20歳 4

 ただでさえ暑い日中にずっと鉄板の前にいると、さすがに流れる汗が絶えない。首に巻いたタオルで何度も額から吹き出る汗を拭っているうちに気合を入れた化粧もすっかり落ちてしまっていた。


 予想以上の客足だった。校門から近い場所だったことと、甘い物を出す店が意外に少なかったためか、長蛇とはいかないものの行列が出来ることもしばしばで、客が途絶えたわずかな隙に水分補給をするくらいしか休憩も取れなかった。


「あ〜シャワー浴びたい」

 私が何度目かの愚痴をこぼした時、ふと見た行列の中に知った顔があることに気付いた。


「あれ? 莉奈?」

 汗だくで働く私とは対照的に涼しげな顔で莉奈が手を振っていた。ノースリーブのワンピースはいつもパンツスタイルの彼女には珍しい。

 切りのいい所まで生地を焼き、ようやく当番を代わってもらって店の外に出ると、莉奈は向かいのベンチに一人座って当店名物の全部乗せスペシャルクレープを食べていた。


「校門に着いたら連絡してって言ったのに」

 莉奈の隣に腰を下ろす。癖のように首のタオルで額を拭った時にうっかりタオルを置いてくるのを忘れていたことに気付き、首から外し四つに折り畳んだ。


「早く着いちゃったからちょっとぶらぶらしようとしてたのよ。そしたら必死に働くキミの姿を見つけたから」

「マジで暑かったわ」

 私は手に持ったタオルで顔を扇いだ。まだ汗が引かない。


「ねえ、琴乃。とりあえず化粧直した方がいいんじゃない? 眉毛無くなってるよ」

 勇太のライブ見に行くんでしょ? と莉奈が本気で心配そうに言う。それを言い出したらシャワーだって浴びたいし、こんなに汗だくになると思っていなかったから着替えだって持ってきていない。今さら勇太がそんなことを気にするとも思えないが、不十分な格好で片想いの相手の前に出るのは普段の倍くらい勇気と覚悟がいる。


「私まだここでゆっくり食べてるからさ、ぱぱっと直してきなさいよ」

 小さな紙スプーンでクレープの中身をほじくる彼女の言葉を甘んじて受け入れ、化粧ポーチを取りにテントへ戻った。もちろん汗まみれのタオルを置いてくるのも忘れない。私は元々そんなにしっかり化粧をする方でもなかったので素早くファンデーションとチークを直し、眉毛を描いた。


「琴乃」

 急に名前を呼ばれ、鏡越しに後ろを確認するとにこにこ顔の明日香が立っていた。「はい、これ」と制汗剤を貸してくれた。

「頑張ってね」

 頭の横で小さく手を振る明日香にライブを観るだけだってば、といい聞かせながらも「ありがと」と銀のボトルを受け取った。


「お待たせしました」

 クレープを食べ終え、退屈そうにその包み紙を弄んでいた莉奈に私はわざと営業口調で言った。「どこ行く?」と文化祭のパンフレットを渡すと、「先にそれちょうだいよ」と笑いながら言われた。


「琴乃、お腹空いてるでしょ?」

 パンフレットをぱらぱらとめくりながら莉奈が訊ねる。言うまでもなく朝クレープを食べて以来ずっと働きっぱなしだった私のお腹は空っぽで今にも鳴り出しそうだった。

「でも私もうお腹いっぱいなんだよね」

 私が答えるのを待たずに莉奈がマイペースなセリフを吐く。名物全部乗せスペシャルクレープのボリュームを誰よりも知る私は苦笑いを浮かべることしか出来なかった。


 結局勇太のライブまで約一時間、私の空腹を満たしつつ校内をぶらぶらすることにした。

「どっかにいい男いないかな?」

 買ったばかりのたこ焼きを歩きながら頬張る私の横で突然莉奈が呟いた。

「あ〜ほれでワンヒーフ」

 熱々のたこ焼きが口に入ったままだった私は言葉にならないながらも納得していた。二ヶ月前に彼氏と別れたという莉奈は最近それが口癖のようになっていた。女子大に通う彼女は身近な所での出会いがないらしく、勇太以外も色んな男を見といた方がいいという口実で私もよく合コンに誘われていた。


 高校時代の文化祭でも「他校の男子がたくさん来る文化祭は大掛かりな合コンみたいなものだ」という名言を残し、人一倍気合いを入れていた彼女が、共学の文化祭に気合いを入れずに来るわけがなかった。私に連絡せずに模擬店まで一人で来たのも、ベンチで一人クレープを食べながら待っていたのも彼女なりのナンパ待ちだったのだろう。


「勇太一筋の琴乃に言ったって仕方ないか」

 と馬鹿にしたように言う莉奈に返す言葉もなかった。大学三年にもなって私の男友達は片手で数えられる程度しかいない。


「仕方ない」

 溜め息まじりにそう呟く彼女が時計を見て薄ら笑いを浮かべたのに気付き、とっさに嫌な予感が私の胸を駆け抜けた。莉奈のこの顔は私にとって良くないことを考えている時のものだというのを長い付き合いの中で熟知していたから。


「敵情視察に行こうか」

「……?」

 突然の莉奈の提案を私の頭は消化することが出来ず、「テキジョウシサツ」という単語が漢字に変換されないままふわふわと宙に浮かんでいた。

「勇太の彼女、見に行こうか」

 小悪魔のような微笑みで言い換えられた莉奈の言葉にようやく漢字変換がなされ、やっぱり嫌な予感は当たる、そう思って溜め息が出た。


 勇太の所属するバンドサークルが使っている教室は、パンフレットで調べたところ八号棟の三階、一番奥にあるらしかった。全く気の進まない私に対し、莉奈は意気揚々と階段を上って行く。「嫌なら琴乃は来なくていいよ、一人でも行けるから」と彼女は言うが、そういうわけにもいかず、重い足取りで彼女の後ろをついて行った。

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