いつまでもあなたの隣にいたい。【雫・美優】

 「ねー、みゆー」


 雫はリビングの大きめのテレビを観ながら私を呼んだ。もともとは、家族で見るために雫の両親が買ったものだが、今のところ雫と私がたまに見るだけにとどまっている。まあ、両親ともに帰ってくることが少ないので、当たり前といえば当たり前だが。


 週末の午後だった。雫は中学に入ってから、部活が忙しくてなかなか週末に家にいることはないので、結構レアである。先日恋人同士になったばかりというのもあって、二人きりのこの時間はやや緊張気味だった。


 普通だったら、こういう時仲の良い同級生と出かけたりするんだろうけれど、雫は誰とも遊ぶことは無い。それほど親しい人がいないからだ。私がいるから、それでも雫は平気そうだった。


 「美優ってさー、透明人間なわけ?」

 「ん、何それ」

 「いや、テレビで…ほら」


 そう言って、薄型テレビの液晶を指さす。


 画面ではイケメンがわちゃわちゃしていた。よくわからないが、バラエティ番組の企画で、イマジナリーフレンドに扮した彼が、少年に勇気を与えるというものだった。その中で、イマジナリ―フレンドを透明人間と表現している。


 つまり、私のような存在は透明人間という解釈らしい。


 間違ってはいないなあ、と他人事のように思った。


 企画では、当たり前ではあるが、れっきとした人間のアイドルが、周りの協力を得てその子にしか見えない透明人間であるかのようにふるまっていた。

 その子が透明人間に持ち上げられたりしても、勝手に浮き上がったという態で、場が進行している。


 「ねえ、美優も私を持ち上げたりできる?」

 「あー…」


 思えば、やったことが無かった。ものを持ち上げたり、消費したりすると、どうなるんだろ。


 「とりあえず…じゃあ、やってみる?」

 「興味ある」


 雫が目をキラキラさせている。可愛いなあ、と思うけれど、その一方でちょっと不安だった。


 私が雫以外の人から見えないということは、二人の間で共有していることだけれど、実際に物理法則から外れたことが起こると、いよいよ私の存在が嘘のようになってしまうからだ。

 それを見て、雫はどう思うんだろ。気持ち悪いとか思われたらヤダなあ。


 「…まあ、雫がやりたいなら」

 「なんか言った?」

 「いやいや」私は言ってから、「ちょっと寝てみ」

 「ん」雫は言って、仰向けに寝転んだ。

 「……」


 雫に密着して、いわゆるお姫様だっこをしようとする。なんか、すっごい恥ずかしいな。まずこの距離まで近づくのが照れ臭かった。自分の心臓の早さとか、雫の匂いとか、肌に触れたりすると、本当にドキドキする。


 誰にも見えない私を、雫は受け入れてくれて、今こうして話していることが、私にとってはうれしいことだ。

 雫にとってはどうなんだろうなあ。


 「え、えっと…」


 雫が戸惑いながら私の腕に体重をかけるようにした。私は床に腕を寝かせている。そこから、持ち上げようと力を込めた。


 「……違うんだよ雫」


 まったく上にいかなかった。どう力を込めても、まったくもち上がらない。雫が特別重いわけでは無い。どちらかといえば痩せ型で、標準体重より少し軽いくらいである。それにもかかわらず、持ち上がらないのは、私の筋力が著しく弱いか、あるいは持ち上があってはいけないからか。

 たぶん、後者だった。


 「なるほど、こんな感じか」

 「ごめんねえ、無理だった」

 「……」

 「どうした?」

 「こんな距離まで近づくのって、結構ドキドキするね」


 えへへ、と雫は笑う。まさに、私も思っていたことだった。


 「そういうの…ちょっとずるいよ…」


 私は弱々しくそう言った。顔が熱くて、紅潮していると分かった。うぇうぇ、とその体勢のまま変な声が出る。

 前を見ると、雫の顔がすぐ目の前にある。


 「……」

 「ど、どうしたの」


 戸惑った声を出す雫をよそに、私は自分の中で葛藤する。


 雫にキスがしたくなったのだ。このまえ、好きといわれた時、返事代わりに軽くキスをした。しかし、それ以降は一度もない。してもないし、してくれもしない。

 キスとか、本当に雫はしたかったのだろうか。私が勝手にやったけれど、雫としては、特別のキスをどう思ってるんだろう。いないはずの私なんかのキスを、雫は本当に受け入れてくれているのだろうか。


