18歳 5

 卒業式が終わった教室にはまだ半分くらいの生徒たちが残っていて、高校生活最後の瞬間を少しでも噛み締めようと必死に騒いだり、涙を溜めながら話をしたり、写真を撮り合ったりと、混沌としていた。だから友達と卒業アルバムの寄せ書き交換を一通り済ませた私が教室の中に勇太の姿と彼の荷物がないことに気付くのが遅れたのも無理のないことだった。

 

焦った私は莉奈に助けを求めたが、彼女も勇太の所在は知らないらしく、申し訳なさそうに首を横に振る。

「琴乃、写真撮ろ?」

 びっしりとプリクラの貼られたデジカメを持った友達が声を掛けてきたが、今の私はそれどころではなかった。

「ごめん、私やらなきゃいけないことがあるから」

 早口にそう告げると同時に机にかかっていたバッグとコートを手に取った。


「もう帰るの?」

 と、怪訝そうな友人達の中で莉奈だけは笑顔と、小さなガッツポーズを見せてくれた。

「ありがと、莉奈」そう心の中で感謝しながら私は教室を駆け出た。転びそうになりながら階段を駆け下り、真っ直ぐに下駄箱を目指す。息を切らしながら勇太の下駄箱をしゃがみ込んで覗くと、まだ彼の汚いスニーカーが入っていて、校内にいることだけは確認出来た。

 

部活もやっていなかった勇太がどこに寄り道しているのか? 乱れた呼吸を整えながら考えても答えは出なかったので、とりあえず当てもなく探し回る覚悟を決めて立ち上がった。下駄箱前の長い廊下では、卒業生に花束を渡しながら別れを惜しむ在校生や、ここでも写真を撮り合う人々でごった返していた。

 

そうだ、携帯! 携帯で写真を撮る姿を見て、私はようやくその存在を思い出した。急いでバッグから携帯を取り出し、忙しい指で勇太に電話をかけるがコールすることもなく留守番電話サービスに繋がった。

「電源入れとけよ……」

 悪態をつきながら今度は莉奈に電話をかける。こちらはすぐに繋がった。

「もしもし、琴乃? どうした?」

「あのね、一生のお願いがあるんだけど聞いてくれる?」

「なに?」

「勇太携帯が繋がらないのよ。私校内で勇太探すから、行き違いにならないように下駄箱で見張っててくれない?」

「え、私卒業式にそんな地味な仕事するの?」

「お願い! 莉奈にしか頼めないの」

 見えもしないのに私は大きく頭を下げていた。それを察したのか、電話越しに微かな溜め息が聞こえた。

「フルーツ全部乗せスペシャルパフェ、奢ってよね」

「大盛りで奢るわよ」

 

携帯をしまいながら私はとりあえず走り出していた。廊下の人混みをかき分け、もう一度三年の教室の方を探してみることにした。


「島崎先輩!」

 階段を数段上った所で、背後から私を呼ぶ声がした。随分久しぶりに聞く声だったが、その声の主を忘れるわけがなかった。

「先輩、もしかして勇太先輩のこと探してますかぁ?」

 振り返った私にそう言ったのは、相変わらず可愛らしいツインテールをなびかせる渡辺さんだった。校内で見かけることはあってもお互い声を掛けたりすることもなかったので、その笑顔を正面から見るのはあの夏の日以来だった。噂では今はサッカー部の二年生と付き合っているらしい。

「どこにいるか知ってるの?」

 彼女のことは相変わらず好きではなかったが、今は文字通り藁にもすがりたい思いだったので、上りかけた階段を駆け下り、彼女の両肩を掴んだ。

「必死ですねぇ。あたし好きですよ、恋に必死になる女って」

「教えてくれるの? くれないの?」

「もちろん教えてあげますよぉ。前にあたし言いましたよね? 応援してますって」

相変わらずの完璧な笑顔を保ちながら、彼女は新校舎の方を指差した。

「ちょっと前に美術室の方で見ましたよ。二階の渡り廊下から回って行けば途中で会えるんじゃないですか」

 

なんで美術室に? とは思ったが、彼女が嘘をついているようには見えなかったし、嘘をつく理由もないはずだ。ありがとう、とお礼を言って彼女に背を向け再び階段を上り、踊り場で一度振り返った。

「頑張って下さいね、先輩。女は度胸ですよ」

「ありがと、渡辺さん」

 彼女の笑顔に私も笑顔で返した。以前は死んでも出来なかったであろうことだが、時の流れはこともなく人を変える。

 

