エピローグ2

 母が亡くなったあと、少し経って落ち着いたころ、俺は大学時代を過ごした『海辺の街』に戻った。

 作家にはなれなかったけれど、そのかわりに、自分が本当にやりたいと思った仕事を始めた。「自分らしくありたい」と思って選んだ仕事だけに、一番好きなその街で生きていくことを迷わず決めた。

 仕事は大変だった。

 何度も理想と現実の壁にぶつかったし、誠意が利用され、良心が食い物にされ、信念が裏切られることもたびたびあった。

 でも俺自身は、なるべく他人に対して、正直で公平に接しようと思った。

 ひとはひと。俺はただ、自分らしくあればいい。

 あの思い出の夏からずっと、矜持を胸に、がむしゃらに生きた。

 くだらない郷愁だってことは百も承知だ。それでも俺は、シノやアリカやリンと釣り合うだけの男になりたかった。リンの母親に認められるような男になりたかった。

 学生時代より乗る頻度は減ったが、バイクも手放さなかった。

 それは俺にとって、かけがえのない思い出たちの象徴でもあった。

 何かを追い求め、それが何かわからないうちに、日々は駆け抜けるように過ぎていく。


 ◆


 ある年の冬。

 透き通る晴れた冬空を見ていたら無性にバイクに乗りたくなり、俺は久しぶりに『山の町』へと出かけた。

 尖るように冷たい空気はバイクには少々辛いけど、俺は冴えた冬の風の中を走るのが好きだ。

 いや、春だって、夏だって、秋だって、冬だって、どんな季節にも、それぞれのよさがある。目の前には、いくらでも特別な物が転がっている。自分自身がちゃんとそれを見ようとするかどうかだ。リンとのあの夏が、それを教えてくれた。

 何かが起こりそうな妙な胸騒ぎを覚えながら、俺は、大池公園に行き、懐かしいモールを歩き、すっかり様変わりしたゲーセンをのぞき、フードコートの隅で昼飯を食べ、昔住んでいた高台をまわり、『はっぱねこ』に立ち寄り、街を見下ろしながら熱いコーヒーを飲み、鴻巣山の周辺をぐるりとめぐり、中学校を遠目に眺め、大学の近くを走った。

