬉しく思った。だが、それよりも大きな理由が、あるように私には感じられたのだ。
案の定、里奈は負けたと言わんばかりに苦笑し、その笑みを継続させたまま言った。
「……憂さ晴らし。あたしも振られたばっかで男に不満持ってるから」
冗談に聞こえるがそうではない。表情は笑っているようだったが、心を表す瞳は無表情だった。
「分かった」
それから私たちは、どのようにして二人を苦しめるか相談した。オーナーは私たちの会話に興味など一切示さない。安心して計画を練ることができた。
怒りを覚えながらも、心のどこかにそれを楽しむ気持ちがあった。里奈となら、二人に私たちが感じた想いを分け与えることができる。根拠のない自信の湧き上がりを覚えた。
こうして、私たちの復讐物語はようやく幕を開けることになる。
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