もう半分の階段を上りきり、人気の少ない渡り廊下の方へ走った。ここは下の階とは比べ物にならないくらいがらりとしていて静かだった。こんな日に特殊教室しかない新校舎に用事のある者などほとんどいないのだろう。

 

渡り廊下のちょうど真ん中で私は足を止めた。思い出したからだ。ここが私と勇太が初めて会話を交わした場所だったことを。ここだ、多分。私は壁に寄りかかりながら思った。多分ここが私の高校生活の終着地点だ。何の根拠もないただの思いつきだったが私はそれに身を任せることを決めた。

 

窓が多いせいか、人気が少ないせいなのか、ここは他よりも少し肌寒く、ブレザーのポケットに手を入れ、体を揺すって暖めながら勇太を待った。もしここで会えなければそれまでだ、などと若気の至りとしか思えないような勝手な覚悟を決め、下駄箱で待機してくれているであろう莉奈にメールをしようとバッグを開けた時、新校舎の方から足音が聞こえた。


「あれ? 琴乃?」

 角を曲がってすぐに私を見つけた勇太がどんな顔をしていたのか、下を向いていた私には分からなかったが、その声には確かに驚きが混ざっていた。。

「携帯の電源くらい入れといてよ」

「電池切れたんだよ、写メ撮りすぎて」

 俯いている私が怒っているように見えるのか、勇太は申し訳なさそうにそう言いながら私に近寄ってきた。

「何してたの? こんな所で」

「だから、写メ撮ってたんだって。校内出来るだけ色んな所撮っとこうと思って」

「そういうのって普通のカメラでやるもんじゃないの?」

「だって俺カメラ持ってないし。琴乃こそこんな所で何してんだよ?」

「分かんないの?」

 

私が訊ねるとしばらく沈黙が訪れた。少しだけ顔を上げて彼の様子を窺うと唇を尖らせて、右上空を見ていた。本気で何かを考えている時の彼の癖だった。

「もしかして俺のこと待ってた?」

 短い沈黙を破って勇太が言った。この男は基本的に単純かつ鈍感なくせに時々、本当に時々妙な角度から核心を突いてきたりする。笑いながら言っていたのでどうせ冗談のつもりなのだろうが、こっちは冗談で終わらせるつもりはなかった。


「そんなわけないじゃん。バカじゃないの? ……とでも言うと思った?」

 極度の緊張でずっと俯いていた私はようやく勇太の顔をしっかり見ることが出来た。その表情が真剣そのものだったからだろう、へらへらしていた勇太の顔が驚いたように一瞬止まった。

「勇太を待ってたの」

 静かな渡り廊下に私の心臓の音だけが響いていた。何度も何度もイメージトレーニングしてきたのに緊張のあまり立っているのがやっとで、次の言葉が出てこない。実際には数秒間の沈黙だったのだろうが私には数時間にも感じられた。


「あのさ……」

 重々しい沈黙に耐えきれなくなったのは勇太の方が先だったらしく、彼が気まずそうに口を開いた。

「第二ボタンが欲しいとか?」

 勇太とは長い付き合いだったが初めて見るような真剣で強ばった表情だった。私の緊張が移ったのか、彼も緊張しているのか、多分冗談で言っているのだろうがそれも恐る恐るという口調だった。


「……らない」

「ん?」

 私の声が掠れて聞き取れなかったようで、勇太は一歩近づいて聞き返してきた。

「いらない」

 勇太がもう一歩近づく。

「第二ボタンなんていらない」

「……ごめん、怒った?」

 私の声が急に小さく、素っ気なくなったので勇太は私が怒っているのだと勘違いしているらしく、柄にもなくしおらしく訊ねてきた。心配そうに私の顔を覗き込んで来る。私は首を振った。


「第二ボタンはいらない。そのかわり、十秒だけ目を閉じて」

「なんで? 俺殴られるの?」

「殴らないから、十秒だけ」

 勇太は大分迷っていたが、やがて覚悟を決めたようにぎゅっと目を閉じた。まだ私にビンタされるとでも思っていたのだろう、歯も食いしばっているように見えた。

 そんな彼の疑惑を晴らすべく私は彼の顔に近づく。迷っている暇なんてあと六秒しかなかった。



 十八歳だった私はまだ知らなかった。その瞬間に後悔しないためにしたキスが、この先ずっと続く後悔を生むことになるということを。

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