18歳 4
「なんで?」
本当はすぐにでもその一段高い場所から引きずり降ろして、胸ぐらを掴んで、その得意げな笑顔を消してやりたかったが、その思いの全てをその一言に込めた。彼女がうかつにも振り返るようなことがあれば涼しげな笑顔も凍り付くくらいに、その時の私は怒りに満ちた顔をしていたに違いない。
しかし、残念ながら彼女にその念力は通じなかったようだ。
「だってやっぱり高校入ったら彼氏くらい欲しいじゃないですかぁ?」
前を行く彼女の表情は見えなかったが、変わらない軽やかな足取りのまま、彼女は話し出した。
「仲良しグループの中で誰が一番早く彼氏を作れるか競争しようみたいな話になったんですよ。あたしってこう見えても結構負けず嫌いなんですよぉ。だから手っ取り早く彼氏を作ろうと思って……」
「なんで勇太なの? そんな理由なら他の誰でもいいじゃない」
むきになって彼女の話を遮ると、彼女が振り返った。ようやく本性が出てきましたね、と言わんばかりだ。
「あたし、元々そんなに長く付き合うつもりじゃなかったんですよ。同じクラスの男子とかだとその後気まずくなったり、変な噂立てられても嫌じゃないですかぁ? 後々汚点になったりするかもしれないしぃ、でも三年生だったらすぐ卒業だから後腐れもないじゃないですかぁ。同じ委員会の三年生で勇太先輩が一番優しくて格好良かったからこの人でいいかなぁって。……あれ? 先輩?」
話の途中で呆れて脱力感のあまりその場に立ち尽くした私に、縁石が途切れた所でようやく彼女が気付き、引き返してきた。俯く私の顔を覗き込む彼女の仕草は演技ではなく本当に心配しているように見えたが、私にはもはやそれさえも不快に感じられた。
笑顔の消えた渡辺さんを無視し、私は勝手に歩き出した。彼女がそれについて来る。それまでと逆の立ち位置で私達はしばらく無言で歩いた。
自転車に乗った小学生の一団が私達を追い越して行く。買い物袋を下げた主婦がすれ違う。私が放心状態でいる間にも確実に駅へと近づいていた。
「せめて……」
駅へと続く階段を半分上がった所で私は足を止めた。一度も顔を上げず無言でここまで歩いてきたのだが、彼女が同じように無言で私のすぐ後ろをついてきたのはその足音で分かってた。多分、突然立ち止まった私に驚いているだろうが、私の呟きに「なんですか?」と、聞き返してきた。
「せめて、勇太を傷つけないで」
私は振り返らずにそう告げた。間もなく電車が駅に着くのだろう。足早に階段を上ろうとする女性が階段の真ん中で立ち止まる私達を迷惑そうに避けて行く。返事が返ってこないのにしびれを切らして振り返ると、笑顔の彼女が私の二段下に立っていた。
「もちろん。自然に綺麗に別れますよ」
首を横に傾けながらにっこりと微笑むその仕草は、教科書に載せたいくらいの完璧な笑顔で、私からすればやはり悪魔じみていた。大半の男はこの笑顔に騙されてしまうのだろう。勇太がそうならないことを祈るばかりだ。
「頑張って下さいね、先輩」
「何を?」
「あたし達が別れたら今度は先輩の番じゃないですかぁ。あたし、応援してますから」
「余計なお世話よ」
私は心の中で中指を立てながら、完璧な笑顔に別れを告げた。
渡辺さんがその日私に話した通り、一学期の終業式の前日に勇太は彼女に振られたらしい。明日から夏休みということで浮かれ気味に登校する生徒達に交じって、彼だけは、彼の背中だけは完全に落ち込んでいた。やはり私はその背中に声を掛けることは出来ず、それまで通り気付かれないように彼の後ろをついて行くだけだった。
落ち込んだ勇太の後ろ姿を見ているとなぜだか私まで気が落ちてくる。教室に着いても私の漠然とした憂鬱は晴れず、知らず知らずのうちに溜め息がこぼれた。勇太の方を盗み見ると、彼もまた同じように肩を落として席に座っていた。時折彼の友人が声を掛けているようだが、どことなく上の空に見える。
「おはよう、上の空女子」
突然莉奈に背中を叩かれ我に返った。上の空だったのは私も同じだったらしい。私の真後ろの席に座った莉奈は気持ち悪いくらいの笑顔で私の耳元に口を近づけてきた。
「勇太、彼女と別れたらしいじゃん」
莉奈のささやきに私は目を丸くする。私ですら昨晩日付が変わる頃に来た勇太からのメールで知ったというのに、情報通を自称する莉奈とは言えあまりにも情報が早すぎる。
「なんで知ってるの?」
「えへへ」
私が驚いたのがよほど嬉しかったのか、莉奈は声を出して笑った。
「やっぱりそうなんだ。なんか二人して暗い顔して、それを隠そうとしてるのがバレバレだから、もしやと思ってカマ掛けてみたんだよね」
恐るべきは女の勘、ということを私はこの時改めて知った。
「チャンスだよ、琴乃ちゃん! この世で弱ってる男ほど落としやすいものはないよ!」
莉奈がなぜそんなに興奮しているのか不明だったが、私の手を握る彼女よりも、この会話を勇太に聞かれてはいないだろうかということの方が気になっていた私は無意識に勇太の方を見てしまう。彼は友人と雑誌を見ながら談笑している所だった。
「チャンスだっていうのは分かってるんだけどね、なんかそんな気分じゃないんだよね」
こちらの会話に全く気が付いていないことを確認し、私達はお互いの顔を近づけて話し込む態勢に入った。
「感情移入し過ぎじゃない? 勇太のピンチは琴乃のチャンスなんだよ?」
「分かってるよそんなの。でも、仕方ないじゃない」
そう、自分でもこれがチャンスだということくらい分かっていた。なのにどうして私の理性と本能は一致しないのだろう? ずっと待っていたチャンスなのに、誰がどう見ても千載一遇のチャンスなのに、私はそれを素直に喜ぶことが出来ずにいた。莉奈の言う通り感情移入し過ぎなのかもしれない。それともただ単にこのチャンスを生かす勇気がないだけかもしれない。二年以上も一緒にいたのだからもちろん告白する、告白すべきタイミングだって何回もあった。しかしながらそれを素通りしてきたのはひとえに私の意気地のなさに起因していた。
「またスルーするの?」
私の心の中を読んでいたかのような莉奈の言葉に私は答えられなかった。その問いは私自身が昨日の夜から自分に問いかけ続け、いまだに答えの出ない質問だったから。
「スルーっていうか、弱ってる所につけ込むのはなんかフェアじゃない気がして……」
というのはもちろんただの言い訳だ。
「あのね、琴乃」
はっきりしない私の態度に業を煮やしたのか珍しく莉奈が真顔になった。
「恋愛っていうのはスポーツじゃないんだから、フェアプレイを心掛けたって誰も拍手なんて送ってくれないんだよ?」
「私は……」
もう一度勇太の方を確認してから続けた。
「私は誰かに拍手をしてもらいたくて恋愛してるんじゃないよ。本当に好きだから、正攻法で行きたいの。心配しなくても卒業までにはちゃんと告白するから」
「告白する気あるんだ」
疑うような目で私を見ながら莉奈が言った。これまでの私を知っているのだから無理もない。
「当たり前でしょ?」
「じゃあこれ以上何も言わない。温かく見守ってやろうじゃない」
「まあ、頑張るわよ。全力で」
私の言葉に莉奈は満足そうに頷き、「約束だよ」と拳を差し出した。私がそれに自分の拳をぶつけた所でチャイムが鳴り、それと同時に担任が教室に入ってきた。
勇太はすぐ近くでそんな誓いが成されていることなど知る由もなく、一学期最後のホームルームを物憂げに窓の外を眺めながら過ごしていた。
外からの風が教室のカーテンを揺らす穏やかな夏の日に交わされた親友との約束は、受験勉強という現実的な言い訳の前にずるずると先延ばしにされ、気が付けば夏はおろか、秋も終わり、クリスマスやバレンタインですら自由登校、入試日という壁にあっさりと阻まれた。何事もギリギリになるまで行動しない私の悪い癖がものの見事に発揮され、追いつめられた私の左胸には紅白のリボンが揺れていた。
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