20歳 5

 三階まで上がる途中ですでにけたたましい音が漏れ出していた。別に悪いことをしているわけではないし、この騒音の中で足音なんて聞こえるはずもないのだが、無意識に忍び足になってしまうのはどうしてだろう? 


 音が漏れているのは調べた通り廊下の突き当たりの教室からだった。いつもは普通の授業に使われている教室なので特別な防音設備もなく、近づくにつれ爆音が鼓膜を震わす。ドアには窓がなく、中の様子は開けてみなければ窺うことが出来なかった。勝手に開けていいものなのか? だとしたらノックはするべきなのか? 私がドアの前で逡巡しているうちに莉奈が難なくドアノブを回した。


 収容人数五十人程度の、うちの大学では中規模の教室には十人の男女が長机や椅子に座ってそれぞれの楽器をかき鳴らしていた。耳が痛くなるような音の中、誰も私達の存在に気が付かない。無造作に横たわる床のコードを踏まないように中に入ると窓際の机に座り、楽器をいじる勇太の姿を見つけた。そして、隣でその様子を寄り添うように見つめる勇太の彼女の姿も。彼女は勇太と同じくらい明るい色のショートカットを頭のてっぺんで結んでいた。以前勇太と手を繋いで校内を歩いているのを見かけた時と同じだ。


「勇太!」

 隣に立っていた莉奈がアンプから出る轟音に負けじと全身の力を振り絞って彼を呼ぶ。彼女はいつも何の躊躇もなく勇太を呼びつける。私とは気負いが違うのだからと自分を納得させるが、本当はそんな莉奈が少しだけ羨ましかった。私にもいつか何の遠慮もためらいもなく彼の名を大声で呼べる日が来るのだろうか?


 莉奈の叫びが届いたのか、こちらに気付いた勇太が「お〜」と右手を上げる。突然の来訪者の存在にようやくみんなが気付き、一斉に音が止み、残響だけが耳に残った。いつもこんな環境にいたのでは声も大きくなるわけだ。勇太の変化に一つ合点がいった。

 ベースを座っていた机に置き、勇太が来た。


「久しぶりじゃん。成人式以来?」

「イエーイ!」

 妙なテンションの二人が謎のハイタッチを交わしている横で、なぜか勇太の後を付いて来た彼女と目が合った。すぐに莉奈もそれに気付き、「彼女?」と

白々しい笑顔で訊ねた。

「柏木朋美です。トモって呼んでね」

 遠くから見かけることは何度もあったが面と向かって会うのはこれが初めてだった。にもかかわらず語尾で首を横にかしげる仕草になぜか既視感を覚えた。記憶を辿るとすぐに誰に似ているのかを思い出すことが出来た。高校の時の勇太の彼女だ。


