ユミちゃんの復讐
月村はるな
職員室にて
他に誰もいない冬休みの職員室で、俺はコーヒー片手に漢字の豆テストの丸付けをしていた。ペンを持って丸付けをしながら、右手で愛用のマグカップを持ち上げてコーヒーをすすろうとすると、慣れないせいで手元が狂った。そのはずみでテスト用紙の上にコーヒーをこぼしてしまった。
「あっ。」
やっちゃったなぁ、と思いながらティッシュでパンパンとはたいて水分を取る。シミが残ってしまう。コーヒーを飲みながら丸付けをしてしまったと生徒にばれたら大変だ。最近は何にクレームをつけてくるかわからない。
その時、
「東条先生」
後ろで若い女性の声がした。
「ああ、清水先生。」
後ろを振り返ると、今年教師になったばかりの若い女教師が立っていた。黒いセルフレームの眼鏡にきっちりと後ろで結んだ飾り気のない黒髪。地味な国語教師。
「どうしたんですか。何かありましたか?」
不思議そうな顔をしてそう聞く清水に俺は「なんでもない、」と首を振った。
「こんな時に清水せんせこそどうしたの。」
「ちょっと忘れていた用事があったので、今年中に終わらせようと思って。東条先生こそこんな時期にご苦労様です。」
「いえ、いつものことですから。」
俺の勤務しているここ、夢水学園は中高一貫の私立学園。学力は県内トップクラス。生徒たちには六年間分のカリキュラムがみっちりと組まれていて、中等部の国語教師である俺の仕事はそれを何の異常もなく進行させること。これはどちらかというと、異常を起こさないように監視するというよりかは、異常をすぐさま取り除くために監視する仕事だと思ってくれた方がいい。前者より後者の方がはるかに仕事が楽だし、前者はやっていたらきりがない。
「東条先生はいつも仕事熱心ですもんね。」
普段の授業の準備に、押し付けられた生徒指導の仕事、その他アクシデントの対処——。仕事はいくらこなしてもこなしても、まだ増えていく。熱心だというより、熱心にやらないと仕事が終わらない。不可抗力だ。
「ありがとう。うれしいよ。」
一応そう礼を言っておく。そうしてまた漢字の豆テストに向き直る。最近の中学生は大変だ。冬休みになっても冬期講習がどうのこうの言われて、学校に登校する羽目になる。それに付き合わされる教師もたまったもんじゃないが。
「今年は大変でしたね。東条先生。」
急にそう言われて、思わず顔を上げる。
それを見た清水は、きょとんとした顔でつづけた。
「ユミちゃん、……由美絵ちゃんの件ですよ。いろいろと大変だったのではありませんか?」
固まって動けない俺に清水は続けた。
「あれ?今年の十月ごろに自殺した由美絵ちゃん。あれの件で、東条先生いろいろ忙しそうでしたよね。東条先生の担任していた一年三組の子だったから。」
「……ああ。ユミちゃん——由美絵さんね。うん、いろいろと。保護者だのマスコミだのが、いじめがあったかとか、勉強についていけなくてストレスを抱えてたんじゃないかって騒いでたから。……結局、虐待がどうのこうのだったよね。学校に問題があるんじゃないかって散々騒いでて結局これでさ、いい迷惑だったよ。」
自分の担当していたクラス、一年三組の生徒、ユミちゃんこと由美絵を思い出す。
野暮ったい黒メガネに青白い表情の読めない顔、顔を覆っていた長い髪。由美絵は地味な生徒だった。
『東条せんせ』
そう俺を呼ぶまだ子供らしさの残る由美絵の声が頭の中で響く。
「自宅のふろ場で手首を切ったんですよね。お母さんが気が付いた時には出血がひどくてもう手遅れだったらしいです。」
「それは聞いたよ。普通に朝出勤したら大変なことになっていた。」
あの日の朝、何事もなく普通に出勤したらやけにみんなが慌てている。どうしたのかと思っていたら、慌てて理事長がやってきた。
『東条先生、大変なことになりましたよ』
理事長の続けた言葉に俺は背筋が冷たくなった。
『東条先生の担任している一の三の生徒が自殺したんですよ。』
「確か、ユミちゃんちって母子家庭だったんですよね。お母さんと二人暮らし。」
それは入学の時点で聞いていた。
「そうそう。かなりあそこんち、荒れてたらしいよね。あの家さ、授業料とかもなかなか払わなくて。あのお母さん、確か八月ぐらいに仕事辞めたんだよ。それから全く払わなくなった。」
「そうだったんですか。私、そこまでは知りませんでした。でも、ユミちゃん自体はいい子でしたよね。かわいい子だった。みんなの倍以上、授業に熱心だった。宿題の提出率も、あの子が一番だった。授業の後の質問もたくさんしていた。」
