インフェリオリティ・コンプレックス(後篇)
「私、樋野さんと同じ会社にいる上司……といっても、部署が違うからあまり彼女と話したことは無かったですけど」
私が名乗る前に中年女性の方から自分語りを進めてくれた。このクソ暑い中、日光を効率よく吸収しそうな紺色の背広を着ている相手に私は鼻で笑った。
「で、私に何の用? まさか、ヨシカと仲直りしなさいって教師みたいなことを言わないだろうな」
適当な言葉を発したが、存外相手は本気で受け止めたような顔をしていた。
「それは、樋野さんの無断欠勤と関係しているのでしょうか」
「何だ、あいつ会社をサボったのかよ」
「ええ。彼女……入社してから有給以外で突然休むことなんて一日も無かったのに……昨日から会社に来ないんです」
白髪染めで老いを隠したような黒色をしている相手の髪に私の視点が集中した。私やヨシカの母親くらいまでの年齢まではいかないと思うが、見た目よりも意外と年を重ねているような雰囲気を受取った。
「それで、あいつの知り合いっぽい人間に当たってみた、って訳か」
「はい。樋野さんとあなたがこの公園にいたのを、昼休みに何度か見かけたものでしたので」
「無断欠勤ということ、連絡は全く?」
目線を落とす相手は首を横に振った。ま、そうだろな。わざわざ社外の関係者に尋ねてきたくらいだからさ。
「事情は解った。でも、期待しているような情報は持っていない。そもそもヨシカの連絡先、知らないし」
嘘では無かったが、改めてあいつとの関係性の脆さに気付かされた。所詮、あいつは私の友達ではない。いや、わたしはあいつの友達にはなれない。であるからして、あいつの電話番号やアドレスを知り得るメリットはない。
「そうでしたか」と、相手は力なく頷いて、すみませんと告げた。
--謝るのは、私の方だ。
不図に喉から出かかった言葉は精神的な歯列に細かく刻まれ、音にならない吐息へと消えていく。あいつが消えたのは私という狭い世界からではなく、私の知らない人間がいた広い世界からであったことに、動揺すべきかどうか悩んでいる素振りを見せる私は既に動揺していたのだった。
「心当たりは無くはない。個人情報保護を遵守する生真面目な社員にお願いすることじゃあないけど、ヨシカの連絡先と……住所を教えてくれない?」
「樋野さんの捜索に協力してくれるのですか!?」
相手の反応は私の予期より誤差が生じるケースが多いらしく、藁にもすがる思いで私の汗ばんだ手を取った。
「あいつの家に行ってインターホンを鳴らし続けても無視されるだけかもしれないけど、暇だから行ってみるさ」
あいつが職場の人間を心配させている原因は……二つ推測できる。
一つは彼氏との喧嘩問題が影響している、クソくだらない欠勤理由。
そしてもう一つは、友達面をしていた女に叱られて落ち込んでいる、もっとくだらない欠勤理由。
臆病な私は、どちらかが真実であり、或いはどちらも憶測であることを確かめたい欲求に駆られて、総務部に所属していた相手よりヨシカの住むマンションの住所を訊いてスマートフォンにメモを残した。社員の個人情報を洩らしている行為において、カタカナ語大好きな社会人であれば即座にコンプライアンスの呪文を唱えることが想像できるが、コンプライアンスの『コ』の字の角の部分でそいつらの後頭部を殴ってやろうと思う。
「ありがと、お姉さん」
自然に発声され得たお世辞は決して本心とは言い難いものの、私とあいつの在り方を正すチャンスを与えてくれた相手にはそれ相応の対応をすべきだと思ってしたまでだ。
日没後、いつもと違う路線で私の身体が荷物のように運ばれていき、初めて降りた駅から見えるタワーマンションがあいつの住処かなと向かってみたが違ったようだ。都会らしい風景を素通りし、時代の流れについて行けずに寂れた商店街を抜けた先にあった木造アパートにアプリの地図上に浮かぶ三角マークが突き刺さっていた。
「苦学生が住んでいそうなところだな」
街灯が頼りなく明滅し、夜の帷に蔽われた外界は見通しが悪く、アパートの敷地に足を踏み入れる寸前まで角部屋のドアに前にいた男女二人に気付かなかった。
「オマエは黙って俺の言うことを聞けばいいんだよ!」
男の怒声を反応をした私は、刑事っぽく電柱の影に身を潜めた。慎重に窺うと、ドアと男の影に挟まれているヨシカの姿があった。
「……けど……のことは……」
「グダグダ言い訳するな!」
「……あたしはただ……なのに」
威圧する男とは対照的に、ヨシカの声は弱々しい。どういう会話なのかは不明瞭であるが、少なくとも穏便なコミュニケートでないのは確かだった。
さて、今更ながら思うことだけど、どうして私はあいつの私的空間に顔を出したのだろう?
