紅血の冬

新淵ノ鯱

第1話 ユメ

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 外に出ると、地面に落ちていた枯葉が風に飛ばされていくところだった。同時に、私がつけているマフラーも流される。私はポケットに入れていた手を出し、自らの息で温めた。そして再びポケットへと戻す。

香織かおり、忘れ物はないな? もうここには帰って来られないんだぞ」

 外に出た瞬間に立ち竦んだ私に向けて、背後からお父さんの声がかけられる。私は振り返って、うんと頷く。それを見て満足したのか、お父さんも外に出て扉を閉める。

 一瞬だけ、がらんとした家の中が見えた。一か月ほど前までは、玄関に足を踏み入れれば大量の靴が出迎え、脇のスペースには家族写真やどこかで安く買った花瓶に生けられた花があった。しかし、それらは全て業者が持っていってしまった。次に見るのはきっと数日後だろう。

 私はそんな昔の風景に僅かな名残を覚えながらも、十四年過ごしてきた我が家に別れを告げる。玄関先に停めてある車に、お父さんと一緒に乗り込んだ。

「あ、そうだ香織。ちゃんとゆう君に挨拶は済ませた? 満足に会えなくなっちゃうわよ」

 先に乗っていたお母さんの言葉に、私は少しだけ苦しくなる。あの爽やかな笑顔と遠く離れてしまうんだと思うと、湧き上がる悲しさを堪えることはできそうにない。

「……うん、済ませたよ。元気でな、って、笑顔で見送ってくれた。それ以上は何も言われなかったよ。きっと祐君なりの優しさなんだと思う」

 祐、とは私が付き合っている人だ。錦戸(にしきど)祐。中学二年生である私の二つ年上だ。出会い、付き合い始めてから一年と経たぬ間に別れることになったが、お互いの両親も公認の付き合いで、私の両親も彼のことを大変気に入っていた。将来はこれで安心ねー、とお母さんは娘の未来に安堵の心を隠せぬようだった。

「遠距離恋愛っていう形になっちゃうけど、それはそれでいいんじゃないかなって思う。ドラマとかではよく見るから、少し憧れてたのかもね」

 私がそう言うと、お母さんは微笑を浮かべてくれた。お父さんの声を合図に、私たちは家を後にする。

「今から二時間ほど走るからな。眠たくなったら寝ててもいいぞ」

 ハンドルを握って正面を睨んだまま、お父さんはそう言ってくれたが、今の私に眠気はないし、仮にあったとしてもこの町を出るまでは眠るつもりはない。車窓を見ていると、一瞬だけ、それもわずかではあるが彼の家が見えるのだ。それを最後に目に焼き付けてから、この町を出たい。

「あ……」

 窓に映る私の顔は、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。自分でもわかるほどに、間抜けな表情だと思う。レンガ造りで、私の家より少し大きいその目立つ家は、私の視界からすぐに消えた。彼は今、何をしているんだろう。祐君は、辛くなるから見送りはしない、と言った。それは私も同じだったので、最後にお互い礼を言い合い、再会を誓って別れた。祐君も、もしかしたら今はあの家の中で私との別れを悲しみ、再会の時に想いを馳せてくれているのだろうか。もしそうなら私としてはとても嬉しい。ニ十分ほど走ると、車は高速道路に乗り、どんどん住み慣れた町から離れていった。至る所に建っている背の高いマンションや鉄塔が端に追いやられていく。しばらくはこんな風景も見られなくなるだろう。

 なぜだか、色々なものを忘れてきてしまった気がする。半年ほどの祐君との交流、二年間で出来た友達とのプリクラ撮影やお泊り会、近所のおばあちゃんがくれたお菓子の味……。今はまだ鮮明に思いだせるが、いずれは忘れてしまうのだろうか。今から行く先での生活に慣れてしまえば、それらの想い出は過去のものとして片づけられるのだろうか。私は、「忘れない」という決意を、あの場所に置いてきてしまったように感じた。

