第2話 海辺の誓い
私が生まれ育った街は、伊豆半島の付け根、駿河湾を臨む港町だ。
小さな街だけど、漁港の朝市は活気に満ち溢れ、新鮮な魚介類が販売されている。
今日は間に合わなかったけど、いつか愼也さんを案内してあげたい。彼は昔の武士のような男臭い風貌に似合わず、無類の料理好きで、私なんかよりずっと美味しいご飯が作れるのだ。
両親は、礼儀正しく美丈夫の婚約者の来訪を手放しで喜んだ。
職業柄、目上の人間には礼を尽くすようにと教え込まれている彼は、始終赤面しながら、へこへこと頭を下げ気を使っていた。
両手で持ちきれないほどの手土産を渡され、実家を出た時には、太陽は既に西に傾き、茜色の光で世界を染め上げていた。
明日は私も彼も仕事がある。日帰りの強行軍になってしまうが仕方がない。
「海、綺麗だな」
駅までの道、防波堤沿いに歩いていると、不意に愼也さんは視線を橙に輝く水平線に向け、呟いた。
その横顔には憂いが滲み出ていて、胸がずきりと痛んだ。
実はここ最近、彼はよく今みたいな表情をするようになった。最初は異動して馴れない仕事に疲れているだけと思っていたが、うまく言えないが、その面持ちは私に不吉な予感を与える種類のもので、密かに心配していた。
「……海見て行かない? この時間なら、少しくらい寄り道しても、そんなに遅くならないで東京に帰れるし」
愼也さんは暫し考えるような素振りを見せたが、口の端を柔らかく上げ、切れ長の瞼を細める穏やかな笑みで首肯した。
「そうだな。よく見える場所、知っているんだろう?」
この街で過ごした女学校時代まで、何か悩み事がある時や落ち込んだ時、逆に飛び上がりたいくらいに嬉しいことがあった時、自分だけのとっておきの場所で海を眺めていたという話を、覚えていてくれたようだ。
単に彼の記憶力がずば抜けて良いだけなのだが、前に話したことを覚えていてくれていることに、胸が熱くなる。
「こっちよ」
男らしく大きく筋張った手を引き、防波堤の継ぎ目から砂浜に降り、浜の隅に一本だけぽつんと立っている松の木の下まで駆けて行った。
懐かしい磯の香りを肺いっぱいに吸い込んで呼吸を整え、10代の頃からそのままになっている大きな流木の上に腰を下ろす。
私に倣い、愼也さんも流木の上にそろそろと腰掛ける。
「ここに座って、目を閉じて波の音を聞いていると、心が落ち着くの」
握った手の暖かさに心を委ね、私は瞼を閉じる。
10秒ほど待って、薄眼を開けて隣の愼也さんを盗み見ると、彼も律儀に目を瞑っていたので、私は再び瞳を閉じる。
「本当だ。波の音って気分が落ち着く。優しく誰かに抱きしめられているみたいだ。俺の育った村は海から遠かったから、貴子に教えて貰わなかったら、きっとずっと俺は海がこんなにも広くて優しいこと、知らずに生きていたよ、ありがとう」
「大袈裟よ、もう。でも、あなたとここに来れて良かった。次は泊まりで来ましょうよ。朝市とか小島にある神社とか、全部案内してあげる」
「それは楽しみだな」
ククッと短い笑い声を彼は立てた。
そして、沈黙が流れる。
静かに瞼を開けて、凛々しい横顔を見上げると、彼も既に目を開けていた。
切れ長の奥二重の瞼が何かに耐えているかの如く細められているのは、海面に反射する西日が眩しいからだけではなさそうだった。
また、この顔してる。
雄大な大海原に勇気付けられ、私は思い切って、ここ暫くずっと胸の内にしまっておいた問いを投げかけた。
「ねえ、愼也さん、悩み事でもあるの? 近頃、そうやって難しい顔をすることが増えたわ。仕事のこと? 言えないことも沢山あるのだろうけど、私に相談して。夫婦になるのよ、私たち」
最後の一言は、自分で言っておいて恥ずかしくもあり、ずしりと妙な重みを感じもした。道徳的にはよろしくないけど、恋人となって3年、散々体を重ねても尚、結婚するとなると、違った心持ちになるものなのだろうか。
「ああ、ちょっと仕事が慣れなくて、な。悩み事ってほどではないさ。大丈夫、そのうち馴染めるから」
愼也さんは、苦笑いをし、私の質問を曖昧にかわした。
刑事の彼には、恋人であろうと許嫁であろうと、妻であっても言えない秘密があるということは、私は十分に理解している。
だから今まで、誤魔化された時は、深追いしないようにしていたのだが、何故だか今日はそれをしてはいけない気がした。
「本当にそれだけ?」
上目遣いで優しげな瞳を見据えると、彼はすっと視線を逸らした。
「それだけだ。心配かけて悪かったな。気にしないでくれ」
「……嘘ついてるね。愼也さん、嘘つく時いつも斜め下見るもの」