 何も起こらず、誰とも会わなかった。

「まあそんなもんか」

 苦笑しながら、かじかんだ手を温めるようにホット缶コーヒーを飲み、さて家に帰ろうと思ったとき。

「おや?」

 突然バイクが動かなくなった。

 いくら調べても原因はわからない。

「おまえな……」と俺は、沈黙してしまった愛車のタンクをコツンと殴った。「そんなにここから動きたくないのか?」

 仕方なく、バイクを押して延々と歩き、昔、世話になった大学近くのバイク屋に持っていった。その間にすっかり日は暮れ、冷えきっていた身体は熱いくらいになった。

 修理のため預けることになったが、あいにく代車は出払っていて、俺はバスを使って帰ることにした。バスに乗るのなんて久々だ。

 帰宅ラッシュが落ち着いてきたころ合いの、夜の街。

 暖房がきいたバスの車内は満席で、六人ほどが立っていた。

 ステップをのぼる。

 通路を隔てて、女が立っていた。

 バケツ一杯の光の雫をぶっかけられたような、質感のない奇妙な衝撃を全身に受けた。

 リン。

 ベージュのコート。

 黒い皮のロングブーツ。

 髪は背中くらいまで伸ばしていた。

 髪ごとボリュームのあるマフラーを巻いていた。

 リンだとは思った。

 その横顔は、かつて想像した通り、大人の女として完成していた。

 美の極致のような顔の輪郭や、形のいい鼻、知的な唇、聡明な長い眉。アーモンド形の黒い瞳には、強い意志の光が輝いている。

 ひと目見たら目を離せない、心をわしづかみにするような美しさ。

 何よりも、簡単には話しかけられない、相対する男を試すような、尖った水晶の気品。こんな女はザラに居ない。

 でも、確信は持てなかった。

 今さらまた会えるなんて思ってなかった。

 三年どころじゃない時間が流れていた。

 冬のリンも、大人になったリンも、どっちも見たことはなかった。

 それどころか、段々と俺は、「リンという女は、本当は実在していなくて、二十一歳の孤独が生み出した夏の幻想だったんじゃないか」とすら思い始めていた。

 写真はない。俺は、どれほど、あの島でふたりの写真を撮らなかったことを後悔したかわからない。

 女がこっちを見た。

 思わず視線をそらし、背を向けた。

 そんな俺の後姿に、

「タキくん……? タキくんでしょ!?」

 ……そう、話しかけてくれたら。

 震えるほど期待したが、そんな都合のいいことは起きなかった。

 心臓が爆発しそうなまま、目の前の窓に反射して映る女の不鮮明なシルエットを凝視した。

 女はあっさり背を向けていた。

 俺にはなんの興味もないように。

 リンじゃなかったのかもしれない。

 リンであるはずがない。

 振り返ることもできずにそう思おうとした。

 右腕を。せめて右手首が見えないか。ラブラドライトは。

 すがるような気持ちでそう思った。

 バス停に止まるたびに客が乗り込んでくる。

 俺はステップを上がってすぐの場所から動かず、その女は、新しい乗客に押されるようにして前へと移動していく。

 ひとの壁に隠れ、もう、確かめることすらできなくなった。

 五つ目のバス停で女はバスを降りた。

 降りる客が多く、バスはなかなか動き出さない。

 バスを降りた女は、歩道を左手に向けて歩く。

 俺は、窓越しに、眼下を横切っていく姿を追った。

 忘れようとしても忘れられない、十四歳のリンの姿を思い浮かべ、目の前の女に重ねる。共通点を探そうとした。答えを見つけようとした。確信を求めた。でもその必要はなかった。

 女が立ち止まる。 

 唐突にこっちを向く。

 俺のほうを見上げる。

 無表情。いや、むしろムスッとしてる。美しい顔だ。目が合ってあらためて思った。ずっと眺めていたくなるような、心の深い部分を柔らかく刺激するような、夕暮れ空を見ている時のような、不思議な感傷で胸が一杯になる、そんな美しさ。

 バスの車体を隔てて、窓を挟んで上と下で、俺たちは見つめ合う。

 女はゆっくりと右手を上げる。

 目の高さに。

 そして。

 くっと親指を立てた。

 リン。

 あの、夏の、二人で島に渡った日の、どこまでもまっすぐ続いていくまばゆい海浜道路で、バイクに乗った俺がバスの乗客にしてみせたように。

 リンだ。

 全身の血が沸騰しそうなほどだった。

 心臓がぶっ壊れそうなほど鳴っている。

 俺も。何か。同じように。せめて手を上げるだけでも。笑え。反応しろよ。動け。動くのは心臓だけ。あまりの展開に全身が固まってしまい、顔も強張ってる。ふだんカッコつけてても、肝心なときにダメなところは大学生のころからちっとも変っていない。

 袖から出た右手首にラブラドライトのミサンガはなかった。

 リンは、すっと手を降ろすと、ニコリともせず再び前を向いて歩き始めた。

 ブザーが鳴り、乗客を降ろしたバスがドアを閉め、動き始める。

 リンの後姿は一気に遠ざかり小さくなっていった。

 最後までリンは決して振り返ったりはしなかった。

 ただ、凛として。

 ああ。リン。お前はやっぱりすごいよ。

 無敵の女に成長したリン。

 こんな場面で、あんなことやってくれるなんて。おまえってヤツは。

 最高だ。

 リンは俺を忘れていなかった。

 リン以外の誰が、あんなにステキなことをしてくれるだろう?

 ようやくリンを諦めて、前に進める。そんな気がした。

 呪いが解かれたような、晴れ晴れとした気分だった。

 リンが、夏の残照のような俺の淡い未練に、しっかりとトドメを差してくれた気がする。

 だから俺は、

 かつてたったひと夏だけ『妹』だと思った少女に、

 心からの気持ちをこめて、こうつぶやく。

 あのとき、言えなかった言葉を。


 ありがとう。

 さようなら。

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