第7章 初めてのお使い 5
「――あちゃー、うっかりしてたぜ。米切れてたのか……。こりゃ晩飯抜きか」
カズラとアザミも部屋の模様替えを済ませて、居間へと集まる。
それもそのはず、もう夕食になってもおかしくない時間。
そこへ飛び込んできた、ケンゴの悲観的な叫び声。その中には、聞き捨てならない言葉も含まれている。
三人同時に動揺の表情が浮かび、不穏な空気に包まれる居間。
ケンゴが肩を落としながら、台所とつながる居間の入り口に顔を出すなり、僕はすぐさま真偽の程を問いただす。
「晩飯抜きって言うのは本当ですか?」
「悪りい。さっきまでドタバタしてたからな。うっかりしてたわ」
「お米がないなら、パンを食べればいいじゃないの」
そんな冗談が出てくるなら、カズラは一食ぐらい抜いても大丈夫だ。
いやまて、彼女がマリーアントワネットなんて知っているはずがない。素で言ったとなると、カズラはそれほどの大物なのか。
「僕がひとっ走り、買い物に行ってきましょうか」
さっきはひどい目に遭ったが、あんなことはそうそうないだろう。
文字は読めないが、ケンゴに日本語で買い物リストさえ作ってもらえば問題ない。
まだ七時だし、ちょっとぐらい夕食が遅くなったとしても、一食抜かれるよりは格段にましだ。
「もう日が沈んだから、開いてるお店なんてないでしょうね」
「お店が開いてるのは、太陽が昇ってるあいだだけ。そんなの常識でしょ」
これでまた一つ、僕がこの世界では非常識な人間という事実が増えた。
しかし、カズラもアザミも同じことを言っているはずなのに、どうしてこうも温度差が激しいのか。
「それなら、出前でも取ったらいいんじゃないですかね」
「何よ、出前って」
「出前って言ったら、電話で――」
「そう、そうだ! みんなで飯食いに行こう」
ケンゴは大声で僕の言葉をかき消すように叫ぶと、僕の背後にそっと歩み寄り、カズラとアザミに気付かれないように軽くグーで殴る。そして耳元で、僕だけに聞こえる小声で叱責した。
「……電話なんてもんがあるか、馬鹿……」
うっかりしていた。それをごまかすための大声だったか。
でも外食と言うなら、さっきの話と矛盾するはず。
「でも、店は日没で閉まるって……」
「あんたの常識知らずはどれだけなのよ。どっかの国の王子様だったりするわけ?」
「食い物屋が晩飯時に店閉めてたら、いつ稼ぐんだよ。日没で閉まるって言ったのは、物を売ってる店の話だ」
本当に口を開く度に墓穴を掘りまくっている。
アザミの表情も心なしか同情的だ。
その店は、ケンゴの家から徒歩で十分ぐらいの所にあった。
店内にはテーブルが六つ、それぞれに四脚の椅子。そして、奥の突き当りにはカウンター席。さらにその先には、調理場の様子も目に入る。
カウンターの上には大きな看板が掲げられ、まさにどこにでもありがちな定食屋。
その看板はきっと品書きだろう。いつも通りの記号がずらずらと書き連なっているが、当然僕には読めない。
客は他に二組。四人組と二人組で仕事帰り風の男たち。
どちらも奥の方に席を陣取っていたので、彼らと距離を空けるために、入ってすぐ左のテーブルに腰掛ける。
席に着くなり、テーブルに備え付けられていたメニューを真っ先に手に取るカズラ。そして広げながら、隣の席になった僕に尋ねる。
「あんたは何にすんの?」
二人の間に置かれたメニュー。
そして、ゆっくりと一ページずつ、丁寧にめくりながら見せてくれるカズラ。
外食が嬉しくて機嫌がいいのだろうか。彼女のこんな親切は滅多にない。
しかし……。
開かれているメニューには、何が書いてあるのかさっぱりわからない。
せっかくの貴重な体験だというのに、今の僕には重圧でしかない。
やむを得ず、ケンゴに救いを求める。
「ケンゴさんは何にします?」
「あんたは自分で食べる物も、自分で決められないわけ? 情けないわね」
こちらにも事情があるのだが、まさか字が読めないなんて考えもしないだろう。
優柔不断な軟弱男と思われても仕方がない。
「じゃあ俺は焼肉定食、ご飯大盛りで」
「僕も同じ物を……」
デートでレストランに入ったカップルか!
思わず自分で突っ込みたくなるが、状況的に仕方がない。だがカズラも、きっと同じようなことを思っているだろう。
「あたしも同じのにするわ。ご飯は普通で」
「じゃあ私も一緒にするね。その方がお店の人も楽だろうし」
全員の注文が決まったところで、ケンゴが店員を呼ぶ。
やれやれ、思わぬところで一気にピンチになる。文字の習得は早急にしないと、今後もきっとこの調子だ。
料理が運ばれてくるまでの時間が、とても長く感じる。
だがそれは、元の世界なら当たり前にあった、時間潰しの品々がないからだろう。
備え付けのテレビもなければ、マンガもない。携帯電話だって使い物にならない。
そして唯一置かれていた新聞らしきものも、字が読めないから意味がない。
「みなさんの好きな食べ物って何ですか?」
突然アザミがみんなに尋ねた。時間潰しの話題を作ってくれたのだろうか。
そしてみんなも積極的にその話に乗る。
やはり、退屈していたのは僕だけじゃなかったか。
「俺は何といっても肉だな」
「あたしは天ぷらかしらね」
「私は……、やっぱりお寿司ですね」
「あんたは?」
変なものを答えないようにと、慎重になったせいで順番が最後に。
ここで返事に迷っていたら、またカズラに優柔不断と思われてしまいそうだ。
「肉じゃが……、かな」
「へえ、意外ね」
本当の好物はハヤシライスなのだが、この世界ではまだお目にかかっていない。
代わりに咄嗟に浮かんだのは、以前ケンゴが夕食に出した『肉じゃが』だった。
確かに『肉じゃが』は、自分にとって特別な料理でもある。
巷でよく聞くおふくろの味。小さい頃に両親を亡くした僕にとっては、何のことやらわからない。ホッとする味、懐かしい味、言い換えられてもさっぱりだ。
ならばと、筆頭に挙げられる『肉じゃが』をあちこちで食してみた。
だが未だに答えは出ていない。そんな意味での特別な料理だ。
アザミが口火を切った雑談のお陰で、空腹の苦痛を味わう間もなく、テーブルの上に四人前の焼肉定食が所狭しと並ぶ。
四人共が同じ料理になってしまったのは少し残念だ。この世界の料理の数々を観察するチャンスだったというのに……。
それにしてもこの焼肉定食、何と言うか普通すぎて拍子抜けだ。
お椀にはみそ汁。茶碗にはご飯。そして平皿に、一人前の焼かれた肉――何の肉かという不安はあるが――。さらに、付け合わせにはキャベツの千切り。
元の世界と何ら変わり映えのしない焼肉定食が、ここにある。
どうやら食文化についても、どっちの世界も大差ないらしい。
さっきの話でも、カズラの好物は『天ぷら』だったし、アザミは『寿司』だった。
そう考えると、まったく不思議な異世界だ……。
結構なボリュームだったので完食には少し苦労したが、お陰で満腹だ。
あれだけの量だったのに、カズラもアザミもペロリと平らげた。
しかもデザートを頼もうと、再びメニューを眺めている。
その旺盛な食欲に、不安そうに財布を開き見るケンゴ。注文を思いとどまらせようと必死だ。
「――そんなに食って、太っても知らねえからな!」
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