 そんな深刻な問題を抱える私をよそに、浮かれたその番組は進行していく。居間にはテレビの笑い声しかなかった。


 「美優…?」

 「ごめんね…雫」


 気付けば、そうやって謝っていた。雫にときめいたり悶々としたり謝ったり、短時間で大変だな、と自分でも思う。しかしこの感情の変化は、たった一つのことが原因で起こっているのだから、自然といえば自然だった。


 「…私があんな風に透明ってだけだったら、もっといろんなことが出来たかもしれないのに」


 私はテレビを指して言った。

 雫のことを持ち上げられない、とはつまり、他のものも動かせないし触れないということだ。普通だったら、雫の肌は私に触れられた箇所が少しへ混むはずだった。しかし、それも起きないということは、私は物体に干渉できない。雫だけのなかで成立している人ということだ。


 私が呼吸をしても微生物は死なないし、私が声を出しても空気が振動するわけでは無い。私が移動しても、運動エネルギーや位置エネルギーは変化しない。そもそも私は、そんなものを持っていない。


 雫の頭の中だけで生きている私は、この前雫が言われたみたいに、気持ち悪い存在なのかもしれない。そんなやつが雫の傍にいて、また雫を悲しませたりしないだろうか。


 にわかに不安になった。

 私がもしも、あんな風に透明ってだけの人なら、まだしも、他の人に触れて存在を証明できたのに。

 それもできないんじゃ、いけないよなあ。


 「…美優、どうして泣いてるの? 私を持ち上げられないって、そんなに悲しい事?」


 私は泣いているようだった。


 悲しかった。


 辛かった。


 悔しかった。


 愛おしかった。


 「泣かないで」雫はいつの間にか私の腕から離れて、私を抱きしめてくれる。


 こんなに優しい雫は、私と一緒にいるっていうそれだけで、周囲から罵倒を浴びせられるなんて、そんなのおかしい。

 

 「ごめんね、美優。私が変なこと言ったせいで」

 「しずくのせいじゃないよ、私が、勝手に泣いてるだけ、だから…」

 「そんな悲しいこと言わないでよ。勝手に泣いてるだけなんて、私だってここにいるんだよ?」

 「…でも、私はここにいない」

 「え?」

 「今ここには、しずくしかいない、のに」

 「……」

 「ごめん。ごめんね…いてあげられなくて。いなくてごめん」

 「…前、美優はいるって言ってくれたじゃない?」

 「…だ、だってその時は、雫が泣いてたから…元気づけなきゃと思って」

 「ふうん…美優はいたりいなかったりする子なの?」

 「え、えっと」

 「いま、私は美優を抱いているけれども、これ、じゃあ私は誰を抱いているんだろう」

 「それは…」

 「私は、美優を抱いてるよね」雫は優しい口調で言う。「私は自分を抱いてるわけじゃないし、空気を抱いてるわけでも無い。だって、明らかに肌触りが自分のじゃないし、ちゃんと美優の体温だって感じてる。美優の泣き声とか、ちゃんと聞いてるもん」

 「や…やめてよ…きかないで」

 「恥ずかしい?」

 「そ、そりゃまあ…」

 「…いないのに恥ずかしいって、それはおかしいよね」

 「……」

 「ちゅ」

 「…! な、なにを…!」


 雫は私の額にキスをした。柔らかさとか、息が伝わってきて、雫を肌で感じる。その感覚に心臓が弾んで、歓喜する。対照的に、心は素直じゃなくて、戸惑いが首をもたげた。


 「昔、美優がやってくれたみたいに、やってみた」にこりと笑って、雫が言う。「…私は別に、美優が他の人に触れなくてもいいって、思ってるよ」

 「え…」

 「だって、美優が私だけのものだって言うなら、それが良いじゃない。誰にかにとられる心配とかない、し…」自分で言ってて恥ずかしいな、と雫は続ける。「…私美優のこと大好きだからさ…私だけを見ててほしい、というか…何言ってんだ私」

