第2話 ケツイ

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「うわー……」

 車から降りた私は、感嘆とも戸惑いともつかぬ声を漏らす。私たちが新しく住む場所は、周囲を山々に囲まれ、十分も車で走れば田園風景が広がる場所に出る、そんな町だった。ずっと緑とは無縁に近い、排気ガスや人の流れに束縛される場所で過ごしてきたので、少し新鮮には感じた。

「何もないところだろう?」

 同じように車から降りたお父さんが、苦笑を浮かべながら私に問いかけてくる。うん、と驚きを隠せぬまま私はうなずく。

「でも、何もないからこそ、何もかもがある場所には無いものがあるんだ。香織も仲良かった子と別れるのはつらかったとは思うが、ここでしか経験できないこともあるから、良い日々を送ってほしい」

「……うん」

 私が頷いたとき、ポケットに入れていたスマホが震え、着信を告げた。

『そろそろ、新しい場所に着いたころかな? 元気してる!?( ̄ε ̄〃)』

 ぴったりだし、元気だよ、と返しておく。すぐに既読と表示が出て、次のメッセージが送られてくる。

『香織と会えなくなっちゃうなんて悲しーよー(≧0≦) また遊びに来てよね!( *• ̀ω•́ )b 』

 相変わらず顔文字をたくさん使うなぁー、とその文面を見ながら失笑を漏らす。ちなみに私は、顔文字は滅多に使わない。どうしても感情が伝わりにくい時には使用もするが、基本的に簡素なメッセージを送るだけにしている。

「うん。また時間が出来たら行くよ、っと」

 彼女は、私が中学校に入学して、一番初めにできた同性の友人だ。名前は西永にしなが茉優まゆ。人当たりが良く、男女問わず人気がある女子生徒だ。中学一年生の時に同じクラスの男子と付き合ったことはあるが、二か月ほどで別れてしまい、それ以降、男子に告白されても断り続けている。別れた時には、とてもたくさんの愚痴を聞いたものである。

 待ってるねー、と茉優から返信が来る。それだけ確認して、私はスマホをポケットに戻した。

「それで、ここが私たちの家……?」

 車が止まっている場所には、一棟のアパートがあった。二階建てで、外装は赤茶色のコーティングがされていて小奇麗に整えられているが、だいぶ古そうだった。

「そうだよ。前の家に比べたら狭くて、ちょっと過ごしづらいとは思うけど……。本当にごめんな、お父さんのせいで」

「何度も言ってるじゃん、お父さんのせいじゃないって。休日になったら電車であっちには行けるんだし、気にしてないよ」

 私の言葉に、お父さんは安堵の表情を浮かべる。もう何度も経験した展開だ。引越しが決まってから、お父さんはこのように事ある度に謝罪を述べるが、私は本当に気にしていない。私が怒れば帰られるわけでもないし、何より自分勝手だ。あまり、自分の我儘で親を無理に振り回したくはなかった。

「ちなみに学校は? 結構近いの? 冬休みいつまで?」

 部屋への階段を上りながら、私は矢継ぎ早に訊ねる。学生にとって、冬休みの期間がどれくらいなのか、とか所要時間は何分ぐらいなのか、というのはとても重要だ。

「後で説明するわよ」

 しかし、背後からお母さんの呆れた声が聞こえてきて、その話は中断となった。

 部屋は、お父さんの言うとおり、以前よりとても狭く感じた。十畳ちょっとのダイニングキッチンと、四畳半の寝室があるのみだ。トイレやバスは比較的新しいものが備えられているが、壁は所々割れており、敷いてある畳には前の居住者がつけたものと思しき傷が至る所にあった。

「……かび臭い……」

 そんな感想を漏らした私にお父さんの苦笑が重なる。

「まぁ、これから過ごしやすい家に変えていけばいいさ。落ち着いたら挨拶に行こうか」

 かくして、私の新生活は幕を開けた。

 言葉では私はああ言っていたが、きっと心のどこかではこの引越しを受け入れることができていなかったのかもしれない。荷物の整理中、お母さんにそっと耳打ちされた。

「別れを悲しむよりも、新しい出会いを探しなさい。祐君とも茉優ちゃんとも、今生こんじょうの別れってわけじゃないんだから」

 柔和に笑むお母さんに、私は少なからず心の安らぎを覚えた。

「それに、やつれた顔してると、再会したときに怖がられるわよ」

「…………そだね」

 私としても、心配されるような再会はしたくない。だから私は一つの決意を心に宿す。

「……少しでも充実してる、って思えるような日々にするよ」

 言葉では軽く言うが、心の内ではそれ以上の想いを湧き上がらせる。吹く風はまだまだ冷たいが、少しずつ暖かくなることを信じて、私は一日を過ごした。

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