第3話 オモイ

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 学校に馴染むことは思っていた以上に簡単だった。私が通うことになった中学校は、アパートから徒歩ニ十分ほどでたどり着ける場所にある。冬が深まるにつれ、雪の量が増し、歩くのが困難になるのは悩みの種だが、それに目を瞑れば、毎日の登校は以前よりも随分と楽になった。生徒数も然程(さほど)多くはなく、一学年五十人ほど。二クラスで十分に収まる量だ。それゆえか、転入生である私に大きな興味を持ってくれたらしく、自己紹介が終わった後には、クラスメイトからの質問攻めに遭ったりもした。特に、転入してすぐに隣の席になった水川(みずかわ)里奈(さとな)とは、あちらから話しかけてくれたこともあり、早く打ち解けることができた。

 他の子に訊くと、里奈は男女構わず、誰とでも接することができる非常にフレンドリーな性格の持ち主で、女子の中心的存在だ、ということだった。成績も優秀で、クラスの皆から頼られている。度が弱めの赤メガネを人差し指でくいっと持ち上げる仕草が、彼女の癖だと聞いた。

 中には、所謂(いわゆる)オタク趣味を持った人や、ちょっと変わった人もいるが、大きな諍いなどが起こったことは無いらしく、あちらにいたころとそう大差ない、楽しい生活が送れそうだった。

 そして今日も一日が終わり、放課後を迎える。

「うっ……寒っ……」

 暖房の効いた教室から一歩廊下へと踏み出すと、否応なく、体は縮こまる。お母さんに買ってもらった手袋とマフラーをいまいちど締め直し、寒い廊下を昇降口に向かって歩き出す。

「あっ、香織ー。もう帰るの?」

 背後から明るい声が掛けられる。振り返ると、マスクのせいで、メガネが自分の吐息で曇ってしまっている里奈が立っていた。

「里奈、メガネ真っ白」

「仕方ないでしょ! メガネ掛けてる人は皆こうなるんだよ! これは宿命みたいなもんなの!」

 里奈はマスクを一旦ずらしてそう叫ぶ。彼女は防寒対策の一種として、マスクを着用している。なぜマフラーをしないのか訊ねたことがあり、その時彼女は「首が締まるみたいでいやだ」と答えた。その点、マスクは手軽だし、見た目もちょっと良くなるから好きだ、と里奈は人懐っこい笑みを浮かべて教えてくれた。

「そう言えば、香織が転入してきてそろそろ一週間だね。どう? こっちはやっぱり過ごしづらい?」

「ううん。別にそんなことはないよ。私が前住んでたところよりも雪が多いのはちょっと戸惑うけど……。こっちでもみんな仲良くしてくれるし、とても楽しいよ」

 そっか、と里奈はメガネを触りながら答える。窓の外を見ると、また雪が降り始めていた。雪が積もっていなければ、のどかな田園風景が拝めるのだが、二十センチほど積雪した今は一面が銀世界だ。ずっと見ていると、目がじわじわと痛み始める。こんなにも積もった世界は見たことがないので、そんな体験も少し新鮮に感じられた。

「やっぱ、こっちは雪多い?」

「うん、そだね。こんなに雪が積もった景色なんて、見たの初めてだよ。雪が降ったことはあっても、十センチも積もることはなかったから……。雪ってこんなに眩しいんだね」

「あまりに眩しい時は、サングラスかけて来る人もいるよ」

「え、そうなんだ?」

 そんなことをお互い笑いながら会話しつつ、帰路を辿る。長靴で踏みしめられる輝く雪が、鳴くような音を立てる。二人で、転ばぬようゆっくりと歩く。

「今日香織の家、寄ってっていい?」

 マスク越しのくぐもった声が掛けられる。相も変わらずメガネは白かった。

「いいけど……。急にどうしたの? ウチ寄っても誰もいないよ?」

 私と里奈の家は同じ方向だ。だから、帰る時は時間が合えば、一緒に帰ることにしている。これまで里奈が私の家に上がったことはないが、いつかはそんな日がくるだろうな、と予想はしていた。だから、私はすぐに了承する。

