終章γ:反世界
変わらない日常を変えるのは日常ではなく私であることを知れば、自然と次の行動へと移せた。
「リナさん、転職活動はいかがですか」
休日のシアターホールで。私とヨシカは律儀にも十五分前から入場して、並んで座っていた。
「めんどい」
「感想ではなく、進捗を知りたいのです」
「エージェントとやらに頼んで面接を受けているけど、事務職以外は未経験だから挑戦する意気込みや熱意を伝えなきゃいけないのね。でも、私の中にある熱意って何かしら」
「悪しき男に対して暴力で撃退した強さ、ではありませんか」
くすくすと笑うヨシカはいつもより濃いメイクで素顔を蔽っている。
「か弱き乙女を守ってくれた英雄さんが今更、何を悩んでいるのですか」
「あれは強さではなく一つのストレス解消法だった。それにヨシカのためと言うより、自己顕示欲の爆発という解釈の方が適切だ」
「リナさんらしい構え方ですね」
「世の中に対して常日頃斜め四十五度でいるのが私だ」
堂々と言いのけた私は昔ほど本気には思っていなく、冗談っぽい笑いが含んでいた。
街に沁み込む熱気が徐々に力を失っていき、新しい季節の予感がする頃になり、私とヨシカは映画を一緒に観るまでの仲になった。
「あたしが観たい映画って、リナさんが望む……黙示録的終末で幕を閉じるような作品とは程遠いですが、それでも良かったのですか」
「たまにはハッピーエンドに寄り添う日もあっていいかな」
そう言ってくれるなら嬉しいです、とヨシカは吐息混じりの声を出して私の手に細い指を絡めた。
「新しい恋人ができるまで……いや」
次に発した言葉は途絶えた。
「何を言いかけたんだよ」
「なんでもありません。ちょっと、酷いことを言い留めただけでした」
「余計に気になるじゃんか」
ヨシカの肩を揺さぶって尋問すると、キャラメルポップコーンを差し出された。
「聞き流してくれる対価として、一口どうぞ」
「甘いものは好きじゃない。こういった菓子をスマホで自分の顔と一緒に撮ってSNSにアップする女はもっと好きじゃない」
ついでに表した悪言に、ヨシカはおかしく笑う。
「あたしも少し前はそういった女でしたねえ」
「少し前って、公園で私がボロクソに言った時か?」
頷いたヨシカは控えめにポップコーンを摘んで一口食べた。
「彼氏とやり直せるって無条件で信じていた過去のあたしは、結局はつまらない人間だったのだと思います。周囲の目を気にして、平均以上の女で居続けるための振る舞いで固定したような……」
ヨシカの懐古は私の心を単一でない複雑な感情に分裂させ、予告が始まったスクリーンのどこも見ていなかった。
「私、ヨシカに会って良かったのかな」
「どうしたのですか、急に」
「私に会わなければ、ヨシカは世界の裏側に気付かずそのまま幸せで居られたんだ。換言するなら、私がヨシカに反世界を見させてしまったんだ」
「反世界……」
簡明でない私の表現が伝わったかどうかは定かでないものの、私も反世界の的確な定義を考えていないから懸念する必要はないと気付いた。
スクリーン上では滅多矢鱈に爆発している洋画の宣伝をしており、一瞥するだけでB級映画の烙印を押せるようなものであり、
「テロリストと戦って、何が楽しいんだろうな」
と、適当な批難をしておいた。
「今のコメントも、もしかして反世界から届いたのですかね」
「だろうな。私は表に住む人間じゃないし」
ヨシカもヨシカで、反世界に対する茫漠な解釈をしてくれたようだ。
「ですが、リナさんが生きてきた反世界はリナさんにとって通常の世界であって、実はあたしがいた世界こそ反世界であるとも考えられません?」
「ややこしいけど、そういうことだ。主観的定義だと、私が表でヨシカが裏になる。でも客観だとやっぱり私の方が反しているんじゃないかな」
予告が変わり、考えることを放棄した女子達の主食たり得るラブストーリーが流れていく。見飽きた流行りの俳優と女優へ自己投影していくオナニストのための映画だとも見做せるが、私にとっての反世界であり世界にとっての世界であるそれは観客の幸福を助長する作品であることには間違いないだろう。
「大人になってしまったわたし達の恋愛とは何か、よく解らなくなってしまいました」
「理想的幻影を追い続けることさ。理想はあくまで幸福の最高形であるから、それ通りにならず我儘を言う女はろくでもない拘りで視野を狭くしている」
言いたいこと言い切ったつもりだったが、左手から伝わるヨシカの熱がそうさせなかった。
「……だけど、私の受容していた反世界はもっと狭かった。認め難い景色から目を背け、自己分析を徹底しているようで実は自分の本質を何一つ理解していないかった」
これからの人生どうしようかな、と呟いた私の声は校舎の屋上で抱擁された女優の甘ったるい悲鳴に掻き消された。
「リナさんはああいう恋、してみたいって思いません?」
「したいしたくないの問題でなく、叶わないから無回答とさせていただこう」
クールな人ですね、と囁いたヨシカの声は女優の演技よりもずっとリアルな感情を届かせた。
劣等感に塗れた反世界は言葉ではまだ素直になれなくても、言表の裏に隠された表の私が彼女によって引き出されていく。
「……それに、今は稀有な友達ができたから男は要らないさ」
「ええ、同感です」
少しは自然に笑えたんじゃないですか、と表の私が裏の私に問いかける。二人の私が手を取り合って本来的に帰一する日は、誰でもない彼女への親愛によって到来する、と反世界から偉そうに言わせていただいた。
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