「香織……大丈夫?」

 窓の外から消えていく町を眺めていた私に、小さなお母さんの声が掛けられる。きっとそれは、お父さんに配慮してのことだろう。お父さんも、当然祐君のことを知っているから、引越しの話をするときは申し訳なさそうにしていた。

「うん……問題ないよ」

 お母さんの方を見ずに、そう答えた。たくさんの想い出を私に授けてくれた町は、既に遠い世界だった。車はまだ見ぬ新たな思い出を作る場所へと、速度を落とすことなく進み続けていた。



 *


 あの日の私は、少し気だるかった。春休みが終わり、新学年になったと同時に、私は塾へと強制的に入れられた。原因は、生活のたるみによる成績の低下。休み明けに行われた確認テストのようなもので、見事に平均点以下を連発してしまい、順位が一気に落ちたのだ。

 一週間前まで満開だった桜の樹は、その桃色の花びらを地面へと落とし、空しさと淋しさを含んだ姿を晒している。私は舞い落ちる花びらの間をくぐるようにして、塾へと向かっていた。

 煌々と明かりが灯っている塾の構内へと入る。だが、初めての私は入った途端に狼狽えた。どこへ行けばいいのかわからない。周りを歩く人は、自分のことなど視界に入っていないと言うように、横を通り抜けて行った。思わず涙目になっていた私を助けてくれたのが、錦戸祐先輩だった。

 彼は高校生なので、中学生の私とは場所が違うのだが、親切にも教室まで一緒に来てくれた。きっと一目ぼれだったと思う。彼の爽やかな笑顔と整った顔立ち、困った人を放っておけない優しい性格に、甘い声。全てに私は一瞬でとりこにされてしまった。

 それ以降、私は彼に会うためだけに塾へと通い続けた。私の中で、彼が「錦戸祐先輩」から「錦戸祐君」に変わるまで、そう時間はかからなかった。構内で出会うことがあれば、他愛もない話の相手になってくれるし、回数は少ないが塾が終わった後に一緒に帰ったりもした。テスト前にはわからないところを教えてもらったり……。数えきれない膨大な思い出を私は作ることができた。

 私が入塾して三か月ほど経ったある夏の日。偶然にも帰る時間が一緒になり、二人で一緒に帰路を辿ったことがあった。その時に私は思い切って想いを告げた。彼は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐにいつもの柔和な笑顔を浮かべて「オッケー」と返してくれた。その瞬間の脱力感や満足感は、きっと忘れることはない。

「俺、彼女とか出来るの初めてなんだ。だからいろいろ迷惑かけるかもしれないけど……。そんな俺でもいいのなら、これからよろしく。香織」

 私は思わず彼の手を握っていた。これにも彼は驚いていたようだが、すぐにぎゅっと強く握り返してくれた。幸せだった。私の好きな人が、私を好いてくれている。両想いという関係が、とても美しく感じられた。世界はこうして形作られていくんだろうなぁ、とその時は本気で思ったものだ。

 私たちは手を握り合い、夜の街を歩いた。眩しく光る店のネオンは、私たちが歩く暗い道を、眩しく照らしてくれる。

 それが、私たちの出会いで、恋仲になるまでの話。

 私が心の中に仕舞っておける、想い出のひとかけらだ。



 *


 どうやら少し眠っていたらしい。窓の外を流れる景色は、完全に見たことのないものだった。出発してからおよそ一時間半。もうすぐ目的地に着くだろう。

 夢を見た。あれは祐君と出会った頃の記憶だ。

「新しい場所でも……頑張れたらいいな」

 昔を思い出し、僅かに元気をもらう。けれども、少しだけ夢の終わり方が不思議だった。

 道を歩いているときに、突然視点が変わった。私は第三者の目線で、楽しそうに歩く自分たちを見ている。体を動かそうと思っても、動くことはない。光輝く道を歩き、薄闇に呑みこまれてゆく姿をずっと見つめていた。

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