ふたりの夜

 それは、少し肌寒い夜で、衣類ダンスの奥から長袖を引っ張り出した日だった。

 俺にとって、生涯忘れられない夜。

 俺はアパートの自分の部屋でソファに腰掛けて、古い小説を読んでいた。

 読み始めたとき明るかった窓は、チャイムが鳴って本から目を上げたころには、もう濃い紺色になっていた。読書に集中していたせいもあって、驚いた。普段、チャイムなんて宅配や郵便でしか鳴らないし、今日来る予定もないはずだ。

 本を伏せてソファから立ち上がり、玄関ドアへ向かった。

 なんとなく身構えてしまう。

 開けると、水色の襟付きワンピースという季節外れの服装の女の子が、蛍光灯の灯りに照らされて立っていた。細い腰を絞るように、おなかのところに紺色の大きなリボンが付いている。

 最初、本気で、『夏の妖精』が忘れ物を届けに来てくれたのかと思った。水泳ゴーグルとか、虫かごとか、ビーチサンダルとか。

 すぐに、とんでもなく可愛い女の子だとわかり、そしてそのあと、それがリンなのだと認識した。

 リンは、一瞬とてつもなく嬉しそうな顔をすると、すぐに笑顔をひっこめて、むしろムスッとした顔になった。

「はいはい。ごめんなさいよー」

 猫のように俺の横をすり抜け、中に入ってくる。身体の動きに合わせて、夏みかんを思わせる匂いが移動してきた。

 白いサンダルをわざとらしく乱暴に脱ぐと、部屋をまっすぐ突き進み、ソファに座りこむ。大げさな動きのわりに音はぽふっと軽かった。

「お、おい」

 やっとショックから立ち直り、ドアを閉めた。

「おまえ、なんで俺の家が?」家は教えていない。

「バイクで探した」

 物珍しそうに部屋を見回しながら、あっさり答える。

「探したって……」

 確かに、俺のバイクは車道に面した目立つ場所に止めてある。でもそれだけで俺の家を探すなんて無茶にもほどがある。「海辺の街の丘の上に建つ眺めのいいアパートだ」としか言ってなかった。見つけるまでに、一体どれだけ歩き回ったか、想像もつかない。

 何気なくリンを見ると、座椅子とそう変わらないような低いソファに座り、膝と膝をくっ付けてハの字にした脚の隙間から、水色の可愛らしいショーツが見えた。

 心臓がごぐんっと跳ね、息が詰まった。

 慌てて目をそらしたが、部屋の真ん中に突っ立っていると、どこに居てもスカートの中が見えてしまう。太ももの裏の白さと、艶めかしい付け根の筋から目が離れない。

 慌ててキッチンチェアに座った。そこからならリンのショーツは見えなかった。

 しばらくぶりに会うせいもあるかもしれないが、めちゃくちゃ緊張する。

 ちょっと前の俺たちなら、「おい。パンツ見えてるぞ。隠せ」くらい言えたような気がするのに。展望台の一件もあってか、明らかにそんな雰囲気じゃない。

「髪伸びたね」リンが俺を見て嬉しそうに言った。「タキくんでも長袖とか着るんだね」

 冗談っぽく言って、俺の薄地のⅤネックのニットを見て目を細めた。

「おまえ……よくここ見つけたな」

「めちゃくちゃ大変だった」

「……いや……そりゃそうだろ」

「本屋のときよりずっと大変だった」

「本屋?」

「のどかわいた」

「なんでいきなり……」

「のーどーかーわーいーたー」

 俺はため息をついて立ち上がると、冷蔵庫を開けた。夏場は毎日作っていた自家製の麦茶は切らしていた。仕方なくアパートを出て、近くにある自販機まで行き、コーラとお茶のペットを買ってきた。一度、外の空気で頭も冷やしたかった。

 ドアを開けると、俺が読みかけていた本をリンが開いていた。

 相変わらず丸見えのショーツを見ないように目を逸らしつつ、テーブルにキャップを緩めたコーラを置く。

 リンが、本に指を挟んで畳み、タイトルを読み上げた。

「『絵のない絵本』……」

「ああ。アンデルセンだ。『人魚姫』のひとだよ」

「綺麗な本だね」きらきらした黄色いカバーをそっと指で撫でる。「それにすごく素敵なタイトル」

 リンは大切な手紙でも読むような目でまた本を開いた。

 そして、ページに目を固定したまま、思い出したようにつぶやいた。

「……ねえタキくん」

「ん?」

「今日、なんの日だかわかる?」

「今日?」なんの日だろう。普通の土曜日だ。「わからない。なんの日?」

「今日ね」とリンはとっておきの秘密を告げるように言った。「誕生日なんだよ。わたしの」

「………………」

「十四歳に、なりました」

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