「別にいいよー。あたし、今日は暇だから、ちょっと暇潰し」

 けたけたと笑う。私たちはそのまま、家に向かった。



「じゃ、上がって。すぐに暖房つけるから……。何か飲む?」

 肩に乗った雪を玄関先でぽんぽんと払っていた里奈は、物珍しそうな表情で室内に入る。

「あ、お気遣いなく……。このアパート、初めて入るけど……。結構中は綺麗なんだね。うわ、あたしの部屋とは大違い。片付いてるねー」

 部屋を隅々まで値踏みするように見回しながら、里奈はそんな感想を漏らす。窓の向こうでは、雪が少しずつ強さを増し始めているようだった。

「来たはいいけど、何する? ゲームとかはあんまりないんだけど……」

 戸棚にあったポテトチップスを開封し、部屋の中央に陣取っている炬燵の上に置く。十分に温まっていたその中に、体ごと突っ込む。

「ううん、適当に駄弁るだけでいいよ。あたし、ゲームはそんなに得意じゃないから」

 そっか、と私はうなずく。

「じゃ、何話そうか」

「そうだねー……。香織って、好きな人、いる?」

「……へっ?」

 唐突な質問に、思わず変な声が漏れた。心臓の跳ねあがりと共に、照れの感情が頭の方へ昇っていくのが感じられる。

「え、どうしたの、香織? 顔真っ赤……。あぁ、もしかして、図星だった?」

 けらけらと可笑しそうに里奈は笑う。

「い、いや、違うよ……! これはー、その、暑くて! 炬燵がねっ!」

 言いながら私は炬燵から足を出す。部屋の中は完全に温まってはおらず、冷気に足が晒される。スカートだからなおさらだ。「さむっ」と私は悶えてしまい、すぐに炬燵へと足を戻した。

「……何も違わないじゃん。言い訳? 素直になりなよー」

 うりうり、と指を伸ばして、里奈は私の頬をつつく。はぁ、と私はため息を吐き、里奈を見る。白い息の向こうに、楽しそうに笑う彼女の顔があった。

「……どうして急にそんなことを?」

「だって、今日が一月二十日じゃん? 一か月もしないうちにバレンタインだからさ。香織にも好きな人とかいるのかなー、と思って。香織ってかわいいじゃん。彼氏ぐらいいてもおかしくないよなー、って前々から考えてはいたんだよ」

「……そっか、もうそんな時期なのかー……」

 それはつまり、彼と付き合ってからは初めて迎えるバレンタインということだ。中学一年の時のバレンタインには、クラスの男子全員に義理のお菓子をあげたが、今年は、私にとって周囲の男子以上の存在意義を持つ彼が待っている。何か特別なことをしてもいいかもしれない。

「それに、思春期の女子っぽい会話かな、とも思っててね。それで、どうなの?」

 私はポテチを二枚掴んで口の中に放り込む。軽快な音と共に、塩味が口内に沁み渡る。舌で唇を湿して、口を開いた。

「……うん、いるよ。ここに来る前にできた彼氏がね。今は離れているけど、別れたわけではないから、いわゆる遠距離恋愛、ってやつだね。ちょっと寂しいけど」

 ほぉー、と里奈は食い入って私の話を聞いている。

 実は、学校が始まる前に私だけであちらに戻って彼に会って来たのだが、驚きと喜びが混じった表情で出迎えてくれた。数時間だけであるが、新天地での話などを楽しんだ。本当なら毎週帰りたいのだが、電車賃や時間の問題がある。だから、最高でも月に一回しか帰れそうにない。行事の時期になったり、部活に入らなければならなくなったりしたら、その頻度は確実に落ちるだろう。ドラマのヒロインも、こんな心境なのかな、と考えたりした。

