明日もここで待ってます。【加絵・藍】

 死にたいということは、ええ、現代社会に生きていれば、程度の差はあれど誰もが思っていることだと思います。猫を触っているあの子だってそうだし、友人と談笑しているあの子だってそう。というわけで、御多分に漏れず私だってそう、というわけです。死にたかった。死にたくないけど死にたかった。


 その日は特に死にたくて、つい、口に出して呟いてしまっていました。それも、一度だけではなく、何度か。


 そしてその日は、高校生になったその初日でした。


 「……」


 私のあたり一帯が凍り付いたようでした。


 別に、誰と話していたわけでもありません。中学の時から一緒の人もいないし、話す相手がまずいません。それは他のクラスメイトも同じで、びし、っとみんな座っていました。話している人があまりいないので、教室内はやや静かでした。というわけで、私の呟きはクラス中に響きます。


 あ。


 と気付いた時にはもう遅いです。びっくりしましたが、しかし、動じていないふりをして、私は窓の方をプイっと向きます。あぶないあぶない。窓際の席で良かった。


 何が良いのでしょう。


 別に誤魔化せたわけではありませんでした。


 そんなわけで、私は高校一年生の初日にこんな感じのことがあったために、やべえやつのレッテルを貼られて、孤立街道まっしぐらなのでした。


 猫まっしぐら。


 言ってみただけです。


****


 さてさて。そんなわけで私の高校での友達は壁でした。いえ、現壁、元扉です。これが結構な年配の方で、今はもう封鎖されている旧校舎へ接続する扉です。旧校舎、とはいえ、私たちの学ぶ新校舎ももう十年くらい使っているそうなので、新校舎というか比較新校舎で、こちらが大旧校舎という感じでしょうか。


 まあ、どちらでもいいですが、要するにここには誰も用がないのです。孤独街道の浮浪者であるところの私には、一番の安息所ということです。


 「…あーあ」


 なんでこんなことになってしまったのでしょうか。死にたかったからでしょうか。死にたいのがそんなにいけませんか。


 …いけませんね。


 「おいしいね」


 お母さんに持たせてもらったお弁当を箸でつまみながら、私は扉へ話しかけます。もちろん、扉は答えてくれません。友人だと思っているのは私だけなのでしょうか。

 まあ、会って三日目で言うのも何ですけれど。


 「あ」


 そこで思いつきます。部活か何かに所属すれば、もしかすると巻き返しを図れるかもしれません。今はこんなでも、部活内でクラスメイトと仲良くなってしまえば、その子とはクラス内でも話せるわけで、私はこの扉以外にも友達を作ることが出来ます。待っているはずの、鉄の高校時代を永遠に葬り去ることができるかもしれません。


 「…よきかな」


 正直言って、自分の発想力が恐ろしいです。なんて頭が良いのでしょう。さすが受験戦争を避けて通っただけのことはあります。

 なんて、自画自賛をしてみました。


 「……」


 一人でぶんぶん頷いていると、前方に女の子を発見しました。ええ、それはそれは可愛らしい女の子です。


 あんな子と友達になれたら最高だなあ、と思いつつ、自分の状況を顧みて、やばい、と思います。


 なにせ、使われていない扉の前に座して弁当をつついているのです。一瞬で、『あ、友達いないんだな』と妙な予想をされてしまいます。そしてそれが本当なのが手に負えません。


 私は弁当箱の蓋を閉め、即座に物を落としたふりをします。えーっと、確かこの辺から音がしたような。いや、コンタクトにしましょうか。自分でも何を探している設定なのか解らないまま、床に這って、何かを探します。何を探しているのでしょう。お友達でしょうか。


 そうして、女の子が通り過ぎるのを待ちます。どうかこっちに来ませんように。まあ、普通は来ません。こっちには本当に、閉鎖された旧校舎への扉しかないからです。横道に逸れることも、階段もないので一本道です。


 「こっちに来ませんように」


 私は何の学習もせずに声に出します。なんてポンコツな頭なのでしょうか。


 その女の子は真っ直ぐこちらを見据えます。


 来ないでください、お願いします。誰にお願いしたか、というと神様です。普段悪いことはしていないのだから、こんなお願いくらい聞いてくれてもよさそうなものです。


 が、聞いてくれないのは世の常でしょう。


 ずんずんと、確信のある足取りで、女の子は私の方へ向かってきます。


 いやー。


 そんな風に叫び出しそうでした。


 「……」


 女の子の目線は、最初、私の方にありました。しかし、扉の近くまで来ると、扉を見つめます。なんだなんだと、私は女の子を見つめました。


 「…この扉は」


 女の子は静かに言葉を紡ぎます。


 「この扉は、もう使われていないのですか?」 


 そう、女の子は訊きました。なんとなく、残念そうな口調でした。


 「は、はい。そうみたいですよ」

 「そうですか…」


 女の子は目を伏せて、頷きます。なんとなく、申し訳ない気分でした。


 「ありがとうございます」女の子は言ってから、「いつも、この場所に?」

 「え、えっと…」


 ぎっくぅ、と内心で小気味良い音が鳴り響きました。本当にこんな音が鳴るのかあ、と小さな知的好奇心が生まれます。


 「か、かもねー…」


 は?


 どういう意味でしょうか。自分で言ったのにもかかわらず、どういう意図でそんな風に返したのかわかりません。いつもいるか、それとも今日偶々なのかを聞かれたのに、「かもねー」ってどういうことなのでしょうか。


 「そうですか」


 しかし女の子は微笑んで、その場を後にします。


 これにも、は? です。


 どういう意味か解ったのでしょうか。そうだとするなら、素晴らしい読解力か、あるいは素晴らしい思いこみです。


 「……」


 まあ、立ち去ってくれたので良しとしましょう。いつまでも滞在されていてはこのままお弁当が食べられず、謎の物体を探し続けなければならないところでした。


 しかし、何の用だったのでしょう。さっきも言いましたけれど、ここには何一つありません。鉄の扉だけが佇む場所です。見たところ、扉の向こう側、旧校舎に用があったみたいですけれど、そこにだって何があるわけでもありません。何故なら使われていないからです。


 「んー」


 私と同じ、やべえやつ、でしょうか。


 だとしたら関わりたくないですね。いくら可愛いと言えども。


****;;



 ええ。私はクズですとも。どうぞ罵ってください。


 あ、いえ、やっぱりやめてください。よく考えたら失敗して落ち込んでいるのは私で、他に誰も実害を被っていないのでした。


 部活、なんてもうこりごりです。


 この一週間、色々なところを見学して回りましたが、合いそうなのが一つもありません。


 いえ、言い訳ではありません。


 だって、中学時代に私が所属していたのは、水泳部です。とてもメジャーな運動部だと思いますが、何を隠そう、我が高校にはプールがありません。掛け値なしに、野外も屋内もありません。困りました。困りましたよ。


 なので、まあ、手あたり次第回ったわけです。


 やべえやつが色んな部活に顔を出しました。


 「…はあ」


 聞いてくれますか。まず、先生が怖いのです。本当に。私は土台、やる気が無いわけですけれど、ちょっとぼーっとしているだけですぐ怒ってきます。辛いです。いやまあ、体験入部でぼーっとしているほうもアレですけれど。

 それにつられてか知りませんが先輩も厳しいのです。同年代のくせに、という思いが頭を掠めます。


 文化部も概ねそんな感じでした。というか、文化部は特に。


 中学時代とは大違いです。しかも、経験者が多いもんで、これから始める私なんかはお呼びじゃないのです。


 結局、やべえやつがポンコツだということを周知しただけでした。周知して羞恥しました。上手いこと言いましたよ。


 「…ただいまだよ」


 私はまたこの扉の前に舞い戻り、作戦を練ります。まあ、その間にも昼食はここで摂っていましたし、大体、この場所にいるわけですがね。


 はは。


 自虐にもなりません。


 こまりました。


 このままでは本当に私は「こんにちは」鉄色の高校生かtttttt。

 