 「え、えっと…それは」私は雫を見つめて言う。「あ、あの」

 「なんか、ごめんね…変なことしか言えなくて…」

 「そうじゃ、なくて、あの」

 「ん?」


 言葉にできないものが込み上げてきて、もう諦める。


 だから私は、雫にキスをしてみた。


 一瞬間、何も聞こえなくなる。テレビの音も、空調のうなりも、何も聞こえないし、何も見えない。私にあったのは雫の唇の感触と、雫に回した腕の震え、それから、雫に対する好きという気持ちだけだった。


 ずっとこの距離でいたかった。どろどろに解けて、雫と一体化できるくらい密着していたかったが、息苦しくなって、仕方なく離れた。


 そうすると、雫が頬を赤くして、戸惑った瞳をこちらへよこしていた。はあはあ、と浅い息をしている。


 「ご、ごめん」私はやっと冷静になって、慌てて謝った。

 「み、みゆ…」

 「いきなり、ごめん、変なことして…! ほんとに、ほんとごめん、ちょっとおかしくなって、ごめんね」


 嫌われないようにと矢継ぎ早に謝るが、普通に考えてもう遅い。


 「…なんで謝るの?」雫は優しい口調で言う。「私たち、恋人同士になったんでしょ?」

 「そ、そう、だけど…いきなりキスされるのって、嫌かな、って、おもって…」

 「まあ、ちょっとびっくりしたのは否めないけど」

 「うう…ごめん…」

 「美優になら、何されても嫌じゃないよ」

 「…雫がそう言うこというと、もっとすごいことしちゃうよ」

 「いいよ」

 「……まだしないけど」

 「チキった」

 「なんでそんなに余裕なの!」

 ふふ、と悪戯っぽく雫は笑う。「…まあ、そういうことだよ」

 「…?」

 「いや、なんか気にしてるみたいだったからさ。…私は、美優が誰にも見えなくても、私から見えてさえいれば、幸せなんだよ?」

 「…ほんと?」

 「ほんとほんと」

 「無理してない?」

 「無理してないよ」

 「…信じるからね」

 「いいよ」

 「喜ぶからね」

 「それは私も嬉しい」

 「…ぎゅー」私は腕に力を込めて、雫を思い切り抱擁する。それから、耳元で言う。「もう、大丈夫。ありがとう」

 「…うん」


 いつにも増して、雫のことが頼もしく見えた。昔は私が雫をなだめる役だった。雫の両親が帰ってこないことや、いつもひとりであることを同級生にからかわれたりした時、失敗をして先生に怒られた時、雫は涙を流して私に縋り、私は落ち着くまで傍にいる。そんな風な関係だったのに、いつの間にか逆転していた。いつからだろうと考えても、いまいちわからない。なんでだろう、と考えると、雫がそれだけ強くなっているのだと分かった。


 「…?」


 雫を見つめながら思う。顔立ちも、前より大人っぽくなっている気がする。口調も落ち着いて、成長しているのだなあ、と思う。

 私はどうだろう。

 私は、雫のように成長できているだろうか。雫の隣にいて良い人に、慣れているだろうか。


 「……美優はそのままでいいんだよ」

 「…!」


 そう言って、雫は頭を撫でる。まるで私の心はすべてお見通しであるかのように、雫は笑う。


 「ね?」

 「う、うん」


 テレビでは、少年にアイドルがネタばらしをしている。勇気をもって苦手を克服し、強くなった少年に、ほんとうは透明人間ではなく、人間である、と伝えて居る。

 そうして、アイドルは帰っていく。役目を終え、少年の元から去っていく。


 「……」


 私は、いつまで雫の隣にいれるのだろう。

 いつまで雫の隣にいて良いのだろう。


 「しずく、好き」

 「知ってる。私も美優が好き」

 「知ってる」


 そのとき雫は、悲しんでくれるだろうか。

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