「でも、それが結果にむずびつかないとダメなんだよ。授業に熱心でもテストでちゃんと点が取れなきゃ意味がない。由美絵は授業の熱心さじゃクラスで一番だったかもしれないけど、テストの順位は下から数える方が早かった。それじゃダメなんだ。」
「そうですか。私はテストの順位も大事だけれど、それを手に入れようと努力しようとした過程の方が大事だと思います。結果よりも、それを手に入れようと頑張ったことが後々役に立つと思うんです。」
「そうですか」
俺はそう言って視線を下におろした。
清水が言ったのは理想論だ。まだ清水は教師になって日が浅い。だからそんなことが言えるのだろう。ここはそんな生易しい場所でない。ここでは結果がすべてだ。きっと清水もいずれそれを理解する。今わざわざ言わなくてもどこかできっと。
「ユミちゃんの虐待が発覚したのって、自殺の後だったんですよね。確か、遺体を警察が調べたら、不自然なあざがたくさん出てきたとか。」
「そうだったらしいね。」
清水はまだ由美絵の話題を続けたいようだ。
「一番わかりやすかったのが頬の腫れらしいです。真っ赤だったらしいですよ。平手打ちされたんでしょうね。ほかにも背中に蹴られたような跡があったとか。」
「そうだったんだね。そこまで詳しくは知らなかった。」
「かわいそうに。でも私、そんなにユミちゃんのお母さん悪い人に見えなかったんです。夏休み明けにあった三者面談の時に、ユミちゃんとユミちゃんのお母さんが教室に向かうのを私見たんです。その日は雨が降ってたんですけど、ユミちゃんのお母さん、傘忘れちゃったみたいで服ぬれちゃってたんです。それを見た由美絵ちゃんがハンカチ貸してあげてて。正直言ってずっと忘れてたんですけど、今回日常的に虐待があったって話が出て、それで思い出したんです。そんな人には見えなかった。」
「人はわからないよ。どんなに優しそうな人でも、裏の顔は怖いものだよ。」
「そうですか」
清水は寂しそうに目を伏せた。
それからしばらくして
「東条先生。」
と清水が俺を呼んだ。
「何。」
俺は後ろの席に座っている清水を振り返らずにそう答える。
「ユミちゃんの腫れていたのは左頬でなく、右頬なんです。」
「どうした?清水せんせ。」
「ユミちゃんのお母さん、ぬれた服をハンカチでふくとき、右手でハンカチを持って服を拭いたんです。つまり、ユミちゃんのお母さんは右利きなんです。」
「……。」
「人が何かをたたくときって、普通利き手でたたきますよね。そうするとその人から見て利き手側がたたかれるんです。右利きの人が人をたたくと、たたいた人から見て右側、たたかれた人の左側がたたかれるんです。でも、ユミちゃんが立たれたのは左頬でなくて右頬だった。ユミちゃんをたたいたのは左利きの人なんです。お母さんじゃない。じゃあユミちゃんをたたいていたのは誰なのか。」
背筋がすっと寒くなった。
「ユミちゃんの周りで左利きの人は東条先生、あなただけなんですよ。」
「……なにが言いたい。」
その質問に、清水は答えない。
『——みず、お前なんか、学校やめちまえよ。』
あの日の自分のセリフが、急に頭の中によみがえった。そう言った声音まで確かに。
授業料金の滞納。由美絵はそれを三か月分ためた。それを口実に、俺は生徒指導室に由美絵を呼びだした。周りには誰もいなかった。たたかれた右頬を抱えてうずくまる由美絵。長い前髪の奥からじっと俺のことをにらみつけたあの目。あの時最高潮に達した怒り。思わず動く、俺の足——。
清水が席を立ち、こちらにやってくる。だが、俺は振り向くことができない。暑くもないのにじっとりした汗が背中を濡らす。
「東条せんせ」
まだ子供の、少女の声がした。
「この学校にね、清水なんて国語教師はいないよ。国語教師は東条せんせ、一人だけだよ。」
幼さの残る、少女の声。
「ねぇ、東条せんせ」
左肩に誰かの手がのった。恐る恐るそちらに目を向ける。
白いきめ細やかな肌の色をした手。しかしよくよく見ると、手首をカッターナイフか何かで切ったような傷跡がある。
「ひいっ」
そう言った途端、その傷跡から血がつうと垂れた。それは確かな温度をを持って俺のスーツをじっとりと濡らしていく。どろどろとした血液が尋常でない速さで流れていく。
「お前っ……」
思わず後ろを見ると、今にも笑いだしそうな表情でこちらを見ているひとりの少女がいた。
「東条せんせ、お久しぶりです……」
右手から真っ赤な血を流しながら、セーラー服姿の清水由美絵がにっこりと笑った。
ユミちゃんの復讐 月村はるな @korehahigekinokiokudearu
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