 「…!」

 扉から声がしました。

 間違い。隣から声がしました。


 「こんにちは」


 そう笑いかけるのはこの前の可愛いやべえやつでした。いつの間にか隣に座っています。きっと、私が悶々と考えている隙にここへ来たのでしょう。


 「こんにちは…?」


 あ、返事をするのを忘れていました。


 「こんにちは…この前会った人」名前を聞くべきか逡巡しましたが、そう仮称しました。

 「会った、というよりは、あなたがここにいたんですけどね」


 この前会った人は楽しそうに言います。


 「…? どうしたんですか?」

 「あ、いえ…」


 私は、この前会った人の顔をまじまじと見ながら、この子とお友達になってみようかしら、と考えます。


 可愛いし、この子と友達になれれば最高なので、うってつけだと思いました。


 でも、やべえやつならお断りです。私がやべえやつと一緒にいたら、本当に私がやべえやつだと思われかねません。私は、あの日たまたま死にたかっただけの善良な一般市民なのに。


 「…結局、何部に入ることにしたんですか?」

 「…!? 何故、それを…?」

 「ここ最近、いろんな運動器具を持ったあなたを校庭で見かけてましたから」

 「あ、ああ、なるほど…」


 一瞬、心を読まれたのかと驚きました。私は平静を装って答えます。


 「いや…どこれもこれもピンと来なくって」

 「ピンと…」

 「はい…やりたいことが見つからないっていうとアレですけれど」

 「ふうん。中学では帰宅部?」

 「いえ、水泳部です。けれども、ここの学校、プール無いですし…」

 「あらら」この前会った人は言ってから、「まあ、それなら別に無理に見つけようとしなくてもいいのでは? 部活って、やりたいことをやるものですし」

 「ダメです!」

 「ダメなんですか?」

 「ダメなんです!」

 「なにゆえ?」

 「え…っと」


 私は少し考えます。こんなよく知らない人に自分の弱い部分を見せていいのかと、野生の本能が疼き始めます。うーん、と考えます。


 「言わないと駄目です」


 先手を打たれました。これは痛いです。よく知らないがために、相手の要求を断るのにはとても勇気が必要でした。


 「…実は」


 悩みを打ち明けたい、という想いも相まって、私は話し始めました。滔々と、私は自身の失敗談を話します。


 「うんうん。成る程ね」


 一通り話し終えたところで、この前会った人は呟きました。この『成る程』はきっと、『やっぱりここにいたのは友達がいないからなんだわ。予想通りね、ふふん』という意味でしょう。なんとも惨めな気分になりました。

 それから、この前会った人は両の手をピストルのようにして、私の方へ向けると、言います。


 「やっちゃいましたね」

 「…うう」

 「冗談です」


 呻き声で応じた私に、この前会った人は慌ててフォローを入れました。


 「…でも、それならまだ巻き返しを図れるかもしれませんね」

 「え」

 「だから、部活に入らなくっても大丈夫そう、ということです。ほら、要するに仲良くなるきっかけを作ればいいわけでしょう?」

 「え、ええまあ」

 「それならば、普通に授業の中で仲良くなっちゃえばいいじゃないですか」

 「…それが出来れば」

 「来週。月曜日ですか。美術館見学があります」

 「…!」


 それな、と私は心の中で同意します。毎年恒例で、都内の国立美術館を見学する行事があることを失念していました。実は美術系に明るい校風なのです。

 確かに、課外活動を通して仲良くなれるというのは、なんとなくポピュラーな感じがします。いやー良い。確かに良い。


 「な、なるほど…やってみます!」

 「ふふ…うん。頑張ってね」


 私は力づよく頷きます。この前会った人は、私のあまりの必死さにおかしくなってしまったようでした。


****


 「……」


 着きました。六本木にある美術館です。電車での移動中も私は黙りこくって、真面目にシミュレーションをしていました。


 え? 誰とも話さなかったのかって? そんな暇はありません。


 え? それじゃあ本末転倒だって? そんなわけないじゃないですか。


 見学するのは、マグリット展です。何故常設展示ではなく、企画展なのでしょう。こういう場合って、借りてきた美術品より、美術館に貯蔵してあるものを見るのではないでしょうか。


 先生方が観たいだけなのでは疑惑が微レ存です。


 その教員方の指示に従って、私たち生徒は美術館内に入ります。この建物自体が美術品のような装いです。


 『マグリット展』と書かれたタペストリーが垂れ下げられているブースの前で止まると、先生方は美術館のスタッフと何やら挨拶をかわしました。その間にもクラスメートの方々は少しざわざわしています。音を発していないのは私だけでした。


 さあ見ろ、という感じで解き放たれた私たちはちりぢりに、しかし、ある程度固まって移動していきます。


 「…さて」


 一通り生徒が入り込み、その流れが落ち着くと、入り口で待機していた私は気合を入れます。なにせ、ここからが本番です。これで何も出来なければ、この一年、きっと私は誤解されたまま鈍色の高校生活を送ることになってしまう。そんな事態を避けるためにも、なにがなんでもお友達を捕まえねばなりません。


 それに、あの人が応援してくれたのでここで情けない結果を出すわけにはいかないのです。


 足を踏み入れると、マグリットの説明がまずありました。文字は苦手です。それを通り過ぎると、絵画が現れました。


 「光の…帝国…って言うんだ」


 教科書でよく見る絵でした。これはとっても有名なやつです。


 その絵は結構、みんなさらっと流していました。まあ、多分教科書で見飽きている、という理由が大半でしょう。


 私も通り過ぎようとしました。しかし一人だけ(重要)、その絵の前で立ち止まって、熱心に見て居る女の子がいます。


 ポニーテールで、眼鏡をかけた、賢そうな女の子です。この絵がよほど気に入ったのでしょうか?

 よし、と話しかけてみます。


 「…これ、有名な絵だよね?」

 「ん…ああ、そうだな」


 おおう。結構硬派な喋り方でした。外見のイメージとは少し違い驚きますが、めげずに続けます。


 「えっと…なんか不思議な絵だよね」

 眼鏡ちゃんはこちらを少し見て、「ほう…それはどこが?」

 「ほら、上が晴天で、下が暗いって…何だか水と油みたいだな、って思った」

 「水と油か…その発想はなかった」


 眼鏡ちゃんは驚いたようにこちらを見ます。


 「…ああ、マグリットの絵には、何かを表現したものが多い。それは、見えているものが見えていなかったり、見えていないものが実は見えていたりと、そんなことを現したものが多い気がするんだ、私見だが。…だからこの絵は、暗いと思っていても視点を変えれば明るいし、明るいと思っていても視点を変えれば暗い。一辺倒に見えているもの捕らえようとするから、この絵が不思議に見える、というある種の皮肉を見ている者に投げかけていると、そう感じていた。この絵を見るたび、いつもそう思っていた。それ以外ないと思っていた。…しかし、水と油か。その発想は全くなかった。水と油、表裏一体…そうだとするなら、何を表現しているのだろう」

 「…なんだろうね」

 「例えば、そうだ。この絵の暗いところと明るいところには、境界があるわけではないだろう? 要するに、鑑賞者から見て手前の、道は暗いが、鑑賞者から遠い、ところ…明るいのは、空だけだろう。だから、水と油、性質の真反対のもの、あるいは敵対しているものの違いは、距離の違いである、ということを現しているのかもしれない。距離が近づけば性質は似たものになるし、敵対もなくなる、マグリットなりの平和を訴えたものであるという見方もあるいは正解なのかもしれない」

