第5話 皇女様

 新宿区に天使エンジェルが紛れ込んだ。

 この話はすぐに広がり、三時間目の授業を受けていた零機たちの高校にまで届いていた。授業は途中で終わり、生徒は臨時用シェルターに逃げていく。日本には、各地に地下シェルターがあり、臨時の襲撃から身を守るのだ。

 だが、新宿区は、東京エリアでも、一か二はいるほどの安全地区だった。そのため、最前線に軍や自衛隊が行き、手薄になっているのだ。それも、普通に考えて新宿区に天使や天獣ビーストが突如出現するなんてありえないのだ。天使たちに効果がある魔鉱石を奮発して作った魔法陣結界は、天使の大群でも破るのが難しいものだ。その魔法陣結界がある新宿に天使がいるということは、内部で何かあったと考えるのが普通である。

 その状況の中、零機の頭の中に、ある仮説が浮かぶ。軍隊は天使の実験を担当していない。そして、天使の実験ができるほどの施設を持っているのは、


「嘘だろ、まさか東雲協議審問会がやったっていうのか!?」


 最悪の状況である。新宿の戦力じゃ天使や天獣には勝てない。天使は一人しか居ないようだが、天使を倒せるのは軍一個小隊と攻魔師、防魔師五人がかりというところだ。それが事故か、故意によって起こされたものなのかなど、今の零機には関係なかった。この区に敵がいるということは、皇女の身に危険が及ぶことがあるかもしれないのだ。それに、萩原はぎはらたちは零機が桐谷家ということを抜いて、初めてできた友達である。軍隊のとは少し違う、そのものたちを守りたかった。それに、皇女のことも柿沼かきぬまを筆頭に避難してくれるだろう。


「おい、柊、美輪、綺羅姫のことを頼む。僕は少し行かないといけないところがあるんだ。先に行ってくれ。柿沼、冷静になって考えろよ。萩原、お前はみんなのことを助けてやれ、いつもみたいに明るくしてやれよ」

「おい、なにいってんだよ、桐谷、お、お前まさか!」


 萩原が気づいてしまったようだ。続けざまにみんながはっとした顔をする。


「まさか、桐谷君、天使の居るところにいくって言うの?」

「ああ、その通りだよ」

「なんで、よ、なんであんたがいくの?」


 零機は美輪の質問に、少し頭をひねらせた。なんといえばいいのかと。だが、


「それはさ、僕が軍人だからよ」

「なっ……!」


 零機の行った意味を即座に理解したのは柿沼だった。


「お前は、あの魔族殺しの桐谷家の人間なのか?」

「そうだよ、日本帝国軍『叛逆の翼』所属、桐谷零機少佐、戦場に参ります。姫様、途中で護衛放棄になりますが申し訳ありません。ですが、僕は、ここにいる学生だけじゃなく、町の人を見殺しにすることなんてできない。できそこないの指揮官ですよ」

「皇女ってあの皇女様なの、燐火ちゃん?」


 燐火は美輪の質問を聞いていなかった。胸の中には、ただ、嫌だ、という言葉が溢れていた。

 彼が行ってしまうのが嫌だ、彼が自分の傍から離れるのが嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、、また失うのは嫌だ、自分の好きな人が死んでしまうのはもっと嫌だ。


「行かないで、行かないでよ。私をまた一人にしないで、また、しないで、置いてかないで!」

「皇女様、ですが、僕はあなたを、あなたの傍にいる人を守らないといけないんです。それに、あなたの傍にはこいつらだって居ます。ですから―」


 そこで、零機の声は途切れる。その理由は、


「行かないでよ、零君れいくん


 燐火がそう口にしたからだ。この世界で、零機のことをそう呼んだのは、かつての、十歳のころ宮廷であったあの少女だけだった。自分のようにこの世界に、絶望しきったような、うつろな瞳をして隔離された建物に閉じ込められていて、自分が出してあげた少女、


りんちゃん、なのか?」

「っ……!」


 燐火の肩が大きく震えた。そうして涙を流しながらこちらを見る。その涙は、嬉し涙と、必死に耐えていた悲しい涙の両方だった。

 それを見て零機は確信する。この女の子はあの時出会った少女だ。自分が、東雲に負けない力を手に入れたいと、吸血鬼を殺す以外の力が欲しいと初めて思った理由になる少女だった。なら、


「なおさら、逃げられないよ。あの時、僕は君のために力が欲しいって思ったんだから。それを守れなくてどうする」


 零機はもう後ろを見ず、初めてできた友達が呼び止めるのも聞かなかった。ただ、自分の武器と軍服が隠してある教室の端にあるロッカーに向かって走った。

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