エピローグ

 その後、二回だけリンを見かけた。


 一度目はリンと買い物をした繁華街の雑踏の中だった。俺には気づかず、ぼんやりと無表情に歩いていた。

 声をかけたりはできなかった。それが約束だ。

 冷静に考えれば、あの夜の母親は、俺に誠意をもって接してくれたのだ。

 大切なひとり娘を、初めて見る男の家にひと晩泊まらせるなんて普通はあり得ない。だから俺も約束は裏切れない。

 二度目は、大池公園。二人が初めて出会ったあの場所だ。

 その時も秋だった。

 最後にリンと会った日以降、ほとんど寄り付かなくなっていた場所だったが、たまたま足を運んだ時にリンの姿を見てしまうなんて、やっぱり俺たちの間には不思議な縁があったのだろうか。

 友達ふたりと歩く高校の制服姿のリンを見たとき、俺はとっさに身を隠した。

 それでも、元気でやっていそうなリンの顔を見ると、胸が暖かくなった。

 でもそれ以降、俺はリンと出くわしそうなところは、片っ端から避けるようになった。

 次に顔を見たら、絶対に話しかけてしまう。そう思った。


 ◆


 あるとき、アパートに止めた俺のバイクのハンドルに、ピンク色の交通安全のお守りがぶら下げてあった。

 俺はそれを外し、引き出しの中に大切にしまいこんだ。

 眠れない夜や、何かにひどく迷ったとき、俺はそれをそっと取り出して手の平に置き、あの懐かしい季節を思い出す。


 ◆


 大学を卒業したあと、母がタチの悪いガンで急死した。

 病気を打ち明けられ、アパートはそのまま実家に戻り、看病する生活も束の間、あっという間の出来事だった。

 俺は海辺の街と山の町を遠く離れることになり、それで完全に俺たちの縁は途切れた。

 リンと会うことは、その後、二度となかった。


 ◆


 俺自身に変化はあった。

 リンと過ごした夏、俺は自分の弱さに直面し、ひとの弱さを知った。

 俺にとって、どうしてそんなことをするのか、なぜそんなことを言うのかずっと理解できなかったことが、「ひとは誰しも弱いから」という理由で説明がついた。

 もう、他人は怖くなかった。

 たとえばカスヤ。

 ふた言目には「親友」だの「友情」だの言う言葉の軽さや、そのくせ恋人ばかり優先するそのブレブレの姿勢も、それがカスヤの弱さで、仕方ないことだと思えば見る目も変わった。

 コイツもコイツなりに色々なことに真剣なのだ。

 だからカスヤが恋人に捨てられ、見てられないほど落ち込んだときも、俺はカスヤを無理矢理外に連れ出し、元気になるまでバイクであちこち走り回った。

 それが友達としての俺の役目だと思った。

 今でも俺たちはたまに会って一緒に酒を飲む。

「……もし、タキのこと、間近でしっかり見た女の子が居たら、その子はもう、離れられないくらいおまえのことを好きになるかもしれないんだけどな」

 ふたりで飲んでいるとき、何気なくカスヤがそんなことを言った。

「タキには、なんか、そういうところがあるよ」

「……だといいけどな」左手のヘマタイトを撫でながらそう答えた。

 その言葉は本当に嬉しかった。

 何気ないひと言が、誰かを心から励まし、勇気づけることもある。それを知れたのも、それまでは俺が壁を作り、遠ざけようとしていた他人のおかげだ。


 ◆


 シノからはその後、「結婚しました」と「娘が生まれました」という二通の年賀状が届いた。

 穏やかな顔の男と並んだ幸せそうなシノを見て、俺はあの夏の自分の決断が何も間違っていなかったのだと信じた。

 アップライトのピアノの前で赤ん坊を抱いたシノの写真を見て、シノはきっとこの子にもピアノを始めさせるだろうな、と嬉しくなった。

 そして、夕日の赤い光が満ちた放課後の音楽室と、『亜麻色の髪の乙女』の切なげなメロディと、あの日のシノの永遠の笑顔を思い出し、年を取ることもそう悪くないな、と思った。