 「…そうだね」

 「ああ、何で今まで気づかなかったんだろう。何度となくこの絵を見てきたというのに、どうしてこんな単純なことが思いつかなかったのだろう。今までこの絵を尖った風な絵だとしか認識していなかったが、ああ、こうしてみると優しい絵じゃないか。街灯と樹木が共存している。人間の営みと、自然が調和している。しかし、あと少し足りないんだ。きっと私たちは、性質の違うものとちゃあんと距離を詰めることで、超自然な形になれるんだ。それをきっと、暗喩で、ああ…そうか…」


 …これは、地雷なのでしょうか。それとも相手の趣向に合わせたということで、成功しているのでしょうか。ちょっと解りません。

 まあでも、この子が楽しそうなので良しとしましょう。


 「…凄いな、君は。私には無い柔軟な思考を持っている。羨ましいよ。私は石頭だから」

 「ありがとう…でも、そんなに語れるあなたの方が、よっぽど尊敬しちゃう。この絵だって、今日初めて生で見たんだ…お恥ずかしい限り」

 「そうか…どうだろう、一緒に見て回らないか?」

 「…! い、良いの!?」私は思いっきり破顔します。


 それに驚いたのか、少し狼狽えたような顔をしてから、少し目を伏せます。「あ、ああ。良ければ、意見を交わしながら見たい」


 じゃあ、ぜひ!


 そう言いかけたところで、邪魔、もとい、迎えが来ました。もちろん、私のではありませんよ?


 「あー、ひーちゃんまだこんなところにいたー」

 「ん、ああ。浅香。…そういえばお前のことを忘れていた」

 「…ひっどいな」


 心底悲しそうな顔をして、浅香と呼ばれたその女の子は言います。泣き出さないか、こちらが不安になるほどです。


 それから、その子は、私を認めます。「…その子は?」

 「えっと…この絵について話していたんだ。なかなか面白い発想を持っていて、良ければ一緒に回らないか、と今誘っているところだ」

 「…ふうん」


 あ、と思います。これは、あきらかに嫌がっているときの『ふうん』です。

『ふうん(お前なんかお呼びじゃねーんだよ)』です。


 「…へえ」

 「なんだよ」


 『へえ(空気を読んで消えてくんねーかな)』です。

 察するに、多分この子たちは親友と呼ばれる部類の関係性なのでしょう。

 だって、『ひーちゃん』て。

 この眼鏡ちゃんがどういう名前なのかはわかりませんが、そんなあだ名で呼び合う様な仲はきっと親友に違いありません。

 いいなあ。


 「…わたし、ひーちゃんと二人だけで回りたい」


 おっと来ました、決定的な拒絶の一言。


 しかし、仕方がないかな、とも思います。


 親しい人が誰かに盗られるのは、本当に辛いことですから。


 「浅香、お前な」

 「あ、いえ、大丈夫大丈夫。行ってあげて? また、あとで話しましょう。私、目録買う予定だし」

 「…生で絵画を見るのと、スキャンされた画像を見るのとでは、印象が全然違うんだ」

 「それなら尚更、浅香さんと一緒に見てあげなよ。大丈夫。私、見たときの感想、メモしとくから」

 眼鏡ちゃんは少し悩んでから、「…すまない。後でゆっくり、話そう」

 「うん」


 私がそう応じるのを見届けると、二人は奥のブースへと消えて行きます。残された私は、ポツン、という感じで再び絵画に向き合いました。


 「一人になってしまったー…」


 良い感じだったのに。

 いや、助かった、と見るべきでしょうか。私の喩えがさっきたまたま眼鏡ちゃんに刺さっただけで、百点以上もある作品を一つ一つ感想を言い合いながら回っていたら、絶対どこかでぼろが出ます。『あ、こいつなにも解ってねえな』と悟られてしまいます。


 「……」


 それに、他に親しい人がいるのなら、その人を優先してほしいのも確かです。だから、あれでよかったのです。私なんて、あの子じゃなくても良いのですから、また違う人を探せばいいの「あ、じさ…佐山さん」でsssss。


 この感じ、前のパラグラフでやりましたね。ワンパターンではなく天丼ですよ。


 それはともかく、私を呼ぶ声がしました。私の名前、初めて出ました。どうも、佐山です。その佐山こと私を呼ぶ声など、絶対にないと思っていましたから、悲鳴を上げそうになりました。それをぐっと堪えます。


 「じさ…佐山さん、大丈夫?」

 「じさ…?」

 「ああ、いえ。気にしないで」


 そう言う女の子は、私のクラスの学級委員の方でした。確か、大久保奈央さんというお名前だったような。


 おお。


 さすがは学級委員さん。孤立している生徒に話しかけてくれました。


 「じっくり見てるのね…マグリット好きなの?」

 「えっと…うん。まあね」


 いやー実は一人でいる人を見分けるためにある程度様子を見ていたんですよー。とは、流石に言えません。


 「そう…マグリットのタッチは好きだけれど、抽象画って、私にはあまりわからないのよね。何が言いたいのか、明確にされていないのは好きじゃないわ」

 「そっか。それはでも、わかる気がする。何を言ってるか分からないのはあんまり面白くないよね」

 「あなたでもそうなの? 好きなのに?」

 「あー…ほら、わかるやつが好きなんだよ。例えば、ほら、これ」


 私は『光の帝国』の隣にある、青空を描写した作品を指さします。


 タイトルは『呪い』


 ……。


 もっとなんかなかったんですかね。


 「こ、これ、青空だけど呪いって、いうタイトルじゃん?」

 「ええ」

 「一見すると、ひねくれているだけの作品だけど、でも、作者には本当に呪いみたいに見えたのかもしれない」

 「…青空が?」

 「うん。例えば、空の下にいる人にどんな不幸があったとしても、青空は変わらずあって、明るく照らすわけじゃない? それって、その不幸のあった人にしてみれば、暗い気持ちなのに強制的に明るく照らされて、たまったものじゃない。それがなんとなく、呪いみたいに思ったのかも」


 私は内心、自分の演技力に舌を巻きます。本当にマグリットが好きな女の子みたいなことを言えました。こんなことなら劇団にでも入っておくべきでした。


 「…一般的な解釈とは全然違うのね」


 …眼鏡ちゃんと話すときは目録の解説を読んでからにしましょう。


 「ねえ…あなたもそんな気分だったの?」

 「…?」

 「死にたかったんでしょ?」

 「…! それ、それ誤解だから!」

 「誤解?」

 「そう…! その時口ずさんでた歌の歌詞にそういうのがあっただけで」

 「…ずいぶん暗い歌を聴いているのね」

 「う…そうとるかあ…」私は項垂れてから、「死にたい、ってくらい歌詞の中ならあると思うんだけどなあ」

 「そうね。まあ、そうかも」


 良かった、思ったよりあっさり引き下がってくれました。いや、これは良いのでしょうか。なんだか誤解が解けた気がしません。


 「ま。じゃあ、私行くわね。そんなに好きなら、誰にも邪魔されないのが良いでしょう」

 「え…」


 そう、私に背を向けて歩き出します。え、うそ。一緒に見て回る流れでは。いったい何のために話しかけてくれたのでしょう。


 「ちょ、ちょっと待って」


 私は全身全霊をかけてクラス委員さんを引き留めます。


 「奈央さん、わ、わたしと、お友達になってください!」


 うわー、と自分でも思います。これは直球すぎてやや気持ち悪いですかね。自分だったらどうでしょう。

 あ、いや、意外とありですね。


 「……」

 「だ、め、ですか…?」

 「…ダメじゃないから、そんな怯えなくても大丈夫よ」

 「…ほんと?」

 「…っ」

 「?」

 「いや、何でもない」


 奈央さんは目を逸らして、赤面しました。確かに、こんな告白みたいなお友達申請、ちょっと照れ臭いかもしれないですね。いや、ちょっとどころではないですね。やばいですね。吐きそうなくらい恥ずかしいですね。心なしか美術館の方がひそひそにやにやしているように感じます。


