彼女は何を見て居るか。【風香・春果】
それはもしかすると、一目惚れだったのかもしれない、と後になって思う。
私は恋なんてしたことが無いから、この感情がどういうものか、よくわからないのだ。相手は転校生で、同性で、今会ったばかりと言うよりは今目にしたばかりで、だから、本当に好きになったのかどうか定かじゃない。普通に前に出てきたから注目しているだけ、という気もする。
前方に出てきたから注目する、と言うのなら何も彼女に限った話ではない。例えば猛スピードで目の前を走り去る車について、多分私はそれを見えなくなるまで目で追うけれど、別に車やその車の運転手などに一目ぼれをしているわけでは無いのだ。
それに、注目しているので言うなら、このクラスのほとんどが彼女に目を向けている。朝のホームルーム、いつもと違う段取りで、満を持して彼女は紹介されて、しかもこんな中途半端な時期に転校してくるやつはどこのどいつだ、とみんな彼女に興味を持っている。
根拠もなければ確証もなく、だけれど確実に言えるのは私はその子に釘付けだということだ。
「…
綺麗な声で言った彼女は、綺麗なお辞儀をした。担任に自分の席を示されると、お礼を言ってからその席へまっすぐ歩いて行く。その歩き方はまるで飼い猫のように気品にあふれ、堂々たる姿だった。
ぼーっと彼女の方を見ている私と、その他大勢のクラスメイト。
彼女、白石風香は席に座りながらあたりのクラスメイトに挨拶している。私はその列の一番後ろの席に座しているからその恩恵は受けられなかった。
しかし。
ばち、と彼女と目が合った。
どどどどどうしよう、と私はどぎまぎするが、白石さんは落ち着いたものだった。
「……!」
にこり、と私に微笑んだ。
ような気がした。
希望的観測のような気がしなくもないけれど。
********
「やあやあやあやあ、どうもどうも」
「…やあやあ」
そんなうるさい挨拶をするのは、隣のクラスにいる私の友人だった。
しかしながら、隣のクラスまで私に会いに来るってのは、どうなのだろう。
「お…あれが噂の転校生さんか…」
「そ…白石風香、って名前ですって」
「ですって? え、今ですって、って言った?」
「うん、ですって…なんかおかしいか」
「いや別にいいのだけれど、普段と違う口調したら食いつくの、ない?」
「しらん…あんたはいつも決まりきった喋り方をするから」
「そうだね」夏希は言って、白石さんの方を見据える。「はあ…なるほど。事情がありそうだね」
「やめなよ…あんまり詮索なんかするもんじゃあない」
「…まあまあ」
白石さんは人に囲まれていた。マスコミの囲み取材を彷彿とさせる態で、割って入って今日はここまでです、とかやりたくなる。
「あれまあ…転校生の醍醐味だとはいえ、何を訊いていらっしゃるのだろうね、彼らは」
「え、夏希今、いらっしゃるって言った? ねえ今いらっしゃるって言った?」
「丁寧でしょ」
「あたかも気品のある貴婦人のような口調だね」
「気品ある貴婦人そのものなのだから」
私は夏希と話しながらも、本当は白石さんと話したいと思っていた。じゃあ、あの輪の中に入ればいいということだが、しかし、私がしたいのはそんな会話じゃない。あんなものは会話と言うより質疑応答だろう。
あれは対等じゃない。白石さんは座っていて、その他大勢は自らの席から移動して、しかも立って話している。白石さんも立てと言っているのではないけれど、あれじゃあ、まるで白石さんが地位のある人間で、他のクラスメイトが目下の人間であるかのように見える。
当人たちにそんなつもりは無いだろうし、知らない相手に対して質問をして知ろうとするのは当然のことなのだろうけれど、あれは私の思う会話では無い。
考え過ぎかもしれないけれど、私はそんな主従関係とか、力関係みたいなものを同級生同士の間で作ってしまうのが嫌いだった。なんで社会に出たら否応なしに出来るような関係性を学生の内から作らなければいけないのか。
まるで馬鹿みたいだ。
「…だからまあ、あんたとの関係は結構気に入ってんのよ」
「お…? どうしたの、いきなり。うれしいこと言ってくれるじゃん」
「いえいえ、何でもない」
つい心の声が漏れたけれど、だから、できることなら夏希と話しているみたいに白石さんと話したい。
いやまあ、夏希とは十年来の付き合いだから、いきなりこれ、というわけにはいかないのだろうが、せめてあんな会話はしたくないものだ。
「……」
夏希には詮索するなと言っておいてなんだけれど、確かに、白石さんがなぜこの時期に転校してきたのかは気になるところだった。親の転勤とかなのだろうけれど。
