18歳 3

 いつものように私は勇太と彼女に接触しないように放課後の教室で少し時間を潰してから学校を出た。背中に吹奏楽部のトランペットの音が聞こえる。ほぼ毎日勇太と一緒に歩いていた帰り道を一人で歩くことにも、この頃にはもうすっかり慣れてしまっていた。


今年の夏は例年以上の猛暑で、外に立っているだけで汗が噴き出してくる。さすがにこの暑さにはまだ慣れることが出来ない。学校から駅までのちょうど半分くらいの所にコンビニが一軒だけあり、暑さに耐えられなくなった私はそこで少し涼んでいくことにした。

 

自動ドアが開くとそこは全くの別世界で、私は思わず目を閉じてクーラーの冷気を全身で味わった。雑誌コーナーをさらりと眺め、新作のお菓子をチェックし、いつも通りガリガリ君を手に取ってレジへ向かった。

 

コンビニを出るや、すぐに袋を開け、食べながら信号を待っていると目の前に見知った後ろ姿があることに気が付いた。やばい、と思った。もしかしたら声に出ていたかもしれない。私がきびすを返しコンビニの中に避難しようとしたその瞬間に彼女が振り返った。それに合わせてスローモーションのように特徴的なツインテールが揺れる。

 

渡辺さんだった。思い返してみると今まで見てきたのは後ろ姿や横顔ばかりで彼女と向かい合うのは初めてのことだった。もちろん話をすることはおろか、ろくに挨拶を交わしたこともない。だからここで目が合っても私のことなんて知らなくて、すぐに信号の方に向き直るんじゃないかと期待していた。

「いいなぁアイス。あたしにも奢って下さいよぉ、先輩」

 

私の期待はわずか二秒で裏切られた。昔大切にしていたお人形さんみたいに可愛らしい女の子は真っ直ぐ私の目を見てそう言った。私の頭に最初に浮かんだのは「小悪魔」という言葉だった。そんな表情で、そんな声色で、そんなことを言われれば、恐らく大半の男はアイスを買いにコンビニへ走るだろう。しかし私は同性だし、まして恋敵である彼女にたとえ十円だって奢ってやる気はなかった。


「あたしのこと知ってますかぁ?」

 目を合わせたまま立ちすくむ私に渡辺さんは不思議そうに小首をかしげながら言った。「知ってるわよ。勇太の彼女の渡辺さんでしょ」私がそう言うのを聞いて安心したかのように「知ってるならアイス買って下さいよぉ」と再び笑顔を見せる。

「買わない」と、私は出来る限り冷たい言い方を心がけた。信号はとっくに青に変わっていたが、彼女は渡る素振りを見せない。私も形容し難い気まずさから一刻も早くこの場から立ち去りたかったが、先に横断歩道を渡ってしまうと負けのような気がして、炎天下の中その場に立ち留まっていた。

手に持ったガリガリ君は早くも溶け出していたが、それを気にする余裕なんて今の私にはなかった。


「ひどいなぁ、先輩。勇太先輩から聞いてたのと随分違いますね」

 勇太先輩って呼んでるのか、そんなことを思った。

「勇太は一緒じゃないの? あいつに買ってもらえばいいじゃない」

「勇太先輩は今日は委員会で遅くなるんですよぉ。なんか島崎先輩ってもっと優しい人だと思ってました」

 

そう言いながらも彼女の完璧な笑顔が崩れることはなかった。私が彼女に不信感を持ったのはその笑顔を見た時だったのかもしれない。女の勘なんかではなく日頃の観察のたまものだ。彼女の笑顔が時折見かける勇太と一緒にいる時のものと全く同じだったから。


「あなたって……」

「先輩ってぇ」

 私の言葉を遮って彼女が言った。

「先輩って、もしかして勇太先輩のことが好きなんじゃないですかぁ?」

「何でそう思うの?」

 

手に持ったガリガリ君はすでに大半が溶けていて、足元には小さな水たまりが出来ていた。かろうじてそれには気付いていたが、それを口に運ぶこともゴミ箱に捨てに行くことも忘れていた。私の方は。

「先輩、大丈夫ですかぁ? アイス」

 話を変えたいのか、焦らしたいのか、心配そうな口調とは裏腹にその笑顔は変わらない。

 

色々と言いたいことはあったが、私はとりあえずコンビニのゴミ箱にガリガリ君を捨てに行くことにした。彼女に無言で背を向け、アイスの雫を垂らしながら。その隙に彼女がいなくなってしまっていないか、思わせ振りな言葉だけを残してあの信号を渡ってしまってはいないだろうかと一度だけ振り返ったが彼女はその場から一歩も動かず、にこやかな表情のままで私を見ていた。気付けば私は先程までの暑さも忘れ、彼女の元へと小走りで駆け寄った。