 良いんです、別に。お友達ができるなら。


 「…良いわよ。じゃあ、一緒に回りましょうか」


 奈央さんは初めて微笑みを見せてくれました。


 「笑った顔、可愛いね」


 うわ、またやっちまいました。いきなりこんなことを言うのは得策では無かったです。折角誤解が解けそうな感じなのに、再びやべえやつだと思われかねません。


 「え、えっと、今のは、つい…」

 「…ありがとっ」


 奈央さんは照れたような困ったような顔をします。いや、良かった。これはたぶん喜んでいるときのやつです。


 おそらく。


 かくして、私に高校で初めてのお友達ができました。名前を、大久保奈央さんといいます。


****

 

 これで終わると思いましたか? ごめんなさい、もう少しだけ続きます。


 「今、誰に謝ったの?」

 「…声に出てた?」

 「加絵ちゃんはおっちょこちょいだねえ」


 出ました。下の名前です。私は佐山加絵と言うのです。どうぞよろしく。


 それはともかく、美術館見学から一か月くらい経ちました。私は仲良しグループのメンツが決まってきたくらいには、クラスに馴染めています。


 一番最初に喋ったのは、言わずと知れた奈央さんです。


 二番目に喋ったぽわぽわした感じの子は、文ちゃんといいます。その名の通りふみふみしています。


 文ちゃんは奈央さんについてきた、というか、前から奈央さんとお友達になりたかったそうです。しかし、奈央さんは結構凛々しい方ですから、近寄りがたい雰囲気を持っていて、だから話すに話せなかったところを、私が奈央さんとお友達になって話していたので、ええい私も、と入ってきてくれた、という運びです。


 いやーよかった。頑張って奈央さんと友達になったことで、二人以外のクラスメイトとも結構話せるようになりまして。初期のように浮くことは無くなりました。


 そして私がちょっとの間、自殺志願者と仮称されていたことも解りました。


 残酷。


 「…そういえば加絵、あなた、最初のうちはあまり教室にいなかったわよね。あれ、どこ行ってたの?」

 「…というと?」

 「いや、というと、の意味が解らない」

 「それな」

 「いやそれなじゃなく」

 「めっちゃウケる」

 「ウケない」

 「うう…えーっと…ひかない?」

 「だいじょーぶ。加絵ちゃんは結構やばいからー。もう慣れたよー」

 「しんらつ…!」私は大袈裟に悲しんで見せます。「実は…学校の中、徘徊してたんだよね」

 「徘徊…」

 「そう。徘徊。…暇すぎて」

 「あのねえ…そういう時はね、加絵。校内探検とか言って誤魔化すもんなのよ?」

 「……」その考えに至らなかったことに後悔を禁じえません。「…またやっちまった」


 なんて、言って見せます。分かっているとは思いますが、これは嘘です。ほんとうは、扉の前でぼっちめしを食らったり、お友達を作る算段を立てていましたから。さすがに、これを言うのは憚られます。だって、言われた方の身にもなってください。何と返したらよいのでしょうか。反応に困ります。


 ……。


 嘘です、私が恥ずかしいだけです。


 「……」


 と、まあ、奈央さんとお友達になった時から、誰かと一緒にいることが多くなりました。だから、あの扉の前に行くことは無くなります。それは必然ですね。なにせお友達がいるのですから、あえて一人で食事を摂る必要はありません。お友達を伴って、わざわざあの場所へ移動する理由もありません。教室で事足ります。


 「…どうした?」

 「ううん、なんでもないよ」


 あの子はどうしているのでしょう。扉の前でいつも話していた、あの子は。


 あの子のおかげでお友達ができた、というと言いすぎかもしれません。遅かれ早かれ、私は美術館見学のことに気付いて、対策を練っていたはずですから、彼女に教えてもらわなくとも、奈央さんとはお友達になれていたと思います。


 しかし、あの子が一助となってくれたことは、紛れもない事実です。友達のいない私の話し相手になってくれて、私のことについて考えてくれた。そんな彼女を失ってしまうのは、ちょっと寂しい気がします。


 いえ、気がするではなく、はっきり寂しいです。いくらお友達が増えても、浮かなくなっても、なんだか寂しいです。


 「……」


 でも、とも思います。それはあの子が可愛いから執着しているだけなのでは、とも思います。いや、他の女の子が可愛くない、というわけではありません。あの子だけ、特別な可愛い、なのです。


 私の中に深く刺さって、抜けない。針のように食い込んで、印象に残ってしまう。そんな可愛さです。


 そんなの不実です。見た目だけで好き嫌いを決めるのは、誠実ではありません。


 それに、この感覚は少し懐かしくて、同時にもう二度と感じたくない、と思っていたものでした。


****


 「…今日、大久保さんと文ちゃん、休みらしいね」


 そう、前の席の子が教えてくれます。


 「教えてくれありがとう」

 「チーム作る授業があったら、一緒に組もう?」

 「いいの?」

 「願ったり叶ったりだよ」

 「え?」

 「何でもない」


 そう言って、その子は前を向いてしまいます。


 そうですか、二人は休みですか。


 朝のホームルームで、副担任の先生が、流行り風邪でその二人と担任の先生がお休みであることを教えてくれます。大人にも感染する風邪ですか。二人は大丈夫でしょうか。放課後にお見舞いに行ってみましょう。

 どっちのお見舞いに行きましょうか。まあ、暇なのでどちらとも伺いましょう。


 「……」


 もしかして、今日ならあの扉の前へ行けるでしょうか。こんなことを言うと不謹慎ですけれど、二人が欠席なら、私は一人で食事をすることになると思います。最近ではそんなの、ただの一度もありませんでした。


 今日を逃すともうチャンスはないような気がしました。


 「…よし」


 と私は決心します。あの子は不定期にきます。なので、今日来るかどうかは分かりません。そもそもあの場所は基本的に、誰も用がありません。来る確率はとても低い。


 けれど私はどうしても、あの子に会ってお礼をしたいのです。背中を押してくれてありがとう、とそう、一言だけで良いので、言いたいのです


 それで終わりです。


 さらに言うなら、来なければ来ないでも、別に構いません。


 一時間目の予鈴が鳴りました。先生が来る時間です。


****


 「え、どっかいっちゃうの?」


 お昼時。席を立つと、前に座る子が残念そうに言いました。ああ、この顔には弱いんだよな、と思いつつ、私は我慢して言います。


 「ごめんね。ちょっと絶対に外せない用があって…この埋め合わせはどこかで必ずするから」


 私は言いながら、彼女の頭を撫でてみます。そうしたら、経験則上、許してもらえることが多いからです。


 「…! ほ、ほんとうだからね。約束ね」

 「うん。絶対。何でも言うこと聞くから」


 私は微笑んで言ってから、その場を後にしました


 教室を出ると、まっすぐあの扉の前へと歩を進めます。慣れたものです。入学してから一週間ちょっと、毎日通っていましたから。まだ一か月くらいしか経っていないのにも関わらず、その道がなんだか懐かしい感じがしました。