彼女のどこかつまらなそうな、寂し気な瞳が、何か深い事情があるのかもしれないと思わせるのだった。
*******
そんな白石さんだったが、結局、重役待遇だったのは初日だけで、だからまあ、私が話しかけるチャンスなんていくらでもあった。
というわけで話しかけると、なんてことない、普通に対応してくれた。基本的に腰が低くて、でも卑屈じゃなく、嬉しいことを言ってくれる普通の子だった。
普通の子、なのだけれど。
ただそれだけではないように私には見えた。後ろ暗い何かを持っているのか、それとも単に私と付き合うのが面倒だと感じているのか知らないけれど、とにかく時折表情が暗く落ち込むときがあるのだ。
どうしたの、と言えない自分が情けない。本当は私に打ち明けてほしいし、できれば解決してあげたいが、私と白石さんはどうしようもなくクラスメイトなのだ。それ以上の関係ではないし、これからなるかどうかと訊かれても微妙なところだ。
もっと仲良くなりたいと言えばいいのかもしれないが、引かれたりしたら元も子も失う。せっかくなら直截的な発言は避けたいところだけれど、しかし。
うーん。
「
「おおう」私は驚いてのけぞる。
「どうしたの?」
「あ、いや。驚いただけ。どうしたの、なんか用?」
「用が無いと話しかけちゃいけない?」
「あ…いや、そういうわけじゃない。ただ、白石さんの方から話しかけてくるの、珍しいと思って」
「そうでもないでしょ。…春果さん、こっちから話しかけないと話してくれないじゃん」
「え、そうなの?」
「そうだよ」
「…ごめん」
白石さんは少し黙ってから言う。「友達付き合いでは謝らない方がいいらしいよ」
その時の彼女はまた悲し気な、寂し気な表情をしていて、私は密かに胸を締め付ける。
「…ねえ、それ、好きなの?」
白石さんは私が手に持つ文庫本を指して言った。私の持っていたのは純文学小説だった。中学の時から好きで、その時はあまり学校で読まないようにしていたが、高校にもなると結構読んでる人が多かった。
しかし、なんとなく白石さんは読まないかな、と思っていたので興味を示したことが意外だった。
「まあ…目に付いたから買って、読んでみただけ。でも面白いね…作者買いしたくなる」
「そんなに…? 私、読んだことないんだよね。その作者の違うやつならあるけど」
「ほお」
「『風穴』ってやつ」
「ああ、映画化されたよね」
「そ…映画から入った口」
「メディアミックスは派生作品から入ると楽しめる、って聞いたことがある」
「…人によるね」
「駄目だった?」
「いや…映画見て、原作読んで、もっかい映画見たら、映画への愛が薄れた」
「それは残念だったね…」
「残念残念」
ははは、と白石さんは笑う。これほどに乾いた笑みがあるだろうか、と心の中で苦笑いした。
そういえば、と思いだした。
白石さんが誰かと話していて、本当に楽しそうにしているところを見たことがない。
誰といても何を話しても、こんなふうに乾いた笑みを浮かべているような気がした。いや、転校したてだからまだ距離を取りかねているだけかもしれないが、それ以前に、近付き過ぎないようにしているような気がするのだ。
まるで親しくなったら危ないと思っているかのように、白石さんは私たちから距離を取っているように感じる。
その色とりどりの表情も、その耳障りの良い言葉も、すべてが作り物のように思える。
本当のあなたを知りたい。
「ぷにぷに」
「…え?」
「ぷにぷに」
「いや、ちょ…」
「白石さんの肌綺麗ね。触り心地が良い」
「そう…?」
「うん。気持ちいい」
「それは…うん、ありがとう」
「ついでに髪も綺麗。キューティクルがはじけてる」
「はじける、って言うのはキューティクルに使う言葉なのかな…」
「何かこう…全体的に可愛いよね、白石さん」
「…かわいい」
「そう。なんというか、うん。どこからともなく可愛さがにじみ出ている。というか、なんというか、魅力的、というか」
「…私は言うほどかわいくないよ」
「そっかな」
「そんなことを言うのは、前に一人しかいなかったよ」
「一人いたんかい」
「うん…まあ、ね」
白石さんはまたしても寂し気な表情になる。この顔をする時はきっと、私が地雷を踏んでいるのだろうけれど、それが何なのか解らなかった。
というか。
「…ところで、白石さん」
「ん?」
「私はなんで、白石さんのほっぺを触っているんだろう」
本当に何故だろうか。いやまあ、解っている、出来心だ。あまりにも白石さんのほっぺが綺麗で、色も白いし、ちょっと触ってみたくなったのだ。