 ◆


 従妹は何度か日本に来た。そして俺たちはちゃんと笑って話をした。


 ◆

 アリカとは時々会ってお茶やドライブをした。

 母が亡くなって二週間ほど経ったころ、連絡をくれたアリカと、ワインレッドのプジョーに乗ってカルデラ湖にドライブ旅行に行った。

 よく休み取れたな、と俺が驚くと、余裕よ、と穏やかに笑った。

「街を出ようと思う」

 風が滑る青い湖を眺めながら俺は言った。

「そう。アンタ居なくなるんだ」

 アリカは素っ気なく言った。そして、唐突に泣き出した。

 その後すぐにアリカは仕事を辞め、カナダに渡った。やがて、十歳年上の外国人と結婚し、連絡は一切なくなった。

 それから二年後に、「別れた」という短い連絡が来たのがアリカとの最後のやりとりになっている。

 アリカは、俺が「幸せになって欲しい」と心から願う、この世で数少ない人間のひとりだ。


 ◆


 不思議なことに、いつの間にか俺の中で、リンの母親が大きな存在感を持つようになっていた。

 接した時間はほんのわずかだったのに。俺とリンを引き離した酷いひと、という風にはどうしても見られなかった。もっと話をしたかったとすら思った。

 あのひとに認められるような男になりたい。そんな気持ちが俺の中に芽生えていた。

「自分をよく見せるのが上手いだけの男」

 あの人がそうはっきり言ってくれたからこそ、俺は男として少しは成長できた気がするのだ。


 ◆


 やがて、三年が経ち、五年が過ぎた。

 時は進む。止まらない。

 あの夜。

 俺は、大人になりたいと思った。

 変わりたいと願った。

 ここではない場所に行きたいと考えた。

 でも、俺自身がそうあろうとしなくたって、『時間の流れ』がイヤでも俺たちを変えてしまう。どこかに連れ去ろうとするし、変化を強要する。いつまでも子供のままでは居させてくれない。

 そんな無慈悲な時間の圧力を前に、俺はたびたび自分の無力さを思い知る。

 それでも、俺は、矜持を持ち続けたいと願った。

 一度、酔ったアリカが言ったことがある。

「アンタって、すごくよく出来たコドモなのよね。大人びたコドモ」

 その口調に、馬鹿にしているようなところはまったくなかった。

「世の中って、ダメなオトナばっかなんだけどね。ガキっぽいオトナ」

 妙な表現だったけど、アリカの言葉はなぜかしっくりきた。リンもそうだったのかな、と少し考えた。そんなところも俺たちは似ていたのかもしれない。

「私がアンタに執着した理由って、アンタのそのコドモっぽさが汚されていくのをザマミロって見たかったのかもしれないし、ひょっとしたらアンタは汚れずにそのまま生きていけちゃうかを、見届けたかったのかもね」

 アリカは俺の胸を指でつついて。

「アンタもしょせんは世間知らずなだけのタダの人なのか、それとも、アンタだけはちょっと違うのか」 

「アリカさんはどっちだと思う?」

「答えるのが難しい質問ね」とアリカは複雑な顔をした。そして、結局、答えなかった。

 その時のアリカの言葉は、その後もずっと俺の中にあり続けている。


 かつてアリカが散々愚痴っていた通り、世の中は、『自分らしさ』や矜持になんて、なんの価値も認めてはくれない。

 夢は叶わない。

 希望は裏切られる。

 願いはすべて丹念に潰される。

 時間は戻せないし、やり直しもきかない。

 それが現実。俺たちが生きるこの場所だ。

 それでも。

 矜持でも、誇りでも、優しさでも、夢でも、希望でも、愛でも、友情でも、潔癖さでも、理想でも、憧れでも、こだわりでも、青くささでもとにかくなんでもいい。

 放っておけばすぐに腐って消えてしまうような、はかなく、壊れやすく、楽して合理的に生きていくには少々邪魔なモノを、それでも、大事に守り続け、持ち続ける限り。

 好きなものを好きで居続ける限り。

 前を向いて何かを信じ続ける限り。

 いつか、どこか、どんな形かで、現実は少しだけサービスしてくれるような気がするのだ。


 ある日、唐突に。こんなふうに。

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