 扉へ近づくにつれ、クラスの教室は少なくなって行き、人はまばらになって行きます。扉付近の教室になると、実技教科の教室なので、その時以外は使われません。だから、人が少ないのでした。


 「…ただいまだよ」


 扉の前へ到着しました。ただいまです。おじいちゃんの扉は、当たり前ですが、まだ健在で、心なしかお帰りといっているような気がします

 私はその扉を背にして、門番のように座り込みました。そして、お弁当を開きます。


 もぐもぐ。


 お弁当をつまみつつ、思います。

 もしあの子と会えても、お友達にはならない方が良いかもしれない。ありがとうを言って、そのまま別れて、もう会わない方が良いかもしれません。


 この調子でもし仲良くなって、それ以上になってしまったら、それはちょっと怖いことですから。


 「……」


 もぐもぐ。


 無言で食べながら、いろんなことを考えます。どんなふうに切り出そう、とか、どんなふうに挨拶しよう、とか、そんなシミュレーションを幾度となく繰り返します。まあ、暇なので。


 うーん、と考えます。


 もぐもぐ。


 うーん。


 もぐもぐ。


 うーん。


 そんな感じで考えているうちに、お昼ご飯を食べ終わってしまいました。あの子は来ません。隣を見ても、座っていません。


 物欲センサーというやつでしょうか。欲しいときに限って、手に入らない。


 いや、人を物のように扱うのはいけませんね。反省です。


 右側にある窓から、陽光が入り込み、私に当たります。日焼けしそう、と思いつつ、その暖かさが心地いいのでした。


 うとうと。


 お昼を食べた後だけあって、眠くなってきました。


 うとうと。


 寝てはいけません。


 うとうと。


 ここで寝ては、次の授業にまにあいm、s、n、zzzzz......


****


 夢を見ました。昔の夢です。とはいえ、そこまで前ではなく、三月の終わりごろの話ですから、古い記憶ではありません。だからか、嫌に鮮明でした。彼女の表情も、私の心情も、事細かに思い出せてしまいます。


 『…こんなこと、もうやめようよ』


 彼女は言います。私の彼女です。今までに見たことが無いくらい、深刻で残酷な表情でした。


 『私たち、もう高校生だよ? いつまでも遊んでないで、現実見ようよ』


 現実とは何のことでしょうか、遊びとは何のことでしょうか。私は微塵もそんなつもりはありませんでした。ただ一瞬たりとも私はそんな風に思ったことがありませんでした。私は常に現実に生きていて、この目で彼女を見ていました。


 それなのに。


 そのつもりだったのに。


 『そう…だよね』私は言います。彼女に嫌われたくないがために、そうやって同意します。『大人に、ならなきゃね』


 わかってくれた、と彼女は安堵したようでした。それを見て、私も同じように安心します。嘘だと見破られなかったことに、彼女に嫌われなかったことに。


 彼女が遠のいていきます。どんどんどんどん、私と距離ができていきます。私はそれを見守りながら、私も、とそろそろ歩きます。しかし、決して彼女には届きません。さっきまで一緒にいて、手を繋いでいたはずの彼女は、もう私のもとにはいません。


 わかりません。


 なぜこうなったのか、わかりません。


 何が悪かったのでしょうか。


 私が悪かったのでしょうか。


 ごめんなさい。


 ごめんなさい。


 謝るので、帰ってきてください。


 お願いだから。



****


 目が覚めました。いや、目が覚めたような気がしているだけでしょう。


 だって、隣に件の彼女がいるのですから。


 名前は、神前すみれちゃんと言います。私は、すみちゃん、と呼んでいました。


 …夢が続いています。


 辺りは高校の景色です。きっと、もしもすみちゃんと同じ学校だったら、と、そんな理想が見えているのでしょう。


 「……っ」


 静かに涙が出ます。本当に、こんな日が来たなら、来ていたなら、きっと私はあの日、死にたくはならなかったのでしょうね。


 なんて言うと、私が自殺したようにも聞こえます。


 「すみちゃん…」


 虚しいと分かっていても、我慢できずに、私は隣のすみちゃんに抱き付きました。暖かい。懐かしい。久しぶりです。すみちゃんに触れるのも、そもそも、人に抱き付くのが、久しぶりです。すみちゃんの他に、抱き付くほど仲が良い人もいませんし、私が抱き付いたら洒落になりません。


 「すみちゃん…ごめんね…ごめんなさい」


 私は何に謝っているのでしょうか。何が悪かったのでしょうか。それが解らずに謝ったりするから、いけなかったのでしょうね。


 それでも私には、これしかないのです。こんなことをするしか、私に残されている道はないのです。


 いえ、間違い。それすらも、もう残っていないのです。だから私は、さながらマスターベーションのように、自分の夢の中でそんな風に繰り返します。


 「ごめんなさい。ごめんなさい…すみちゃん…私、まだすみちゃんが好きで…ごめんなさい…私に付き合わせて、ごめん…。…ずっと、嫌だったの? あんなに笑ってくれたのに、あんなに触れ合ったのに…キスもしたのに。ずっと、嫌だった? ごめん。気付かなくて、ごめん。もう、そんなことしなくていいから、もう、恋人じゃなくていいから…戻ってきてください。お願い、だから。離れて行かないでください…!」


 こんなことを、別れ際に言えたなら、まだしも友達でいられたかもしれません。いや、事実上の疎遠だとしても、ずっと友達だよ、とか、そんなふうなことを言ってくれたかもしれません。


 別れを受け入れて、あんなに嬉しそうにされなくて済んだかもしれません


 「すみちゃん…! すみちゃん…す、み、ちゃん…!」


 何度も何度もその名前を呼びます。かつての恋人の名前を、夢の中で、繰り返します。ただの自慰行為です。分かっています。けれど、こんな夢を見れるのも、もう最後かもしれません。というか、最初で最後かもしれません。


 だって、別れを告げられたあの日から、ただの一度も、私はすみちゃんのことを夢に見ませんでしたから。


 抱きしめる力が強くなって行きます。すみちゃんの方も、私の頭を撫でてくれます。


 「…私は、すみちゃんではないですよ」


 そんな声を聞きました。私のすぐ上です。それに驚いて、ばっ、と体を離しました。


 「……」


 目に入るのは、待ち人の姿です。ここで再会を待ち望んでいた、あの子でした。


 「…寝ぼけてる?」


 目の前の女の子は、優しい微笑みをくれます。


 「えっと…」


 何と言ったらいいのでしょう。


 何と言い訳をしましょうか。いえ、今更遅いですか。


 散々泣いて、謝り倒した後ですから、誤魔化しようがありません。


 「ご、ごめんなさい…」

 「…なにが?」

 「き、きもちわるかったですよね。ごめん、寝ぼけてて、人違いで…ごめん、ごめんなさい…えっと…」

 「……」女の子は少し黙ってから、「そんなに謝らなくても大丈夫ですよ」そう言って、微笑みました。

 その表情を見て、私はほっとします。


 「どうして、そんなに泣いているのですか?」


 静かに、彼女は訊きます。私は言い訳を考えますが、嘘は思いつきません。なので、私は曖昧に濁すことにしました。


 「え、っと…怖い、夢を見たんです…」


 嘘では無いです。ほんとうのことです。


 怖い夢、を見たのです。


 「こんなところで眠るからですよ」


 彼女は優しさをもって言います。誤魔化せそうだ、と安堵しました。

 誰かに言いたい気もしましたが、言いふらすことでもないでしょう。言われたって、困ることでしょうから。


 「…暖かいから、つい」

 「まあ。ところで、今、何時か知ってますか?」

 「え、何時ですか? そうだ…ご、午後の授業は!?」

 「もうとっくに終わってます」

 「う…うわあ…サボっちゃった…」

 「やっちゃいましたね」女の子は両の手をピストルのようにして、私に向けます。

 「う、うう…」

 「でも大丈夫。今回は私も共犯です」

 「え」

 「昼休みに、今日はあなたが来ていないかと、ちょっと来てみたんです。…ここ最近、ずっと会えなかったから」

 「な、なるほど…」


 私は、この子にありがとうと言いたい、という理由がありましたが、この子には、私に何の用があったのでしょう。

 …もしかして、仲良くなりたい、とか?