「…私に訊かれても、って感じ」
心底困った様子で白石さんは首を捻った。
「ご、ごめん…私何してんだ。なんか、いきなり顔とか触ってごめん、嫌だったよね」
私は慌てて手を引っ込めて、急いで謝罪する。これ、相当気持ち悪いよな。私だったら、もう関わらない部類の行動かもしれない。
「まあ、嫌じゃあなかったよ、びっくりしたけど」
しかし意外にも、風香さんは微笑んで許してくれた。
そうかそうか。そうかそうか。
じゃあ、そうだな。
「…じゃあ、これからも触って良い?」
「どんだけ私のほっぺ気に入ったの…?」
「いや、なんとなく。あ、あと欲を言えば髪ももっと触りたい」
「まあ…良いけどさ…」
白石さんは困惑した様子で頭を掻く。
少し崩れた表情が、なんとなく嬉しかった。
********
それからは結構、私から話すことが増えた。なにせ、話しかけてこないといわれてしまったのだから、自分から行くしかない。それに、その言葉は私から話して良い、ということにもなるから、前までより話しかけやすかった。
こんなふうにして白石さんと親しくなって、しかし、なんとなく一歩踏み込めていないような気がしていた。なにかが足りない、どこかが違う。
まあ、そんな曖昧なことだから、どこも違くないのかもしれない。本当はこれが普通の友達というやつで、夏希との関係が親しい間柄、というものなのかもしれないが、やはりどこか普通の友人とは一線を画す何かがあった。
悪い意味で、一線が引いてある。
「…二人一組になって、体操!」
体育教師は、熱血漢でなければいけないという採用基準でもあるのだろうか。そんなどうでも良いことを現実逃避みたいに思った。
要するに私は運動が苦手だった。
「……」
誰と組もうかしら、とあたりを見渡した。めぼしい女の子は何人かいる。一丁前に対人関係について一家言持っている私だが、これでも、友人関係では苦労しない性質なのだ。
当然ながらと言うべきか、白石さんが目にうつった。彼女も彼女で友人は多い方だが、誰と組むか迷っているようだった。
因みに私は、比較的親しくない方だ。一日のうちに一度話すか話さないかの間柄で、だからまあ、こんなふうに思っているのは私だけなのだろうな、と思うと、少し悲しくなる。
ばちこーん。
今の音は白石さんと目が合った衝撃である。おっおっ、と声にならない吃音が口の中に響いた。どうしようどうしよう。
「春果さん、一緒にくもー」
「…やったぜ」
棚から牡丹餅。僥倖僥倖。今日の私は結構ツイているみたいだった。
「いやー…組む人見つかんなくて。春果さんがいて良かった」
「…いや嘘吐けよ。結構仲良い子いるでしょうよ」
「まあ…じゃあ組みたい人が見つからなかった、と言おうかな」
「おおう…厳しいなおい」
「じゃあ、春果さんと組みたかったと言おうか」
「…おっふ」
嬉しかった。胸が高鳴るくらいには私はその言葉に心を動かされて、少し違和感を憶える。
あれ、と思う。
「…どうした、春果さん?」
「いや。私もそう思っていたところだよ」
私は正直に思ったことを伝えた。それによって顔が熱くなって、動悸が激しくなる。それから、こう思う。
こんな感情、伝わってしまわないだろうか。
我ながら思うのは、どんな感情だ、ということだった。白石さんに対して感じていることは、もっと仲良くなりたい、ということだから、別に自然なことのはずなのに、私は自分の思いが伝わることを恐れていた。
その、『仲良くなりたい』という想いが、とても不実であるような気がして。
「風香さんと組めて、うれしい」
「…し、下の名前。さらっと…わたし結構かかったのに」
「え? いやいや、あなたは初対面からまず私のことを三上ではなく春果って呼んでいるでしょう。…そんなの不公平だから、私も下の名前で呼ぶ」
「うん…うん。まあ、うん。ありがとう」
風香さんは眼を逸らしながら、照れたようにそう言った。その仕草にもやっぱり、惹かれるものがあった。
「じゃあ、体操はじめ!」
そんな号令がなると、風香さんと手をとっていろいろな姿勢で体をほぐした。その間中、私はどぎまぎしていて、心臓の音が伝わってしまわないだろうか、と不安になった。
「体固いなー、春果さん」
からかい交じりで風香さんは言う。
「風香さんが言えた立場じゃないと思う。あれは前屈じゃなくてただ座っただけでしょうよ」
「あれで限界なんだよー…」
「ちょちょちょちょ、痛い痛い痛い痛い」
「ははは、ごめんごめん」
「もー…」