私の指摘に、整った顔が苦しげに歪んだ。ごめんなさい、あなたにそんな顔をさせたい訳ではない。けど、このまま知らないふりをして、放っておいちゃいけない気がするの。
珍しく引かずに詰め寄る私に、愼也さんは観念したのか、声を低めて呟いた。
「……最近分からなくなるんだ。俺は何の為に働いているのか、何を守ろうとしているのか」
太く黒々とした眉が寄り、眉間に皺が刻まれた。
「正義でしょ? 愼也さん、いつも言ってるじゃない。警察官は正義の味方で、帝都に暮らす人々の安全と幸せを守るため頑張ってるって」
自分の仕事を語る時の、誇らしげな彼の横顔が私は大好きなのだ。思うように会えず、一人寂しく夕飯を食べている時や、職場で残業をしている時も、あの横顔を思い描くととてつもなく強い力が湧いて来るのだ。
けれども、目の前にいる愼也さんは力なく微笑み、首をゆるゆると横に振った。
「今までいた刑事課は確かにそうだった。殺人犯とか野放しにしてはいけない悪人を追い詰めるのが仕事だった。俺たちが犯人を検挙し、検事が起訴し、裁判官が罪に見合った罰を与えることで、被害者の無念を晴らしたり、社会の安全を守っている実感を得られた。だけどさ……特高の追っている事件はそういった類とは少し毛色が違うんだ」
特高警察が、主に国家に対する犯罪を企てている人たちを取り締まっていることは、一般教養として私も知っている。
でも、昭和の初めからこの国では、過激派が政治家を暗殺したり、大勢の人を不幸にするテロを目論んでいる怖い人たちが暗躍している。どんな崇高な思想を持ち合わせていようと、殺人やテロは許されない。
それを未然に防ぐ特高刑事は十分に誇れる仕事ではないのだろうか。
「普通の殺人犯とは違うのだろうけど、テロを起こそうとすることは悪いことよ。悲劇を未然に防いでいるのだから、愼也さんはやっぱり、正義の味方じゃないのかしら」
私なりに懸命に言葉を選び、励ましたが、彼の表情は晴れないままであった。
反論したいけど、反論できずにもどかしく感じているように見受けられ、自分は酷なことをしてしまったのかと急に不安になる。
「……貴子は、例えば俺が悪人ではない、ただちょっと考え方が人と違う人を捕まえて厳しい取調べをしていたら、加減を間違えてしまったら。
彼は強引に話を打ち切ろうとしたが、私は不意に出された夭折の作家の名前に、心臓が大きく鼓動し、動けなくなってしまった。
小林多喜二。
プロレタリア作家。
数年前、特高警察の過酷な取調べが原因となり、死亡した。
もっとも、公には拷問死は否定され、真相は闇に葬られている。
途中で言葉を濁してはいたが、愼也さんが何を恐れ、悩んでいるのかは十分に伝わった。
愼也さんが人を殺す。
殺人犯とかテロリストとかみたいな分かりやすい悪人ではなく、ただ普通と違う思想を持っているというだけの人を。
ぞっとしないわけがなかった。
言葉を失ってしまった私に、彼は慌てふためき、早口で言い訳をした。
「変なこと言って済まない。大丈夫だから。そんなことにはならないはずだ。今の係長は冷静沈着な人だ。そんなバカなことが起こるはずない。それに一刑事が勝手な基準で正義を振りかざしたり、組織の決めたことに反発するのは傲慢だ。大丈夫」
後半は私にというよりは、自分で自分に言い聞かせているだけに聞こえた。
哀れなくらいに、狼狽している彼の背中に腕を伸ばし、私は強く抱き締めた。
「なっ?!」
驚いた声を上げられたが、構わず、手触りの良い短髪を撫でる。
「私はあなたがどんなになっても、何をしても、見捨てたりなんかしない。罪を犯したなら、一緒に背負ってあげる。辛いなら、辞めたっていいわよ。私のお給料なら暮らせるし。だから、もっと私を頼って」
「ありがとう……。でもさすがにヒモになるのは……」
「構わない。あなたは何があっても私が守ってあげるから」
抱き合っているので顔は見えなかったが、母を求める小さな子供のように、愼也さんは私にすがりついた。
外では誰にも甘えられず、強く凛々しい猟犬であらなければならない男の弱さも苦悩も、全部受け止めてあげようとこの時、私は決意した。
「大丈夫よ。2人で背負っても耐えきれないくらいのことがあったら、またここに来ればいい。心静かに波の音を聞いていれば、どんなに辛いことも、乗り越えられる気になれるから」
彼の紅潮した耳に囁くと、胸の中から小さく「うん」と頷くくぐもった声が聞こえた。
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