 だったら素敵ですけれど…でも駄目ですよね。


 「そうしたら、あなたがここで眠っていたんです」

 「う、そ、そっか」

 「だから、お隣をいただいて、私もお昼寝と洒落こみました」

 「なぜそこで起こしてくれないんですかあ…」

 「寝顔が可愛くて」

 「か、かわ…」


 自慢じゃありませんが、格好いい、と言われることはよくありますが、可愛い、と言われたのは久しぶりのことでした。

 すみちゃんと一緒に映画に行って、私がボロ泣きした時に一度言われたきりです。

 すみちゃんは格好いい私が好きだったようなので、少し不本意でしたが、嬉しかったのを覚えています。

 まあ、そんな昔話はどうでも良いのですけれど。


 「…ねえ、もう一度訊くわね。言いたくなければ言わなくていいから」

 「?」

 「どうして、泣いていたんですか?」


 胃がきゅ、と締め上げられる感じがしました。胃液がすぐそこまで上ってきます。

 どうしよう、どうしよう、と必死で誤魔化しを考えます。


 「私は、誠実に聞いています」女の子は重ねて言いました。「…絶対に嗤ったりしませんから。話してくれませんか? あなたのことを、知りたいんです」


 彼女は私の手を握って、まっすぐに見据えます。今度は、どうして、と思います。


 何故この子が私に、こんなに優しくしてくれるのでしょうか。話した時間もごく僅かだし、お互いの基本的なプロフィールさえも把握していません。誕生日はいつなのでしょう、出身地は?


 名前は、なんと言うのでしょう。


 それすらも解りません。


 なのにどうして、私の弱い部分に触れようとするのでしょうか。


 やめてください。やめてください。


 優しく触れるのは、やめてください。


 こんな情けないやつに、優しくするのは、やめてください。


 「信用できませんか?」

 「一つだけ、教えてください」

 「…はい」

 「どうして、そんなに優しくするんですか…私とあなた、全然、親しくないのに、どうして?」

 「どうして、って…」彼女は逡巡したように目を泳がせてから、言います。「あなたが、好きだからですよ」

 「す、すきって…」

 「好きだから、もっと仲良くなりたいんです。…色んなことを、知りたいんです」

 「……」


 私は少し黙ります。何と言って良いのか、わからなかったからです。


 好きなんて、そんな言葉を言われたのはいつ以来でしょうか。ずっと前のことです。すみちゃんからも言われたことはありませんでしたから。


 だからか、わかりません。どうにも信じられないし、嘘くさいとしか思えませんでした。くだらない、とすら思います。まあ、そんなこと間違っても言えませんけれど。


 しかし、私の予想は当たっていると思います。こんなことを言っているこの子も、きっと私の話を聞いたら、好きなんて言えなくなります。私がここで待っていても、もう来てくれなくなるでしょう。


 でも、それで良いのです。もともと、そのつもりでしたから。


 「…最初に言っておきますね」私はそう、断ります。「友達を作りたいって言った、私の背中を押してくれて、どうもありがとうございました。それを言いたくて、今日、ここで待っていたんです」

 「…良いのに、そんなこと。でも良かったです。そのおかげで、再会できましたから」

 「そうね」


 私は言ってから、話し始めます。


****


 「…中学の時、すみれちゃんという女の子と付き合っていたんです。そうです。女の子です。ずっと、幼稚舎の時から大の仲良しで、ずっと大好きでした。え? ああ、学園ってやつです。幼稚舎があって、初等部があって、中等部があって、もちろん高等部も、大学も付いてます。お得です。まあ、私立ですし、それなりに賢い学校だったんですよ。そんなわけで、幼稚舎からずっと一緒でした。小学校の六年間も、八割くらい同じクラスになったりして、もう運命だねって、冗談で言い合っていましたけれど、私は本気で運命だと思いました。


 中学の話に戻ります。それはもちろん、すみれちゃんはクラスで友達を作りますし、私も新しいお友達が目新しくて、夢中でした。けれど、何かが足りない、と、一学期の終わりに気付いて、すみれちゃんと一緒にいる時間が格段に短くなったことに気付きました。私は、自分の中でのすみれちゃんの大きさに気付いたのです。


 夏休みは、積極的に一緒にいるようにして、まあ、お互いの友達付き合いで予定を合わせるのが大変でしたけれど、それでも、以前のように遊んだりできて、また親友に戻れた気持ちでした。


 けれど、それが終わると、また元通り。私たちはあまり一緒にいないようになりました。どうしても寂しいのです。すみれちゃんがいないと、どうしても張りが出ないのです。だから、特別になりたくて、ほかの友達なんか比べ物にならないくらい仲良くなりたくて、思い切って告白しました。ええ。愛の告白です。


 すみれちゃんは少し迷った風でしたけれど、オーケーしてくれました。というのも、その学園は女学校で、女の子同士のカップルは、珍しくはありましたけれど、無くはなかったのです。それが、幸いだったのか、それとも、運悪くだったのか、今となってはわかりませんが、そんな校風がすみれちゃんの抵抗を無くしてくれたのは事実です。


 そこからは楽しかったなあ。お互い好き同士だってわかって、安心した、というのもあって、すみれちゃんに対して少しだけ大胆になれました。ええ、き、キスも、しました。カップルが一緒に出掛けたら、そりゃあ、盛り上がって、そうなることもあります。至極当然です。…でも今思えば、キスしたかったのは、わたしだけだったようでした。だって、すみれちゃんからは一度もキスしてくれませんでしたから。


 そのあたりで、自分が男の人に興味がないことに気が付きました。街中でも、目が行くのはいつも女の人でした。大人へのあこがれがそうしているのかとも思いましたが、そうでは無いのです。顕著なのは、プールに行った時です。すみれちゃんの水着姿が、とても妖艶に見えたのです。それはもう、くらくらするくらいに。


 それから、不誠実な話ですけれど、他の女の人の水着姿にも、そんな風に感じました。だから、私は女の人の方が好きなんだろうな、と漠然と気付いたのでした。

 特に抵抗はありませんでした。前述の通りの校風でしたし、私には、すみれちゃんがいましたから。


 …すみれちゃんの様子がおかしくなったのは、中学三年生に上がったくらいからでした。いえ、実際には、当時の私はそんなすみれちゃんに気付いてすらいませんでした。何故でしょうね。すみれちゃんのことが好きだって言うのなら、それくらい気づけ、という話です。まあ、今更いっても仕方がありませんけれど。


 だから、今思うと、という話です。明らかに、私を避け始めたのです。放課後にデートをしようと誘っても、勉強があるから、と断られ、土日に誘っても、大体何かしら予定を入れていました。きっと受験勉強が忙しいのだろうなあ、と馬鹿みたいに思っていましたけれど、これは私を避ける口実ですね。実際に予定が入っていたとしても、だって、私が土日にデートに誘うことは、毎週のことでしたから。


 あとは、学校の男の先生と積極的に話しだした、という変化がありました。まあ、それだって受験勉強の一環、という見方もできますが、きっと、そのあたりから男の人に興味を持っていたのだと思います。