そうやって笑い合うと、あたかも私たちが親しい二人の様だった。なんだか馬鹿みたいだなあ、と虚しくなる。それと同時に嬉しくなってしまう私は馬鹿そのものだった。
「…眠いよー」
「何、どうした?」
「いや…昨日、というか今日、夜中まで友達と話してたんだ…前の学校の」
そんな話をされて。
ちくちく。なんて、可愛いものじゃない。吐きそうなくらいのストレスを感じた。気管が抉れたかと思うほどの痛みが私を襲う。
「…へえ、そっか」
平静にしていられるほど生易しくはないが、何故か私は平気そうに頷いた。
「大事な友達なんだ…まあ、春果さんも結構大事な人だけれどね」
「お、おう…それは、光栄な…」
思わぬ伏兵のように、そんな甘言が私にボディーブロウを食らわせる。
大事な人。
大事な関係。
そう思ってくれているなら、私もそう思っていると、言って大丈夫だろうか。
いや、なんとなく、私の想いとは少しだけ違う気もするけれど、しかし、言葉の上だけでなら同じかもしれない。
同じだろう。
きっと同じだ。
「私も…私も、だよ」
「…ん、何が?」
「私も、風香さんのこと…」
なんで、こんなに言葉が出てこないんだ。人間関係のことなら、結構器用なはずなのに、私は風香さんに、あなたは大事な人だと言うことに酷く難儀している。
なんで、なんで、早く言え。
「はい、終わり! さっきの順に並んで!」
しているうちに、体育教師が無粋な言葉を吐きだす。くっそ、というのをすんでのところでせき止めた。
「…あらら。じゃあ、まあ、いこっか」
風香さんが言って、私は諦めて立ち上がった。
*********
「あ、そこの人、お願い」
なんて、片づけを押し付けられていた風香さんだった。
「はい!」
いやいや、なんでそんな快活な笑みで頷くのさ。そこは少しでも嫌がれよ。
そう思って見守っていたが、風香さんは誰に助けを求めるでもなく、黙々と片付けている。
おいおい。
ここは私も手伝っておくか、と呆れ半分に陸上で使ったハードルやらライン引きやらを倉庫へ運ぶ。
ハードルは奥の方にまとめて置くところがあった。
そこでばったり、風香さんと会ってしまう。これは決まりが悪い。
「手伝ってくれたんだ。ありがとう、春果さん」
「あ、う、うん…」
なんだろう、私は何か後ろめたいことをしているのだろうか。こんな挙動不審になるのは何故だ。
「…なんで一人で受けちゃうの?」
私はじと目で言う。
「いやあ…断れないタイプ、って言うと聞こえがいいかな。要するに、断るために当たり障りのない言葉を考えるのが面倒だったんだよね…。だから、受けた方が早いかなーって」
「そうじゃなくって、なんで一人でやるの、ってこと。誰かに手伝ってもらえば良かったのに」
「ああ…悪いかなって」
「悪くないよ。…悪いのは先生だから」
「そっかな…まあ、きっと、私は人を信頼していないのかもね」
そんな風に自己分析して、風香さんは少し俯いた。また私は地雷を踏んでしまっていることは解った。
というか、風香さん地雷原過ぎるだろ。こんなんでよくいっぱい知り合いが出来たものだ。
いや、こんなんって言い方もあれだけれど…。
困難で、って言い換えよう。
ずるずる、と重いものを引きづるような音を聴いて、私たちは振り返る。男子生徒二人が走り高跳びで使ったソフトマットを運んでいるところだった。
ああ、流石に風香さんだけに頼むのも無理があると気付いたのか、先生。
今ごろかよ。
心の中で毒づいた。
「あーっと、ここでおーけー?」
「おーけーおーけー」
軽薄な二人はそれを置いて、そそくさと体育倉庫を出る。
その二人が出るのを見届けて、私は言う。
「私たちも教室戻ろっか」
「うん」
風香さんが頷いた時だった。がががが、という鈍い音で、私は悟る。
どうやら、体育倉庫の扉が閉められようとしていたようだった。
「うわ、ちょちょちょっ」
そう言いながら体を伸ばしたが、上手く出られなかった。しているうちに彼らは扉を閉め切って、ついでに施錠した。
しやがった。
「…いやいやいやいや」
「これ、閉じ込められたの?」
風香さんは落ち着いたもので、いつもの口調でそんな風に首を傾げた。
なんでそんなに余裕なんだよ。
「うん…どうやらそうみたい。よいしょ」
私は何とか陸上用具の障害から抜け出し、扉の前に立つ。見たところ、内側からは錠を開けるようにはなっていないようで、錠らしきものは見当たらない。扉を開こうと横に引っ張ってみたが、当然ながらびくともしなかった。
しかしまあ、仮にこれで開いたら、正直この学校の築年数が気になる感じだ。その点で言うなら開かなくて良かった。