「それで? その彼ってどんなのなの? 同い年? 年上?」

 炬燵の上に両手を突き、体は半分以上外に出した状態で里奈は矢継ぎ早に尋ねる。

「まぁまぁ。ゆっくり話すから、落ち着いてよ」

 それから頻繁にテンションを上げる彼女を宥めつつ、私が知っている彼の情報の多くを共有した。話し終わる頃には部屋の中は暖房による温かさで満ちており、炬燵に突っ込んでいた両足は強い熱を帯びていた。既に空になったポテチの袋をゴミ箱に放り捨て、次はミカンに手を伸ばす。

「そっかー……でも、聞いている限り、めっちゃ良い彼氏じゃない? 年上で、気配りができて、加えて爽やかフェイス……。羨ましいわー、ほんとに……あ、あたしにもミカンちょーだい」

 私が頷くよりも早く、里奈はミカンを取り、皮をむき始める。

 少し酸っぱいミカンを咀嚼し、呑みこんでから、今度は私が里奈に問いかける。

「里奈はどうなの? 好きな人……とまではいかなくても、理想ぐらいは持ってるんじゃないの?」

「……あー、やっぱり答えなくちゃ駄目?」

「私だけ話すのはフェアじゃないよ……。ホラ、女子っぽい恋バナなら、互いに共有してこそだと私は思うんだよ」

 ははは……と里奈は後ろ頭を掻きながら、メガネの奥の瞳をゆっくりと私から逸らす。半分以上残っていたミカンの塊を一気に口にして、殆ど噛まずに呑みこんだ。その後里奈は一瞬だけ咳き込んだが、すぐに呼吸を整えて、元の姿に戻った。それでも熱気のせいか否かはわからないが、頬はほんのりと紅潮している。それがメガネの赤と共に協奏の旋律を奏で、美しさすら感じた。

「……じゃあ、里奈の理想のタイプを教えて。誰か、とまでは訊かないからさ」

「……わかった」

「それじゃあ……」

 特に当たり障りのない、ごく普通の質問を繰り返す。彼女が正直に答えたかどうかはともかく、大体の理想像が浮かんでくるようだった。

「つまり……年齢は近い方がいい。でも下はだめ、可能なら同い年。ルックスはあまり問わず、どちらかというと性格を重視したい。家庭的ならばなお良し……こんな感じかな?」

 里奈は質問中からずっと彷徨わせていた視線を、未だ動かしている。それでも遂にそれを止め、私の確認にわずかではあるが首肯した。

「あたしってさ、あまり女子っぽくない、って自覚はしてるんだよね。さっきも言ったけど部屋は散らかってるし、満足に料理とかもできないし。だから、そんなあたしでも受け入れてくれるような寛容な人がいいな、って思う。だからその……なんて言うんだろうね、本当に香織が羨ましいの。女子中学生っぽく振舞って、年相応に想い人がいて、その人のために尽くしたい、って思えるその心が、とても羨ましい……」

 ぱっくりと頭を開かれたミカンの皮が、エアコンから出る風に小さく揺れている。誰かの些末な思い出のようなミカンの筋が、どこかへ去るようにころころと遠ざかってゆく。

 沈黙が下りたその中で、私は何とか声を絞り出した。

「……里奈は十分女子っぽいよ。恋バナとか出来る時点で、十分な女の子だよ」

「……どういうこと?」

「そのまんま。私が前通ってた学校では、誰も恋バナとかしなかったんだよ。周りの男子にはおろか、画面の中のアイドルとかにも興味がない人たちばかりでさ……。恋愛に興味がなかった、ってわけではないと思うんだけど、その想いを全然口に出そうとしないの。だから付き合い始めた時も、正直迷ったんだよ。このことを誰かに話すべきか否か、ってね。結局両親には打ち明けたけど、友達には誰も明かせていない……今でも私はあっちに帰ってみんなに会えば、『自分たちと変わらない、クラスの誰とも仲良くできる普通の女子中学生』なんだよ」