 ところで、私とすみれちゃんは別々の高校を目指していました。すみれちゃんは賢いのです。成績も良かったし。対して私は、ほどほどの成績を保っていた、一般的な生徒です。なので自然、すみれちゃんは、私なんかは考えられないほど学力水準が高い学校を目指していました。そんな違いも、私が変化に気付かなかった一因になっているのかもしれませんね。


 …結局、三年生になってからは、一度もデートができませんでした。誘い続けて、断られ続けたのです。まあ、仕方ないかな、と思っていました。お互い、勉強があるのは確かでしたし。


 あ、いえ、少し語弊がありますね。三月三一日までが中学生、というのなら、春休みの間はデートをしましたから。思えば、すみれちゃんはきっと、最後だと思って、私に付き合ってくれていたのでしょうね。


 ええ。そうです。つまりは、私とすみれちゃんの関係は春休みと共に終わりを告げたんです。春休みの間は、ほぼ毎日デートしていました。それは三月三十一日も例外ではありません。私たちの最後のデートでした。でも、私はそれを知りません

いつものようにデートして、いつものとおりの別れ際、次に会うのは高校生だね、なんてそんな暢気なことを言っていた私に、すみれちゃんは切り出しました。


 …すみれちゃんは、私とは真剣交際では無かったようです。遊びであり、暇つぶしであり、私との日々は現実ではなかったらしいです。もう高校生だから、現実を見なくちゃいけないし、遊びは終わらせなくてはいけない。大人にならなくてはいけないそうです。


 正直、何を言っているのかわかりませんでした。私にとっては、すみれちゃんとキスしたことは、まったくの現実でした。戯れのつもりもありません。本当に好きだったんです。


 …ええ。そうですよ。だから私は、入学式の日、死にたくて死にたくて堪りませんでした。いえ、失恋のショックというとそうなのかもしれませんが、それが本体ではないのです。


 別に、恋人を失ったから、世界に絶望したとか、そんなんじゃありません。


 ただ、恥ずかしかったのです。冗談を真に受けて、本当に好きになってしまった自分が。勝手に好きになったくせに、裏切られたような気分になっている自分が。それでもまだ、女の子が好きな自分が。恥ずかしくて恥ずかしくて、いなくなりたい気分だったんです。だって、とても自分本位じゃないですか。相手の気持ちも考えず、そんなに落ち込むなんて。それがとても、卑しく感じたんです。


 すみれちゃんのせいじゃありません。


 全部、冗談の通じない私がいけないんです」


****


 「……」


 女の子は、黙ってしまいました。思った通りです。こんな話、聞かされたって何と言っていいか分かりません。


 きっと何も言わないままで、この場を後にするのでしょう。


 ねらいどおりです。


 「…だから、冗談でもそんなことを言わない方が良いですよ。私みたいなやつが、本気にしたりしますからね」私は自嘲気味に言います。

 「…まず」女の子はそろそろ、と口を開きました。「話してくれて、ありがとう。辛い出来事だったでしょうに、誠実に答えてくれたことに感謝します」

 「いえ…」

 「その話を聞いても、私があなたを好きな気持ちは変わりませんから、安心してください」

 「……」


 正直、興味はありませんでした。どうせ明日にはもう会わない人です。仮にまた再会しても、その時はきっと避けてしまうに違いありません。


 「…まだ、信用できませんか」

 「……。あんな思いをするのは、もう嫌です」


 なおも私は、被害者面をして言います。


 「しません。させません。私だったら、あなたを悲しませるようなはことはしません」

 「…まだ言いますか」


 私は少しばかり反感を憶えます。それではまるで、すみれちゃんが悪いみたいな物言いではないですか。あの子は純粋だっただけですから。


 私に騙された、と言っても過言ではないのです。


 だから、すみれちゃんを責めるような言い方は好きじゃありません。


 「そんなことを言ってても、きっと明日には変わってますよ…ノリと勢いだけで発言するものじゃない」

 「明日も変わりませんし、しばらく変わりません。具体的には、あなたと会わずに二か月くらいすれば、風化しますか」

 「…白々しいんですよ。さっきの話で分かったでしょう? 私の好きは、女の子が女の子に向ける、友愛なんかとは違うんです。キスしたいんです、女の子と。…本当なら、セックスだってしたかったですし。叶いませんでしたけど」

 「…良いですよ。願ったり叶ったりです」

 「…じゃあ、やってみますか?」

 「…!」


 ついカッとなって、キスをしました。


 私は好きでもない相手にキスをしたんです。


 ここへきて、ようやく私は気付きます。


 ああ、誰でも良かったんだと。


 いえ、これまでもそう思っていましたけれど、心のどこかで、すみちゃんも悪い、と思っていました。


 しかし、これではっきり知覚します。


 私は女の子なら誰でも良いのでしょう。


 キスしてくれれば、私に付き合ってくれれば、友達以上の関係を持ってくれれば、本当にそれで良いのでしょう。


 「…っ、…っ」


 私は間隙なくキスをします。舌を入れてみました。こんなキスは私も初めてです。分かりません。これで合っているのかわかりません。


 息継ぎはどこでしましょうか。


 唾液は飲み込むべきでしょうか。


 …解りません。


 すみれちゃんとできなかったので、判りません。


 「…ふっ…ん…や…あ…」


 女の子は苦しそうにします。ごめんなさい。こんな自分勝手な私でごめんなさい。絶対にそんなこと口に出しませんけれど。


 私もそろそろ苦しくなってきました。


 このあと、きっと私は頬をはたかれ、最低、と言われ、この子は走って去っていくでしょう。


 それでいいのです。この子は私を嫌いになって、私は精神的に解放されます。


 もうこれ以上、自分を嫌いにならずに済むのです。


 「…っはあ…はあ…」


 私はキスをやめます。お互い息を荒くして、女の子は涙目でした。


 ごめんなさい。ごめんなさい、名前も知らない女の子。事故にでもあったと思って諦めてください。

 いえ、災害でしょうか、どちらかというと。


 「……」


 女の子は私を見つめます。それを見ている私も、また、彼女を見つめています。


 こうしてみると、すみちゃんに少し似ていると思いました。


 …いや、気のせいですね。ただのこじつけです。


 「…もう、良いでしょ」


 女の子は去る気配がありません。私をはたく気配もありません。気まずくなって、私はそう言って目を逸らし、こちらが去ろうと腰を上げます。すると女の子は、私の手を掴んで制しました。


 「待って。まだ終わってない」

 「もう…! なんなの!? 嫌だって言っているでしょ!? なんで…もう…しつこいよお…」

 「……」女の子は私を見据えて言います。「こっちが泣きたいんです。泣く準備もしてました。あなたをぶつ準備も。罵ることも考えてました。でも…あなたが泣いているから。全部できません」

 「……だって」


 頭を掠めました。キスをしている最中。


 この相手がすみちゃんで、合意の上で、幸せなキスだったらどんなに良いだろうと。それほどのハッピーエンドが他にあるだろうか、と。


 けれど現実は違います。実際は、相手は名前も知らない女の子で、私が無理やりキスをしたシチュエーションです。こんなことになったのは自分のせいなのに、ままならないなあ、と涙が出てしまったのでした。


 「…こんな結末、想像もしていなかったんです。私は普通に、高校になってもすみちゃんと一緒に色んな時間を過ごすんだと思っていましたし、ずっと一緒にいるんだと思っていたんです。それなのに、私は一人ぼっちで、こんなに嫌なやつになって、あなたまで巻き込んで、八つ当たりして…何も解決しないのに」

 「…結局、あなたが涙する理由は全部、すみれちゃんなんですね」


 女の子は寂しそうに言います。


 「……」

 「いいです。それでもいいです。ことあるごとにすみれちゃんを思いだして、泣いて、傷付いたらいいんだと思います、今は。…だから、私を使ってください。私で紛らわせてください。慰みに使ってください。それでも私は、あなたのそばにいたいし、いつか、『すみれちゃんが全部悪かった』と思って、自分を肯定できるようになるまで、絶対、離れて行きませんから、だから」


 だから、私の気持ちを受けて止めていただけませんか?