でも、あの二人は教室に帰ったらどつこう。関西人のごとくどつこう。
「開かない?」
どんどん、誰か開けてくださーい、の一連の流れを何度か繰り返したところで風香さんが尋ねる。
その仕草に少しの間夢中になってから、誤魔化す様に目を扉に遣った。
「開かないっぽい…」
「そっかー。仕方ないね」
言って風香さんはすべての元凶であるソフトマットに寝転んだ。まるで自分の家のベッドに寝転ぶかのような気安さで、ため息を吐く。
「なんか…落ち着いてんね」
「まあ、出られないなら慌てても仕方ないし…それに、次の授業化学でしょ? あんま好きじゃないんだよね」
あわよくばサボれないかなー、と風香さんは続けた。
「なんだそりゃ」
ずいぶんとまあ、不良っぽい台詞だ。普段の風香さんは真面目で清楚な感じだから、意外な言葉だった。
「こんなところで
「まあ…少し石灰とかで煙いけど、気になるほどではないかな」
「…そう」
ちょっと引いてしまった私を誰が責められることだろう。だって、こんな状況でこんな環境で、自宅にいるかのように落ち着くなんて、どうかしていると思ったって仕方あるまいよ。
まあ、自分自身が責めてきたので、これ以上は何も思わないことにするけれど。
抜けている、と言うよりは諦観が滲んでいる感じだ。
私は当分開かないであろう扉に
いや、それは少し違う。風香さんは天井を見つめていたから、向き合っているわけでは無い。一方的に私が風香さんを見て居る状態だ。
私は風香さんを見て居るけれど。
風香さんは何を見て居るのだろう。
しばらくお互い黙ったままで、少し空気が重い。いや、たぶんそう感じているのは私だけなのだろうけれど。
「…参ったなあ」
私はぽつりとつぶやいた。誰に向けるでもないその言葉は、薄暗い体育倉庫に響く。
「……」風香さんはしばらく何も喋らないままだったが、不意に呟いた。「こういう時間、なんか落ち着く」
「こういうって?」
「誰とも話さずにぼーっとしてる時間。懐かしい」
誰とも話さずにって、私と話しているじゃない。そう思ったけれど、話が進まないので言わずにおいた。
「懐かしい?」
「うん…私、今でこそ、そこそこクラスメイトと仲良くさせてもらっているけれど、前の学校では全然そんなことなかったんだ。私なんか、いるかいないか分からなくて、誰とも話さないでも平気で過ごしちゃうやつだった」
「へえ…それは確かに、意外だね」
「うん。家でも一人だったけど、今はお母さんがいてくれるし…なんか一気に会話する機会が増えて、正直戸惑っているんだ」
「……」
一人だったけど、今はお母さんがいる。どういう意味だろう。もしかして、風香さんは孤児で、ようやく引き取り手が見つかった、とかだろうか。あるいは、事情があって遠く離れて暮らしていた母親と、同居できることになった、とか。
まあ、ただのクラスメイトである私にそんな風香さんの裏側のようなものを深く掘り下げることはできないけれど。
「…人から興味を持たれるって、こんなにしんどいことだったんだね。知らなかった。加奈ちゃんはやっぱりすごいな」
「…加奈ちゃん?」
「あ…昔の、うん、友達だよ。…友達」
「そっか」
昔の友達、という風香さんの表情にはやはり引っかかるものがあって、そのあたりが風香さんの核心なのではないか、と勘ぐった。
直接尋ねるわけにはいかないから詳しくは解らない。けれど、もっと仲良くなったら、あるいは話してくれるときが来るのかもしれないな、と想像する。
「…その点で言うと、春果さんと二人きりっていうのは、やっぱり気楽だな」
「…ん? え、どういうこと?」
「だって、春果さん、明らかに私に興味持っていないもの。いや、他のクラスメイトがそんなに私に興味を持っているかって言うと、やっぱりそうでもないんだろうけれど、春果さんは特別な気がする。特別、私に興味がない」
「…そんなことないけれど?」
「そうなの? 私はてっきり、春果さんは私と関わりたくないのかと思っていたよ」
「……」
風香さんはどうやら、何かを勘違いしているようだった。確かに私は風香さんから意図的に目を逸らすこともあるけれど、それは興味のないことの表れではない。むしろその逆だから、あえて目を逸らす、ということなのだ。
「別にそんなことないけれど…」
「そうかな」
「そうだよ」
「転校生パワーが通じなかったから、てっきり」
「転校生パワーって…」
「転校生ってそれだけで学校生活に張りが出るうえ、高校の転校生はめずらしいでしょ?」
「はあ…それはあるけど…」