「そんなに急がなくても逃げませんよ、あたし」

 コンビニの冷気で一旦引いた汗が再び吹き出してくる。そんな私とは対照的に彼女は汗一つかかず涼しい顔で立っていた。

この子は本当に人間なんだろうか? そんな馬鹿げた疑問さえ浮かんで来る。


「で、何の話でしたっけ?」

「私が勇太のことを好きなんじゃないかって話。なんでそう思うわけ?」

「う〜ん、強いて言えば女の勘ですかねぇ? 勇太先輩よく島崎先輩の話するし。あとぉ、たまに朝私達の後ろ付けてますよね? 勇太先輩は知らないかもしれませんけどあたしは気付いてるんですよ?」

「付けてるなんて人聞きの悪い言い方しないでくれる? 通学路なんだから仕方ないでしょ?」

 勇太が私のことをどんな風に彼女に話しているのか気になったが、それを彼女に聞くことなんて出来なかった。


「そうなんですよ!」

 突然彼女が身を乗り出した。それに気圧されて私は一歩後ろに引く。

「仕方ないんです。でも仲良しなら追いついて一緒に行くじゃないですかぁ、普通なら。あたしが勇太先輩から聞いてる島崎先輩のイメージならなおさら。声掛けないってことはもしかして気まずいのかなぁ? って思ったわけです。なぜ気まずいのか? それは島崎先輩が勇太先輩のこと好きだから。どうです?」

「気まずいからじゃない、気を使ってるのよ。付き合いたての二人が楽しそうに歩いてるのを邪魔しちゃ悪いでしょ?」

 一気に捲し立てる彼女の推理ははっきり言って図星だったが、私の反論も筋は通っていたはずだ。


「まぁ、どうでもいいですけどぉ」

 さっきの勢いが嘘のように落ち着いた彼女の口調はその言葉通り本当に興味が無くなったようだった。

「で? 好きなんですかぁ?」

「あなたに関係なくない?」

「いやいや、関係ありますよ。一応彼女なんですよ、あたし。先輩が敵なのか味方なのか把握しときたいんですけど……」

 

答えに戸惑う私を見る彼女の表情はいつの間にか真顔になっていて、なんだか彼女を疑った自分が意地の悪い人間に思えてしまった。真剣な問いにはやはり真剣に答えるべきなのだろうか? などと私が迷っていると突然彼女が吹き出した。

 

状況を飲み込めない私が呆気にとられていると、いつもの笑顔に戻った彼女が言った。

「先輩、真面目ですねぇ」

 勇太先輩が言ってた通りだ、と彼女は続けながらふいに私に背を向けた。私達が何度も見送った目の前の信号はちょうど青に変わっていて、彼女はそれに向かってゆっくりと歩き出した。

「立ち話もなんですから、歩きながら話しませんかぁ?」

 首だけ振り返って彼女が言う。提案のようでほとんど強制だった。私と話を続けたければ付いてきなさい。そんな後ろ姿だった。先輩後輩なんて関係ない。両想いと片想いとの心の余裕の差が今の私達の上下関係なのだろう。結局私は彼女に従い、その背中を追うことしか出来ないのだ。

 

点滅する信号を小走りで渡り、車道の向こうで子供じみた様子で縁石の上を歩く彼女に追いついた。多分険しい顔をしている私を彼女はにこやかに迎える。小柄な彼女も縁石に乗っている分だけ横に並んだ私よりも頭一つ分目線が高かった。

「勇太先輩が言ってましたよ、島崎先輩のいい所は素直な所と真面目な所とピアノが弾ける所だって。多分ですけど、好きなんじゃないですかぁ? 勇太先輩も」

「そんなわけ……」

 ない。とは言い切れない。だから私も二年以上片想いを続けていられた。もしかしたら勇太も私のことを好きでいてくれているのではないか? というささやかな期待が今まで私を突き動かしてきたのは事実だ。私の隣で平均台を渡るように縁石の上を歩く渡辺さんと付き合い出すまでは。


「いいですよ。どうせあたし達もうすぐ別れますから」

 彼女は両腕を飛行機の翼のように広げ、ふらふらと歩きながら言った。あまりにもあっさりと言うので私は初め彼女の言葉がいかに重要なものなのか全く理解出来なかった。

「ふ〜ん……えっ?」

 だからこんな下手くそなノリ突っ込みのようなリアクションしか出来なかった。そんな私の反応を彼女はわざわざ振り返って確認し、やっぱり先輩って面白いですね、と微笑む。

 電信柱二本分歩いてなんとか頭の中を整理した私に芽生えた感情は、チャンスが来た、というような前向きな発想でも、二人の間に何があったかという疑問でもなく、彼女に対する単純な怒りだった。


 私が欲しくて欲しくて、夜も眠れず、食事も喉を通らない位欲しかった地位をなぜ彼女はあっさりと手に入れ、そしてあっさりと捨てることが出来るのか? 私と彼女の間には何の違いがあってこんな屈辱を味合わなくてはならないのだろうか?

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