 ここに来て思ったのだが、以前の私はとても窮屈な思いをしていたようだ。当時は全く感じなかったが、今、ここで新たな友人と恋バナに花を咲かせていることに、とても満足し安心している自分がいる。

「それは……結構つらいかも……」

「だから、里奈はとても女子っぽい! 恋の話を前に出せるってだけで、とても女子っぽいんだよ!」

「そう、なのかな?」

 里奈はしばらく戸惑っているようだったが、やがて折り合いがついたらしく、小さな笑みを浮かべた。

「ありがと、香織。ちょっと元気出た」

「ふふ、どういたしまして。それで、だけど……」

 私は必要ないと分かっていながらも声を潜めて、里奈へと詰め寄る。

「学校の男子で例えるなら、誰がその理想にぴったりなの?」

「え、ちょっ……顔近いよ、香織……。それは……」

 私の顔をその手で元に戻させながら、里奈は恥ずかしげに私を睨む。

「誰かは訊かないって言ったじゃん」

「うん、言った。だから、具体的に誰だとは訊いてないよ。その人に例えるなら誰? って訊いたんだよ?」

 少し意地悪を含んだ私の問いは、見事に功を奏したらしい。メガネを何度もいじりながら、里奈は居心地悪そうに手を、そして視線を再び虚空に彷徨わせている。

「……内緒」

 ぽつりと、重く沈むような声で里奈は言った。

 それは、私がこれまで聞いた彼女の声の中で最も悲痛で、現実を痛感している声だった。

 彼女の反応から、大体の予想はついた。その彼は、少なくとも私たちが通っている学校にいる。後輩である可能性は低いので、さらに絞られるだろう。これらの理由から里奈をからかうついでに追求することも可能であったが、それを行うと、私は間違いなく良心の呵責に苛まれることになる。友人を傷つけてまでその心の奥底に閉じ込めてある秘密を掘り起こそうとは思わない。

 固く組まれた彼女の拳に向かって謝るべく手を伸ばそうとすると、それを拒否するがごとき瞬間に口が動かされる。それが彼女の意思なのか、それとも無意識のうちの動きなのかが判別できぬほど、弱々しく、柔らかな声音であった。

「でも……」

「うん?」

「もしよかったら……よかったらなんだけど、折角だから今年は何か彼のために作ってみたいって思う。でもあたし料理できないから……香織に――」

 他人のことは言えないかもしれないが、私は里奈を、とても不器用で可愛らしい少女だと思った。それこそが里奈が里奈であり、このような恋情(れんじょう)に想いを馳せられる所以(ゆえん)であるのだろうが、私は既にその感情を忘れてしまったように感じる。思い返せば、恋に悩み、想い人に逢えない、もしくは逢っても話せないというじれったさ、まどろっこしさに心臓を跳ねあがらせた経験など、私には無かった。とんとん拍子にことは進み、気づけば私は恋という感情を知っているのか否かすらわからないうちに特別な存在の彼を作ってしまっていた。そう考えると、私がこれまで過ごした時間の意義が失われていくようだった。

 私が抱く彼への想いは偽物なんかじゃない。私は彼のことが好きだし、彼も私を好いてくれている。想いが成就した時、私は感じたことのない喜びを噛みしめることができていたじゃあないか。あの時の味をもう忘れてしまったのか?

「……うん、もちろん! 一緒に作ろっ!」

 見上げた私の世界に華々しく映るものは何一つ無かった。彼女の安心したような笑顔は眩しすぎる。それは大きな幸福を意味しているものであろうが、今の私の中で形作られている世界では存在できない。光は闇を照らし、私たちに道を示してくれるが、極度の光は視界を眩ませる。

 彼女の幸せも、私の幸せも眩ませるつもりは毛頭ない。恋とは決して不幸をもたらすものではない。誰かを幸せにする、ただそれだけのために存在しているものだと、私は思い込んでいたのだから。

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