「だから、今の時期に知り合いを乱獲しておかないと、と思ったんだ。何人か親しくしていないと、なにかと不便だから。…でもなんか、春果さんは捕獲できなかったよ」
「……」
捕獲、されているのだけれど、たぶん。風香さんは、分かってくれていなかった。
なんか、寂しい。
「でもまあ、解る人には解っちゃうのかな」
「…なにが?」
「この前話した、『風穴』の話ではないけれど、私の好きはしょせんその程度なんだよ。好きになったものでも呆気なく冷めちゃうし、友達関係を作るうえでは、利害のことしか考えていない。…私はそんなやつなんだって、解る人には解るのかな、って」
私にはとても、そんな風には見えなかった。風香さんは誠実に友人と接していると思う。自分に興味がない、と思っている私とでさえ、こんなふうに話してくれているのだから、私なんかよりよっぽど良い娘だと思う。
「まあ…私は風香さんのこと好きだけどね」
「それはありがとう…でもまあ、私とはあまり関わらない方がいいかも。私はなんか、関わった人みんな不幸にしている気がする」
風香さんは切なそうな調子で言った。誰のことを、なんのことを考えて話しているのか知らないけれど、私はそんな彼女に少し反感を憶える。
私は、あなたと話していて結構幸せよ。
ってことは、じゃあ私は今、あなたとちゃんと関わっていないということになるの?
「私は別に、不幸になったって構わないよ」
私は言って、風香さんとの距離を詰めた。本当言うと、多分気持ち悪がられるからこんなこと言わずにおこうと思っていたし、せずにおこうと思っていたが、風香さんがあまりにも的外れなことを言うので私はもどかしさを通り越して、憤りすら感じていた。
あとは、体育倉庫なんておあつらえ向きというか、非日常的な場所の効果、というのもあるかもしれない。
だからちょっと、理性的になれなかったのだ。
「…ねえ、風香さん」
「…ん?」
「私がもし、あなたに夢中だって言ったら、どうする?」
「え…」
私はソフトマットの、風香さんの顔の横に手をついて、天井に向かう彼女と無理やり対面した。
風香さんの顔がよく見えて、ああ、やっぱり綺麗な顔をしているなあ、と思う。
「もし、私が風香さんのことが大好きで、今にもキスしてやりたいと思っていたら、どうする?」
私は言って、彼女の頬に手を添える。事前に許可を取っているので、躊躇なく顔を触った。
風香さんはびくりとして、私を見据える。
続けて、髪も触った。
「それは…」
風香さんは困惑した表情で、言葉に詰まった。何と言えば良いのか、うん、確かにわからないだろう。
私だって、なんでこんなことを言っているかわからない。だから、なんと返してほしいのか、自分でも解っていなかった。
手に負えない。
「キスして良い?」
私は風香さんの解答を待たずに、続けて言った。正直に言うなら、さっきは言ってみただけで別にキスしたいとか思っていなかった。しかし、この至近距離で風香さんを見て居ると、そんな魔が差したみたいな気分になった。
まさに魔性って感じだな、と思う。
責任を押し付けるかのようにそう思う。
「…キスしたいの?」
「まあ、ね」
「そっか…まあ、それならそれで。別に良いけれど」
「……」
何を思って、こんなことを言っているんだろうか。風香さんは、どこか気怠そうに目を瞑る。何かを思い出すかのように。あるいは、何かを諦めるかのように、そのまま眠りに就いてしまいそうな調子で、目を瞑る。
ここで、私が本当にキスをしてしまったら、風香さんとは何が始まるのだろう。普通だったら、恋人になって、交際が始まる。けれどこの時、そんな気はしなかった。私が今ここでキスをしてしまったら、たぶん終わりが始まる。風香さんとはもう一生話すことが無くなってしまうような気がした。
あと少し動くだけで私たちの唇が重なる距離まで、顔を持って行った。目を瞑る風香さんは、それでもやっぱり綺麗で、キスで目覚める姫のようだった。
でもたぶん、私は王子じゃない。王子はどこか他にいて、私はなれても、意地悪なお妃、というような気がした。
「……」黙って少し考えてから、心を決めた。「…ぷにぷにぷにぷに」
「おわ、ちょちょちょちょ、なにどうしたの」
急に高速で頬をぷにぷにされた風香さんは、驚いて目を見開いた。
「冗談だよ。しないよ、キスなんて」私は言って、そのまま横に身を遣って、風香さんの隣に寝転んだ。「風香さんが私を突き放すようなことを言うからいけない」
「突き放すって…まあ、そうかな」
「私は不幸になってでも、風香さんのそばにいるから」
「それはありがたいけれど…」
「それに、風香さんがそばにいる限り、多分私は不幸にならないよ」
