第1章 異世界へようこそ
第1章 異世界へようこそ 1
まだ痛みの残る足をかばいつつ、白い息を吐き、腕をさすりながらアパートの階段を上る。上り切った二階右手の懐かしいドアは、久しぶりの我が家だ。
郵便受けに力任せに詰め込まれていたダイレクトメールやチラシを、ひとまずアザミに持っていてもらい、スペアキーを秘密の隠し場所から取り出す。そして、かじかみ始めた手でドアを開けると、半月前と何も変わっていない光景が出迎える。
ドアをくぐった途端に感じる得も言われぬ安らぎ、これが自宅の安堵感か。
「遠慮なくどうぞ」
「お邪魔します」
落としておいたブレーカーを上げ、アザミを迎え入れる。
まずはこの寒さを何とかしないといけない。壁に掛かっているリモコンを手に取り、居間のエアコンの電源を入れる。
――甲高い電子音と共に、エアコンが動き始める。
「魔法……ですか?」
直接手を触れていないのに動き出したことに驚いたのか、アザミは目を丸くしている。恐る恐る尋ねるアザミに安心感を与えようと、向こうの世界との一番の違いを説明する。
「この世界には魔法なんてどこにもないよ。そう見えるものは全て、機械仕掛けだ」
アザミにリモコンを握らせ、温度上昇のボタンを押させる。
電子音が鳴り、自分の操作でエアコンが反応したことに、飛び上がりそうなほどの喜びの声をあげる。魔力のない彼女が、魔法まがいのことができて嬉しかったのかもしれない。何度もボタンを押しては反応するエアコンを、楽し気に見つめていた。
身体の内側からも温めようと、コーヒーを淹れることを思いつく。となれば、まずはお湯を沸かすところからだ。
隔てる引き戸は常に開け放っているため、居間とひとつながりになっている台所へ向かうと、アザミも後ろからちょこちょことくっついて来る。
ケトルを取り出し、水道の蛇口のレバーを持ち上げる。すると、流れ出した水を見て、またもアザミが歓声を上げる。
「これも魔法じゃないんですよね」
「ああ、誰にでもできるよ。やってみる?」
アザミは大きく頷くと恐る恐るレバーを上げ、蛇口から流れ出した水を手のひらですくい、その針で刺すような冷たさに縮み上がる。二度、三度と繰り返して満足したのか、次は僕が何をするのだろうと興味津々で、寄り添うようにくっついて回る。
水を汲んだケトルをガスコンロに掛け、ガスの元栓を開く。
後は点火ボタンを押すだけだが、ちょっと意地悪をして右手をバーナーに向けながら呪文を唱えてみる。
「出でよ、
言葉に合わせて左手で点火ボタンを押し込むとバーナーに火が点き、アザミは手を口にあてがうほどの驚嘆を示す。
だが今回は難度が高そうだと感じたのか、不安そうに尋ねてきた。
「私にも……できますか?」
「試してみたらいいよ」
点火スイッチを再び押して火を消すと、アザミにその場所を譲る。
アザミは少し緊張した面持ちで軽く息を整えると、僕がやって見せた行動を忠実に再現する。
右手を突き出しながら点火スイッチに左手を添え、呪文を唱えながら押し込む。
「出でよ……煉獄の化身」
灯った火を見て飛び上がって喜ぶ。
「やった、やりましたー。私にもできましたよ、見ててくれましたか?」
「お、おう……」
なんて純粋なんだろう。
なんて素直なんだろう。
そして、なんて可愛いのだろう。
「出でよ、煉獄の化身」
「出でよ、煉獄の化身」
「出でよ、煉獄の化身」
アザミは嬉しそうに何度もガステーブルに火を点ける。
こんな子に意地悪をするなんて、僕はなんという極悪人なのか。今までに経験がない程の罪悪感に押し潰されそうになる。とても本当のことを言える雰囲気ではないが、それでは今後アザミが恥を掻くことになる。蒔いた種は自分で刈り取らなければならない。
「あの……言い辛いんだけどさ……」
「どうしましたか?」
「呪文唱えなくても、それ押すだけで火は点くよ……」
しばらく茫然としていたが、やがて無言で点火スイッチを押して、火が点くことを確認したアザミは、見る見るうちに顔を真っ赤に染め上げた。
からかわれたことに気付き、頬を膨らせてみせる。
「ひどいです」
この世界の知識は、僕が教えていかなければならないことを痛感する。
そして、僕が間違ったことを教えても彼女はその通りに覚えてしまう、これは思った以上に責任重大だ。
今までは一人で無責任な生活を送り、恥を掻いても自業自得で割り切ってきた。だがこれからは、アザミにまで恥を掻かせるかもしれないと思うと、迂闊な行動も取れない。
これは気が抜けないなとアザミを見ると、まだ頬を膨らませたままむくれている。
そんな愛おしい仕草をされたら、またその表情見たさに意地悪をしたくなるじゃないかと、心の中の悪魔が顔を出す。やれやれ決意したそばからこれじゃ、この先いったいどうなるのやら……。
――ケトルが大きな鳴き声をあげて、お湯が沸いたことを知らせる。
アザミは表情を強張らせて身構えるが、軽く頭を撫でて安心させる。
まずは火を止めてケトルを黙らせると、食器棚から取り出しておいたマグカップに、インスタントコーヒーをスプーンですくい入れる。向こうの世界へ行く前は毎日のようにやっていた日常行動なのに、アザミが目を輝かせて見つめるので何となく得意気になってしまう。
お湯を注ぎ、手早くスプーンでかき混ぜてインスタントコーヒーを溶かすと、そのまま両手に一つずつカップを持ち居間のテーブルへ。後は砂糖とクリーミングパウダーだなと台所へ取りに戻ると、背後からビックリしたような声が上がる。
「――苦っ」
ブラックのまま先走って口に入れたようだ。
相変わらず、アザミは頭が切れるのに天然な部分も持ち合わせている。
やれやれと思いながら、好みなどお構いなしに取ってきた砂糖を二杯、クリーミングパウダーを一杯、アザミのコーヒーに放り込んでかき混ぜてやる。不安げな表情で再び口を付けた彼女も、その甘さに笑顔を取り戻した。
コーヒーを啜り始めた頃には部屋ももう充分暖まっていて、体の内側から温める必要もなくなっていたが、やはりこの雰囲気が落ち着く。すると、今度は空腹が気になりだすのだから人間の欲求には際限がない。
そろそろ日が昇っても良い時間なのだから当然の摂理か。
「とりあえず腹減ったろ。コンビニ行くけど、一緒に行く?」
「コンビニ……ですか?」
「休みなしで開いてる何でも屋さんだよ。主任を待ってる時にも入ったろ」
カーテンを開き、窓から見える煌々とした照明のコンビニを指差して見せた。
するとアザミは、明らかな嫌悪の表情を見せる。きっと『主任を待ってる時の店』という紹介がまずかったのだろう。この世界に来て初めて味わった恐怖感が呼び起こされたのかもしれない。
「気が進まないなら、ゆっくり休んでるといいよ。適当に買って、すぐ帰ってくるから」
アザミは笑顔で大きく頷く。
冷蔵庫は出発前に空っぽにして行ったので、そのうち本格的な買い出しも必要だが、今は当面の空腹凌ぎができれば充分だ。無理にアザミを連れて行く必要もないだろう。
「――それじゃ行ってくるよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます