インフェリオリティ・コンプレックス(中篇)
私という存在地点を仮にAとして、ヨシカのそれをBとする。
AとBの二点は殆どの場合に於いて独立した孤在であったが、ある日の邂逅を契機に重なって一点になった。
別に記号的代入を施したことに意味はない。賢そうなフリをしただけで、厳密には一点にならなく季節外れの雪だるまのように日傘を並べていた。いつもの公園のベンチで。
「暑いな」と、私が全ての会話の中で最もしょうもない話材を提供すると、
「暑いですねえ」と、ヨシカは涼しい顔で答えてくれる。
「今更なんだけどさ、私に構わず洒落たランチを楽しんでもいいんだけど」
「一人でいる時間が好きなので」
何度も聞いた言い分だった。変な奴だ。変な私と真夏の公園で過ごしてくれるOLは屹度、頭の回線に不具合を起こしているに違いない。
「全くもって同意できる事項だけどね。やっぱりあんたみたいな女は私と……いや、私みたいな女はあんたと不釣り合いなのよね」
人物を前後させて自分の価値を下げてみたが、ヨシカは箸でつまんでいたほうれん草を白米の上に落としてみせた。
「どうしてでしょうか」
「何を驚いている。私とヨシカの美的格差を考慮して述べただけだ」
「やめてくださいよ、リナさん。マイナス思考は良くないですよう」
箸を置いたヨシカは水滴のついている水筒のお茶を一口飲んでから、言葉を継いだ。「あたしはリナさんのこと、綺麗でカッコ良い女の人だと思っています」
「それこそやめてくれよ。私は綺麗でもなく、カッコ良くもない。大人らしいクールを気取っている子供だと自覚しているんだ」
不覚にも、結婚適齢期に差し掛かっている(若しくは過ぎている)女子同士に於ける不毛な会話をしてしまった。みずぼらしい二匹の野良犬が土管の中で傷をなめ合う行為は絶対に避けたいと思うのに、ヨシカといる時の私はそれを許してしまう。
「本音を明かせるだけ、リナさんは立派だと思いますけど……」
ヨシカの弁護はちょっとやそっとでは引き下がらないが、私の尖った心の角を取り除くまでは至らない。
--だって、私は本音を未だに伝えていないのだから。
「私の相対的評価はさて措き、ヨシカの会社も明日から夏休みか?」
今日は金曜だったので、何となく訊いてみた。
「はい。九連休ですねえ」
世間的には喜ばしいワードの割に、ヨシカの声は小さかった。卑屈な私の言動に対してまだ呆れていた様子……とも見做せるが、心残りがあった。
「うちのクソ会社は来週の火曜まで営業するらしい。派遣だから有給も与えられていないし、やってられんな」
「相変わらず上司とは上手くいっていないようですね」
「上手く行く方がおかしい話だ。下半身の欲求を優先させるクソ野郎共にとっての私はクソ以下の存在だからな。今日も見積書の作成を一日遅れただけで溜息をつかれたさ」
不満を口にすればするほど、苛立ちが募る。生意気な派遣社員の苦労を受け止めていたヨシカは弁当を半分残して鞄にしまった。
「あんたみたいなキャリアウーマンなら、仕事が充実しているだろ」
「キャリアウーマンかどうかは分からないですけど……それなりに」
はにかんだヨシカの顔は、ゴム毬のような天体の彩光に負けて影を作っていた。
「ーー何かあったか?」
単刀直入に詮索した私は厚かましくもあり、いつもの私らしくない挙措だった。他人の感情を深掘りするなんて、下手したら小学校低学年以来なのでは……。
「気付かれちゃいましたか。リナさんの前では嘘をつけないようですねえ」
取り繕った笑い声を挟み、ヨシカは日傘で顔を隠して話を続けた。
「……彼氏と最近、ケンカしちゃったんです」
その一言で、私の心は急激に冷めた。いや、今までもずっと冷え冷えしていたのだが、正確に表現にすると冷蔵庫からアラスカの大地くらいまで温度が下がったのだ。
わたしも日傘を下ろして、ヨシカとの間に隔たりを設けた。
「あたしが悪いんだと思います。残業が多くて会えない期間が長かったり、来週の休みを使って旅行の計画も立てていたんですけど、行き先で彼氏と意見が分かれて結局止めてしまったり、みたいな感じで」
恋人との概況を説明してくれているものの、私は八割方言語として認識していなかった。