だってあなたの顔を見れるだけで、私はこんなに嬉しいんだもの。
結構恥ずかしい台詞を自分の行動の照れ隠しに使った。
風香さんは黙ってから、私の方を向く。
「…ほんとにキスされるかと思って、焦った」
「嘘吐け…結構余裕そうだったけれど」
「そんなことないよ」
「…んー」
じゃあちょっと、本当にやってみようか。取り乱した風香さんを見てみたい。
私は隣の風香さんに近付いて、唇ではなく頬にキスをする。まあ、これくらいなら恋人同士で無くともやる人はいるだろう。
何も壊れない、と思う。
「…!」
小さく悲鳴を上げた風香さんは、みるみるうちに赤面していく。
「キ、キス、しないって…冗談って…」
「頬にキスなら挨拶みたいな物でしょ」
「そうだけど…ここ日本だよ」
「それは知ってる…でも私は、風香さんともっと仲良くなりたいもの。だからちょっと、ゼロ距離まで近寄ってみた…嫌だったなら謝るけれど」
「……。…嫌じゃあ、なかったけど」風香さんは尻すぼみで言ってから、「ごめんね、春果さん。…私ちょっと、人との距離を取りかねてて、あんなこと言ったんだけど、ほんとはもっと仲良くしたい。でも、私は良いやつじゃないから、私はたぶん関わった人を不幸にするから、だから」
「…あのね。不幸になったかどうかは、風香さんが決めることではないからね」私は説教を垂れるように、彼女に言った。「まあ、風香さんはこれまでの経験からそんなことを言っているのだろうけれど、私は絶対、不幸になんてならない。風香さんが私と仲良くしてくれている限り、私はたぶん幸せだよ」
「……」
「風香さんがこれまで誰を不幸にしてきたのかは知らないけれど、私が思うに、それは風香さんの思い過ごしじゃないかなと…」私は言いかけてから気付いた。「いや、ごめん。これは違った。分かったようなことを言うもんじゃないね…」
「いや…」風香さんは首を横に振る。「いや。確かに、本人に直接確かめたわけじゃないんだ。不幸になりましたか、って」
「でしょ」
内心では、そりゃそうだろ、と思った。面と向かって、私と関わって不幸になりましたか、っていう人がいたら見てみたい。
「もしかしたら、不幸になったのは私かもしれない。相手は案外、幸せになっているのかも」
「……」
「そうだったら…嬉しいな」
「嬉しいの?」
「うん。不幸になっているのがあの人じゃないなら、私はそれでいい、って思う」
あの人、なんて。
それは誰なのか知らないけれど、風香さんが誰のことを想って言っているのか知らないけれど、風香さんは本当に嬉しそうに笑う。
やっぱりその『あの人』が風香さんにとっての王子様なんだろうな、とそう思った。
********
「やあやあやあやあやあ、ちょっと久しぶりだね」
そんな大げさな挨拶をするのは、私の友人であるところの皆見夏希だった。喫茶店でそんな恥ずかしいことをよくもまあ出来るなあ、と呆れ半分に尊敬する。
「やあや、久しぶりだ」
「仕事は落ち着いた? なんか忙しそうにしていたけれど」
「ま…とりあえず波は過ぎたってとこ。こうして休日に休めるほどには落ち着いたかな」
「鬼だな…」
「鬼だねえ」
私たちはそんな風に会話を交わす。
まさか夏希と社会人になってまで会うことになるとは思わなかった。大学で一回離れたから、そのまま疎遠になってしまうだろうかと考えていたのだが…まあでも、連絡が来続けたからこその関係性という感じか。
私からは一切連絡をしなかったのは、少し申し訳ない気分で、だから、今日は私から会うことを取り付けたのだった。
「あっついねえ、今日も今日とて」
「そだね」
「…そういや、春果、一人暮らしするって言ってたけど、物件見つかった?」
「いや…それがなかなかいいとこなくてさ。…一人だからあまり広くなくて良いや、って思っていたのが敗因だったね。ちょっと広めならあるんだけれど、今時ワンルームはどこも埋まっちゃってるね」
「そっか…そうかそうか」
「…嬉しそうにしているのは何かな?」
「いや、他意はないよ」
夏希はにやけていた。誤魔化せていないぞ、と指摘すると、彼女は適当に謝る。
私は注文したコーヒーに口をつけながら、どうきりだすか考えていた。
さて何から話せばいいのやら、と悶々と考える。
「…白石風香」
夏希は不意に呟いて、責めるような視線を私によこした。
「…? どうした?」
「いや、いたでしょ、高二の途中で春果のクラスに転校してきた子」
「えーっと…ああ、いたねえ、そんな子」
名前を聞いてもすぐには思いだせなかったのは、まあ、もう何年も前のことなのだから仕方がないだろう