 女の子は私を見たまま言います。


 それから、私の手を引いて、私を抱きとめます。私は彼女の胸に顔を埋めました。ええ。埋められるほど大きいのです。私とは違って。

 彼女の動悸が伝わってきます。結構な早鐘でした。鈍感な私でも、緊張しているのだ、とすぐに気付きます。


 こんなにされて、私はすっかり、ほっといてください、と言う勇気がなくなってしまいました。激情に触れて怖くなったのもあるし、優しくされて嬉しくなったのもあります。

 でも、一番の理由は、良い匂いがしたことでした。

 私が好きだった誰かのような、でも、その子とは少し違う、甘い感じの匂い。安心する匂いです。


 「……」


 この子と付き合うには、私はあまりに酷すぎます。とても良い子なのです、この子は。


 「…ごめんなさい。あなたとお付き合いするわけにはいきません」


 私ははっきり言います。言いますよ、言う時は言います。まあ、胸に顔を埋めたままで、何を言っているんだ、という話ですけれど。


 「…そう、ですか。そうですよね」

 「でも、あの…とても勝手なことを言っているのは承知なんですが、その…」


 彼女は私の言葉を待ってくれています。私はそれに甘えて、少しの間黙ってから、続きを言います。


 「あの…明日も、この場所で待ってます」


****

 

 「本当に申し訳ありませんでした…!」


 私は精いっぱいの土下座を敢行します。それはそれは綺麗な土下座です。ええ、鏡の前でフォームを確認しながら、練習しましたから。土下座の魂は日本人に刷り込まれているためか、一朝一夕でも完璧な土下座ができてしまいます。これで切腹なんかすれば完璧なんですけれど、お命はご勘弁下せえお代官様、というわけで、切腹はしませんでした。私の臓物を見たところで、きっと気持ち悪いだけでしょうし。


 「…えっと」

 「すみませんでした!」

 「えー…どげざだよ…大丈夫かな」

 「何が…?」

 「頭大丈夫?」

 「怒ってらっしゃる…! 申し訳ございません!」

 「もっと、他に何か言うことがあるのでは?」

 「ごめんなさい!」

 「いや、そうではなく」

 「…慰謝料は、如何ほどがよろしいでしょうか」

 「そうじゃなくてね」彼女は困った風に説明します。「あの、待ってて、って言ったのは、私に土下座するためだったんですか?」

 「そればかりではないですが、そうだといっても過言ではないです」

 「つまり?」

 「いきなりキスなんかして、誠に申し訳ございませんでした」

 「あーっと…」彼女はなおも困った表情で首を傾げます。それから、少し顔を赤くしました。「キスとか…」そういって、顔を覆います。

 「ほんっとうに申し訳ございません。あの時は、私も錯乱していたといいましょうか…ついかっとなって…悪気があったわけでは無いのです。ただ、本当にキスした時に、自分がどんな気持ちになるか、思い知らせてやろう、と」

 「悪気じゃねえか」

 「ごめんなさい」私は再び、地面とごっつんこします。

 「…はあ」彼女はため息を吐いてから、言います。「その件に関しては、私にも非あります。あなたのせいだけではありません。というか、あなたのせいでは無いと思います。私がデリカシーに欠けていました。ごめんなさい」


 こんどは彼女の方が頭を下げます。しかし私は、顔を上げるわけにはいきません。うら若き少女の唇を奪ってしまい、その上、赤の他人と不純な口づけを強制的にさせられた彼女の気持ちを考えると、とてもじゃありませんが、私が被害者だ、とはいえません。


 「あ、でも勘違いなさらないでくださいね。だからと言って、あなたを許すわけではありません」

 「…言葉もございません」

 「ファーストキスをあんなふうに奪った責任は、重いです」

 「ふぁ、ファーストキスだって…!?」

 「…その年で、って思った?」

 「思ってないです。ただ、やってしまったなあ、という後悔の念が強くなっただけです」


 嘘です。本当は思いました。同学年なのか、それとも先輩なのかは知りませんけれど、どちらにせよ、遅すぎやしませんか、と思います。


 まあ、色恋の成熟度など、人それぞれですか。


 …しかし、それなら、本当に申し訳ないことをしてしまいました。この子はこれから先もしも、初キスはいつ、という話題になったら、高校の時に、女の子に強引にされました、と答えていかなければいけないのですか。

 まあ、その時には嘘を吐くのでしょうが、嘘を吐かなくてはいけないことが、申し訳ない。


 「だから、あなたには、それ相応の償いをしていただかないと、割に合わないと思うのです」

 「は、はい…」

 「私と付き合ってくれれば、ちゃらにしてあげます」

 「えー…」

 「だって考えてもみてください。キスされたという事実は、もう消えないのです。何をどう足掻いても、初キスで、あなたにディープキスをされたことはもう揺るぎのない事実です」

 「う、うぐう…!」

 「だから、あなたが知らない人だ、という方を変えるのは至極当然ではありません? あなたが恋人になってくれれば、名前も知らない女の子からキスをされた、という話が、恋人にキスをされた、というありふれたものになります」

 「……」


 揺らぎます。揺らぎますが、揺らぎません。確かに、責任の上ではこれが最適解なのかもしれないですけれど、しかし、私は精神的に駄目なのです。

 いつだって、頭の中にはすみちゃんがいるのですから。


 「…私は、やっぱり女の子と付き合うことができません。だから、誰とも付き合うことはできません。ごめんなさい」

 「で、でも…」

 「だから、少し待っていただけると嬉しいです。ごめんなさい、勝手なことを言って。でも、今はどうしても駄目なのです。私の中では、なにも解決していないんです…だから、まずは、友達として、私に付き合っていただけませんか?」


 本当は、これを言うために待ち合わせをしたのです。あ、いえ、土下座はするつもりでした。でしたよ、ええ。


 だけど昨日、惜しくなってしまったんです。こんなに想ってくれている人を前にして、嫌です、の一言でぶった切ってしまうのが。


 最低ですね。


 でもそれは今に始まったことでは無いような気がします。


 「…もし、私とお友達になってくれるなら、お名前を教えてください」


 私はドキドキしながら待ちます。

 次の恋にいってくれるのもよし、お友達として付き合ってくれるのもよし。実はこの二択は、私にとってはどちらも得があるのです。

 賢いでしょう? 狡いなんて言わないでください。


 「…あなたは本当に、ずるいですね」


 言われてしまいました。


 「…そんなことを言われたら、私が選ぶのは一つしかないじゃないですか」


 女の子は言ってから、名前をおしえてくれました。


 「藍と言います。藍色の藍です…これでお友達ですか、私たちは?」

 「上の名前は?」

 「教えません。下の名前で呼んでほしいので」

 「そ、そうですか…」

 「そうです」


 いいなあ、と思います。積極性は大事です。羨ましい。


 そして、ありがたい、と思いました。


 私は正座をやめて立ち上がります。そうすると、藍さんも不安そうな顔で立ち上がります。


 「…!」


 私は藍さんの手を取ると、ぎゅっと握って、微笑んで見せました。


 「明日もこの場所で会いましょう…藍さん」

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