「外行こうか」

 勇太の提案で教室を出るとすぐさま音の洪水が再開された。私達はそのまま一階まで下り、エレベーターホールに備え付けられた自動販売機でジュースを買った。


「大丈夫なの? もうすぐ本番でしょ?」

 今さら莉奈が心配して言う。

「どこで何してても勇太はどうせ緊張するもんね」

 答えたのはなぜか一緒に付いて来ていた柏木さんだった。

「柏木さんも出るんですか?」

 莉奈が訊ねる。私は死んでも彼女のことを「トモ」などとは呼ばないと心に決めていたが、その思いは莉奈も同じだったのだろう。

「トモは出ないよ。トモはなんて言うか……マネージャーっていうか、マスコット的ゆるキャラだから」

 冗談なのか本気で言っているのか分からないが、私と莉奈はそれに対して愛想笑いさえしなかった。

「トモ、二人とも高校の同級生でこっちが増田莉奈、こっちが島崎琴乃」


 柏木さんに対する私達の不快感を察したのか勇太が話題を変えようと私達を柏木さんに紹介する。一応軽く会釈をしたが、別に覚えてもらわなくて結構、という気持ちが強い。


「へえ、仲良しなんだ。わざわざライブ観に来るなんて。羨ましい」

「私はここの大学だから。莉奈が遊びに来たついでに観るだけですよ」

 言い訳みたいだ、自分で言っててそう思った。

「そうなの? 何学部?」

「教育ですけど」

「一緒! そうなんだぁ、知らなかったぁ。篠田先生の授業取ってる?」

 柏木さんが独特とも言える甘ったるい声でオーバーなリアクションをしたが、もちろん私の方は彼女が同じ学部であることも同じ授業を取っていることも知っていた。篠田先生の講義は大教室で百人近くが受けているが、彼女の金髪を頭のてっぺんで結ぶヘアスタイルはその中でもよく目立つ。他にも二、三被っている授業があることを知っていたが、あえて言うことでもないので彼女の質問に黙って頷くだけに留めた。


「え、じゃあさ、じゃあさ、メアド交換しようよ。友達になりたい!」

 嬉しそうにポケットから取り出した携帯には本体の三倍くらいの重さがあるのではないかと思うくらいの量のストラップが付いていて、本体にもプリクラがびっしりと貼られていた。その中にはおそらく勇太と撮ったものもあるのだろう。


「赤外線出来る?」

 慣れた手つきで携帯を操作しながら画面から目を離さずに彼女が訊ねる。

「ごめん、今携帯持ってないや」

 模擬店に荷物ごと置いてきちゃった。と言い訳すると、

「そっか、じゃあまた今度ね。どうせ授業で会うし」

 そう言って彼女はあっけなく携帯を閉じてポケットに閉まったが無数のストラップは外にはみ出していた。


「そろそろ行かなきゃじゃない?」

 莉奈と話をしていた勇太の服の袖を引っ張りながら柏木さんが言う。エレベーターの向かいの壁掛け時計を振り返った勇太も「そうだな」と、残っていたジュースを一気に飲み干した。缶をゴミ箱に捨てつつエレベーターのボタンを押す。

「じゃ、また後で」

 エレベーターの中から手を振る勇太に私達は「頑張れよ」と声を揃える。

「恥じかかないように」という私の一言に勇太は「うるせえよ」と毒づいた。「クレープ食べに行きますね」という柏木さんは無視した。


 エレベーターの扉が閉まる瞬間まで手を振っていた柏木さんの姿が完全に消えるのを待って、私と莉奈は同時にベンチに腰を下ろした。

「何なのあの女?」

 溜め息まじりに莉奈が口火を切る。

「勇太って本当にああいうのが好きだよね」

「マジで、自分のこと名前で呼ぶ女は死ねばいい。口調もイライラするし、なんで初対面なのにタメ口なの?」

 莉奈は相当イライラしていたのか、足踏みが止まらない。


 私はポケットから携帯を取り出した。ストラップの一つも付いていない買ったままの姿のシンプルな携帯だ。ポケットにすっぽりと収まり何一つはみ出さない。柏木さんの携帯を見た時、馬鹿みたいだと思った反面少しくらい何か付けた方が可愛げがあるのかもしれないとも思った。私に足りないものの一つがなんとなく分かったような気がした。が、

「琴乃、いくら勇太を落としたいからってあんな風になっちゃ駄目だよ。友達やめるからね」

 そんな私の気持ちを見透かしたように莉奈が言う。なぜか無性に恥ずかしくなって携帯をしまった。でも、本当にそうなのだろうか? 好きな男を振り向かせるために自分を変えることは本当に恥じるべきことなのだろうか? プライドや信念を持った芯の強い女性は確かに格好いいと思う。でもそれが邪魔をして欲しいものが手に入れられないのであれば、私は愚かだと人に陰口を叩かれようが、軽蔑されようがそんな風にはなりたくない。確かに柏木さんのようにとまでは行き過ぎだが、文化祭の忙しい日々が落ち着いたら、可愛いストラップでも買いに行こう、そう思った。

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