高三でもそういえば同じクラスになったが、大学で私は地元を出たから、風香さんとも結局道が違えたわけだ。
誰もいない土地に出たかった、と言うよりは、そこしか行けなかったという感じだ。
あの時私は、風香さんのことが結構好きだったからできれば同じ大学に行きたかったけれど、風香さんの頭が良くて、私には届かなかった。
「…春果あの頃、白石風香さんのことばっか追いかけてたなあ」
「んなこたあないけど。…まあ、気になってたのは確かだよね」
なんて、二人きりの体育倉庫でキスを迫っておいて何を言っているのだろう、という話ではある。
あの後、結局キスしちゃったんだったっけ。
憶えていないな。
そんな風に赤っ恥とも言える思い出を久々に引っ張りだしていると。
「…っ!」
噂をすれば影が差す。
喫茶店のガラス窓越しに、私は白石風香さんの姿を発見した。
爛々とした目をたたえて、知らない女性と二人で歩いていた。
「……」
影、とは言ったけれど。
当時の彼女に感じていた、後ろ暗い影はまったく感じられなかった。寧ろ彼女自身が光源のように、光り輝いているようで。
私はあんな彼女が見たくて、体育倉庫で迫ったのかな、と思う。
成長した彼女はいっそう色気を増して、魅力的な女性になっていた。綺麗になったと思うのは、あの頃には拝めなかった満面の笑みのおかげかもしれない。
相方の女性の腕に縋るように身を寄せていた。
この女性が、きっと風香さんにとっての王子様なのかなあ、と高校時代に思ったことへの解答を今更ながらに発見したようだった。
彼女が風香さんの本音を引きだして、私には出来なかったような近しい関係を築いたのだと思うと、なんとなく悔しかった。
しかし風香さんが笑っているところを見ると、幸せな気分になった。
そして、そっか、と思う。
私は王子様にはなれなかったけれど、あなたが幸せならば、それでいいのかもしれない。
風香さんが言っていたことが、今なら解る気がした。別に私が関与していなくても、あなたが幸せなら、と思うのだ。
「…お幸せに」
「え?」
「なんでもないよ」
私は一人で完結する。私の一目惚れを完結する。いや、これは一目惚れとか恋とか、そんな綺麗なものじゃないか。
『はしか』ということにしておこう。
いやまあ、体育倉庫でキスできなかった時、それはもう完結してあったのだ。
だから、これはエピローグだ。ひとしきり感動した後の、蛇足ながらのエピローグ。
だから私は、もう何も思わない。王子様になれなかった私は、かつての友達として彼女の行く末を祈った。
「……」
だから、私にはきっと、他に向かえるべき姫がいるのだろう。
今日こうやって喫茶店にいるのは、その目的があったからだった。
そう思いだして、目の前の夏希に向き合った。
夏希に好きだと告白されたのが先月のこと。私がそれに答えようと思ったのが先週の事。
ずいぶん待たせてしまったけれど、まあ、夏希は何年も待っていたんだし、何週かくらい返事が遅れたところで取り消しということにはならないだろう。
風香さんがあの女性を高校時代から待っていたように、私のことをずっと待ってくれていたのだ。
まあ、自分のことを王子様なんて言うのはちょっと恥ずかしいけれど。
「だから、だからさ…もしよかったら、一緒に住まない?」
目を逸らしながら、赤面しながら、かつて無いほどしおらしい夏希を見て、私は思う。
ずっと見逃してきたことは、きっと彼女のことだろう。
ずっと夏希と一緒にいて、でも私は鈍いから気付かなかったみたいだ。
ずっと一緒にいるということは、ずっと私を見てくれているということ。
ずっと私に連絡をくれていたということは、ずっと私に興味を持ってくれていたということ。
それは、どうやら、私が応えなければならない想いのようだった。
「いいね。そうしよう」
話半分に私は言う。
私が風香さんのことを考えているうちに、夏希は同居に際しての利点とか並びたてていたようだけれど、そんなもの、夏希と住む、というただそれだけで充分な気がした。
たぶん夏希がいれば何があっても大丈夫だろうと思う。
夏希が幸せになれば、私が不幸になっても構わない。
そう心から感じて、私の返答に喜ぶ彼女を愛おしく見守る。
「よろしくね、夏希…これからも、ずっとずっと」
「…! う、うん。こちらこそ、よろしく…!」
それは『はしか』なんて曖昧なものでは無く、確信のある愛のような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます