第2章 王女の受難 4

 アザミの服は、しばらく困らないぐらい主任から貰い受けた。

 その代償というわけではないが、僕も当分遠慮したいほどの説教を貰い受けた。


 アザミが昨日、主任と出掛けて買ってもらった物はどうやら下着らしい。もちろん覗いたわけじゃない。正々堂々と「何を買ってきたの?」と質問したら恥ずかしそうに「えっと、あの……、主任さんに頂いただけじゃ足りなかった、身に着ける物を……」と口篭ったので察しただけだ。

 女性物の服や下着なんて、頼まれても僕には手助けしてあげられない。店の前まで連れて行ってあげることはできても、一緒に店内に、ましてやアドバイスなんて絶対に無理なので、本当に主任には感謝だ。立替代金の支払いと合わせて、何かお礼を考えないといけない。


 さて、次に必要な物と言えば、現代社会の必需品である携帯電話だろう。

 アザミの外出の障壁だった服も手に入り、何の問題もなくなった。今日はちょうど日曜日だし、一緒に繁華街まで足を伸ばしてみようか。


「アザミー、起きてるー?」


 寝室のドアをノックしたが応答がない。

 だからといって急いでドアを開けると高確率で事故に遭う。

 ここまでは滅多に遭遇しないから事故で許されてきたが、となると、事故を装った故意と思われかねない。

 ここは慎重に、間を空けてもう一度ノック、そしてさらに十秒ほど待ってみる。それでも応答がないので、『やることはやったのだから、何かあったとしても絶対に事故だ』と、自分に言い聞かせながらドアを開ける。

 部屋に入ると、ここは本当に僕が使っていた寝室なのかと疑いたくなる。

 家具は何ひとついじってないから、見た目は変わらない。だが、この鼻をくすぐるような得も言われぬ良い匂いは、違う意味の異世界へといざなう。

 思わず深く息を吸い込んでしまうが、こんなことをするために部屋に入ったのではない。ベッドで眠るアザミを起こさなくては……。

 だが、今度はアザミの寝顔に見入る……。妹を起こすだけだというのに、どうしてこうも煩悩の嵐が吹き荒れるのか……。


「アザミ、おはよう」

「…………」


 声を掛けてみたが目を覚まさない。

 肩の辺りを軽く揺すってみたが、やはり目を覚まさない。

 かくなる上は強硬手段と、掛け布団に手を掛けたところで、パチリとアザミの目が開いた。


「に、兄さま……。お、おはようございます」


 アザミはとても驚いた様子で掛け布団の端を握りしめ、顔を半分埋めながら朝の挨拶をした。

 やれやれ、やっと目を覚ましたようだ。

 強引なことは僕もあまり気が進まないので、布団を剥ぎ取らずに済んで助かる。


「今日は一緒に出掛けない? 必要な物も、まだまだあるだろうし」

「え、あ……そうですね」


 部屋が冷えるせいなのか、アザミは頑なに掛け布団を固く握りしめ続け、顔も半分埋めたままだ。それに何やら視点も定まらずに落ち着かない様子で、受け答えも何とも歯切れが悪い。


「どうした? 具合でも悪い?」


 良く見ると、僅かに掛け布団から覗かせている顔も、心なしか赤いように感じる。

 熱でもあるのかと額に手を当てようとすると、慌てた様子で触れさせまいと、逃げるようにアザミは布団に潜り込んだ。


「大丈夫です、大丈夫ですから……。すぐ起きるんで、お話は後で」


 布団の中からくぐもった返事が聞こえてくる。

 本人が大丈夫と言うならと、僕もそのまま寝室を後にした。



 それにしてもアザミは何やら様子がおかしかったなと、台所で二つのマグカップにインスタントコーヒーを淹れながら考え込む。寝顔を見られたのが恥ずかしかったのだろうか……。やはり、女性の心理は考えてもわからない。


「兄さま……、おはようございます」

「おはよう、大丈夫?」

「あ、あの……私、ちゃんとお布団掛けて寝てましたか?」

「さっき起こした時の通り、ちゃんと掛かってたよ」


 そう答えると表情から固さが抜け、いつもの穏やかなアザミに戻る。

 気にはなるのだがあまり深く追求してはいけない気がして、朝食を用意する方に専念する。


「おまちどお」


 テーブルに二人分の朝食が並べられる。

 そんな大層な物ではない。温め直した昨日の残りのピザとコーヒーだけだ。


「いただきます」

「召し上がれ」


 こんなどこにでもある、ケンゴの家でもしていた当たり前のやり取りが、自分の家で行われていることに喜びを感じる。そして美味しそうに食べているアザミを見て、さらに充実感が湧く。


「兄さまのお料理、とっても美味しいです」

「いやいや、それ昨夜の残りだから」



 食器洗いはアザミの分担となった。

 あっという間に平らげた朝食の後片付けをしながら、アザミが問い掛ける。


「そういえばさっき、お出掛けしようって言ってませんでしたか?」

「ああ、アザミも携帯電話持った方が便利だろうと思ってね」

「本当ですか。嬉しいですけど……、私にも使えますか?」

「大丈夫、大丈夫。すぐ覚えられるさ」


 ――その時、インターホンのチャイムが鳴った。


 僕が何の対応もしないでいるのを不思議に思ったのか、アザミが気遣う。


「これってお客さんの合図ですよね。出ないんですか?」


 この先、アザミが一人で留守番することも多々あるだろう。

 そんなときのために、インターホンが鳴った場合の正しい対処法を教えておかなければ……。


「いいかい、普段はこのチャイムが鳴っても無視するんだよ」

「え……、でもいいんですか? お客さん待ってるんじゃ……」

「何もないときに家に来る人なんて、新聞や宗教の勧誘か公共放送の集金しかいない。面倒なことになるから、アザミ一人のときはうっかり開けないようにね」

「わかりました、兄さま」


 アザミは親の言い付けを聞く子供のような表情で、素直に頷く。

 しかし、今日はしつこい。普通なら二、三回チャイムを無視すれば退散するというのに、今度はノックまで始めた。そして徐々に勢いを増し、やがて握りこぶしをドアに叩きつけるほどになる。

 さすがにこれは尋常ではない。アザミに隠れるように伝え、外の様子を伺おうと覗き窓に顔を近づける――。




「――ちょっと、居るのはわかってんのよ。早くここを開けなさい」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る