戀物語〜あなたといく
十五 静香
第1話 11時40分のシンデレラボーイ
「今度の日曜日、
静かな深みのある低音の声に、放心していた私は我にかえる。
婚約者の
声のした方に寝返りを打つ。
電灯を消しているため、はっきりは見えないが、彼が柔和な笑みを湛えて私を見ていることくらいは想像に難くない。
「私は休日はいつも暇よ。いつ愼也さんに呼びつけられても、すぐに駆けつけられるようにね」
ほんの少しだけ、会える時間が少ないことへの不満を秘めた台詞に、彼はあからさまに狼狽した。
こういう素直で真っ直ぐなところが、たまらなく愛おしい。
「うっ……。貴子にはいつも寂しい想いをさせて、すまないと思っている。ただ、仕事が。刑事部と特高だと、同じ刑事でも勝手が違ってだな。1日も早く、特高刑事として一人前にならなく……」
つらつらと必死に弁解を繰り出す薄い唇を吸い、強制的に黙らせる。
片手で彼のしっかりとした毛質の短めに刈った髪をくしゃくしゃと撫でることも忘れない。
「言い訳はいらないわ。帝都の人々のため、正義のために、一生懸命働くあなたは私の誇り。寂しいのだって、我慢できちゃう。日曜に何をするの?」
何度も舌を絡ませ、お互いの唇を貪る様な口づけを交わしてから、漸く彼を解放し、尋ねる。
警視庁捜査一課の若手敏腕刑事として名を馳せ、念願の特高部に異動したばかりの恋人は、ウブな少年のように照れながら、しどろもどろで質問に答えた。
「あ、その、えっとだな。俺たち、結婚することになっているだろう? けど、ずっとお互いの両親に挨拶ができていなかったじゃないか。うちは貴子みたいなできた才媛なら、手放しで許すだろうが、その、貴子の方は……。女子師範まで出した一人娘が、俺みたいな田舎の中学しか出ていない男と結婚なんて、ご両親は落胆なさるのではないかと思って……。せめて早い方が良いだろうから、日曜に静岡の実家に連れて行ってくれないか? ご挨拶がしたい。急で申し訳ないが、ご両親の都合を聞いてもらえないか」
愼也さんは会津の中学校を出てすぐに上京し、警視庁の巡査を拝命、新宿周辺の所轄署の交番勤務を経、刑事課強行犯係の刑事になった。一昨年には試験に合格、巡査部長に昇進し、本庁刑事部捜査一課の刑事に抜擢、さらにこの春からは特高部に異動と出世街道を順調に歩んでいる。
対する私は、地元の女学校を出て帝都にある女子師範学校を卒業し、女学校で古典教師をしている。
中学出ならば、世間では十分高学歴の域に入るし、本庁捜査一課で、若手ながら数々の難事件を解決に導き、ついに特高に引き抜かれた捜査の天才が何を言うのかと思うが、彼は私との学歴格差に引け目を感じている節があった。
「うちの両親は、学歴とかより人柄を見るから、愼也さんならきっと気にいると思うわ。予定は明日お母さんに電話で聞いておく」
「ありがとう。ああ、緊張するな。断られたらどうしよう」
ガッチリとした体を縮こまらせ、情けない声で弱音を吐く様子は可愛らしい。
その分厚い胸板に耳をあて、力強い鼓動に聞き入ろうとした刹那、薄闇に包まれた狭いアパート内にけたたましい目覚まし時計のベルが鳴り響いた。
私たちは同時にびくりと肩を震わせ、ため息を吐く。
お別れの時間だ。
愼也さんは警察の独身寮住まいなので、門限の午前0時には点呼がある。
その際に不在だと、大変な目に遭うので、何としても、門限までには寮に帰り、点呼の列に並んでいる必要がある。
そのためには、私のアパートを遅くても11時45分前には出発しなければならない。
勢いよく布団から飛び出た彼は、脱ぎ捨てた下着や衣類を素早く纏い、乱れた髪を手櫛で整えると、玄関に直行した。
「連絡待っているから。仮に都合が悪くても、日曜は二人でどこか遠出しよう。じゃあ、またな」
慌ただしく退場する背中を見送り、私は呟いた。
「まるでシンデレラね」
結婚して、同じ家に住むようになれば、こんな尻切れとんぼで、何だか物足りない別れもなくなる。
あと少しの我慢だった。
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