「……どうしたら仲直りできるのかなって、最近すごく悩んでいるんですよう……ってリナさん? 聞いてます?」
腹痛を我慢しているような姿勢でいた私の肩は揺さぶられた。
「どうでもいいじゃん、そのくらい」
にべもなく吐き捨てると、視界の揺れは収まった。上半身をゆっくりと上げて日傘を畳むと、茫然としているリナの美しい顔が其処にあった。
「どうでもいいことに悩むなよ。時間の無駄だぞ」
繰り返しの悪言を言い放つと、やっとリナの唇が動いた。
「……そ、そんな……どうでもいいことなんて……」
「恋人との亀裂が生じたら、別れればいいさ。違う人間同士、絶対に解り合えることなんてない。ってか、あんたも結局はそういう人間なんだな」
「そういう……人間?」
「私にとっての敵、なんだよ。ヨシカが思う不幸はわたしの不幸と同じじゃないし、彼氏自慢されても困るな」
次第に私が何を喋っているのか、判然としなくなった。ただ、現時点で生じている胸裡の蟠りの因果はハッキリとしている。全てを理解していながらヨシカを涙目にさせる私はいつになったら大人になれるのだろうか。
「そんなつもり……無かったのに。私のプライベートを自慢している訳じゃなくって、リナさんに相談したいだけで……」
「相手に懐かせる不快感の可否を決めるのはあんたじゃなくって私だ。意図しなくても結果的に嫌味になれば、あんたは自分大好きな薄っぺらい女に過ぎない」
批難剔抉を最後まで言い切った私は、ヨシカの頬に流れる涙を冷静に目で追った……ように思わせて、実は何も見ていなかった。
「リナさんのばかっ!」
ストレートに馬鹿と罵られたのは珍しく、会社内でもまずない。子供のような怒り方をしたヨシカは鞄を肩にかけて足早に去っていった。
これで良かったのだと思う。A点とB点を引き離し、私との関係を《あの子》に戻しておくのが無難な選択なのだ。後悔なんてする訳がない、と自己完結を誇示した私は昼休みの時間を過ぎてもベンチに座ったままで、私の心理を介さず放射する日光を背中に受けて……じっと耐えていた。
三代リナの夏休みについて、語るべきことは一切無い。だからこの二文で片付けさせていただき、分断された夏の続きへと移行する。
案の定、休み明けの公園にあの子はいなかった。嫌われたか。
軽い夏バテを引き起こしていた私はコンビニ弁当をやめ、スティック状の栄養補助食品を二本齧ってミネラルウオーターで胃へと流し入れた。ベンチは鉄板のように熱い。何でこんな処で頑なに日傘を差しているんだろう。
--待っていても、あの子は来ないのに。
私ほど七面倒な女はいないと思う。常に矛盾した感情を戦わせ、迷う必要のない迷路の中へ自分自身を放り、断崖の絶壁より命綱なしで降り乍ら助けを乞う冒険者みたいなものだ。無謀の二文字よりも愚かな私に同行してくれる旅人などいるはずもないのに、私はその同行者が寄り添ってくれることを期待して此処にいるのだ。
暑さを凌げてない日傘の影の中で、文庫本を読む。当然、流行に沿ってドラマ化するような小説ではなく、百人中九十九人が呆けて読書を放棄するような堅い文体の観念小説を私は好む。私が九十九人ではない一人だと誇示しているから。
「……あんたと出会う前は、こうやって時間を潰していたっけ」
熱気の空間に
「あ、いた」
どうやら私は私でいるので、私を中心とした物語が随時流転するらしい。聞き覚えのない声がした方向に視路を向けると、これまた見覚えのないスーツ姿の中年女性が小走りでやって来たのだ。
鉄板で文庫本の表紙を焼くように置いた私は、無言を貫いて相手側の出方を窺った。
「あなた、樋野さんとよく一緒にいた女の人でしょ」
樋野……はあ、あの子か。と、私は微妙な間を置いて合点がいった。
と、いうことで。《あの子》は再び樋野ヨシカという固有名に戻さねばならないのだ。あんたと私を繋ぐ糸は存外丈夫らしく、仲違いをしても第三者を介入して連関を持たせてくれることで、私は生意気にも不幸の中にある幸福を追い求めていた。
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