別に放っておいても構わないのに。彼氏との痴話喧嘩に心苦しむ女を酒の肴にして安い缶チューハイを飲んでもいいのに。
私は他人の幸せを憎み、羨み、妬む、不器用な人間であることに疑いを容れない。それが故に踵を返し、勝手にやってくれと言い捨てて去るのが私であるのだ。
--ところが。現実の私は過去の私から脱皮したように飛び出し、あいつと男の間を割り込むように飛び込んでいたらしい。らしい、と表現するのは自己意識が薄まり違う自分を演じているような感覚がしたからであり、本心を本心だと認める純粋さを未だに持ち合わせていないことも理由の一つになるらしい、と再度気恥ずかしさを誤魔化してしまった私は躊躇いなく男の股間を蹴り上げた。これは断言し得る。
穢い呻き声をあげる男は悶絶し、ダンゴ虫のように丸くなった。全体重をかけて喉元を踏んづけると、不細工な顔面を曝した男は目と鼻と口から体液を噴出させた。
「テメエじゃヨシカの彼氏は務まらねェな。一度死んで善人に生まれ変わって来いや」
性器に似た卑猥な形をしている男の鼻を踏み潰すと、鼻血を地面へと垂れ流しながら土下座をした。もう一度股間を蹴ると気狂いのスイッチを押されたかのようにのたうち回り、ほどなくして私とヨシカの前からいなくなった。その間、ヨシカは私の腕にしがみついてずっと泣いていた。
「どうしてあんなしょうもない男と付き合っていたんだよ」
「……彼に、必要とされたかったんです」
「じゃあ、女に対して威圧的に怒鳴る男はあんたにとって必要な存在だったのか?」
「必要と……していました。好きでした」
「過去形じゃん」
端的な指摘にヨシカは観念したように苦笑いを浮かべ、私の服の生地で涙を拭った。
「全部、リナさんの思っている通りです。あたしは愚かでした。好きでもない彼氏のことをまだ好きだと信じ込み、会社を休んで勝手に落ち込んでいたのです」
「どうせそんなことだろうと思ったわ。それか、私にこの間咎められてショックを受けているか……」
「じ、実はそれも……リナさんに拒絶されて……精神的なダメージが大きかったのも、結構辛かったです」
結局、私の推測は二つとも真実であったらしい。
「じゃあ、あの時私は何て言ってやればよかったんだよ」
「彼氏とは絶対に上手くいくから元気出して、とかでしょうか」
「この世に絶対なんて無い」
「では、奇蹟を信じて前を見ようよ、という励ましは……」
「安っぽい奇蹟だな。というか、あんたはそれらの言葉を望んでいないはずだ。現にあの男を好きでもない、と自覚していた。それがどうして私に相談する言動に繋がっていたんだよ」
私とヨシカの過去を辿る行為は、現在という答えがゴールであった。何だ、私は遅れてヨシカの望みを叶えていたのか。
「そっか。私がヨシカを守ってやる……クソみたいな男からヨシカを引き離してやる、って宣言するのが正解だったんだな」
勝手な憶測でなく事実であることを、ヨシカの微笑みで確信した。
「やっと、解ってくれましたか」
「あまり解りたいくないことだけどさ。何であんたは私に寄り添ってくれるのさ」
「その、他人に流されない堂々として生き方に……あの公園のベンチで話しかける前からずっと……あたしは気付いていました。それがリナさんの最大なる魅力です」
「何だそれ。新手の未来予知か?」
「違いますよ。ちょっとした運命の欠片みたいなものです。あ、この人ならあたしを支えてくれる……あたしに持っていないものを持っていると思って、羨んでいたんです」
考えてみれば、不思議な話だった。劣等感の塊であった私が他者に劣等感を抱かせるなんて、お伽噺でも苦しい設定だと思えた。
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ。私はあんたみたいな女になりたかった。もっと純粋な心で世界を見つめたかったのに……」
「リナさんは充分に純粋ですよ。だって、あたしに正義を見せてくれました」
「男の喉元を踏み潰すやり方は悪役が似合うけどね」
「カッコいいダークヒーローということで解釈しましょうよ」
いつもの笑顔を取り戻したヨシカに、私は好きだと伝えたい。互いに支え合う人生も悪くないなってカッコつけたい。
「明日からちゃんと会社に行きなさいよ」
だけど、歪んだ殻に閉じこもっている私は母親みたいなことを言う現実に甘んじた。
「そうします。もう、大好きなリナさんに迷惑をかけません。本当にありがとうございます」
であるにしても、私の殻を突き破って手を差し伸べてくれる愛しき彼女の好意に、遠いようで近い未来で私が変われる期待をしていた。
ーー私が本当に羨んでいたのは、か弱い少女のような心を大事にする彼女でもなく、目の前の幸福を貪る他存在でもなく、変わろうとしていたもう一人の自分であったのだ。
私は誰でもない自己と比較し、独り相撲の劣等感と戦っていた。そんな見解でよろしいでしょうかと私が脳内で呟くと大丈夫ですと別の私が返答した妄想をいつか、彼女に打ち明けてみようと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます