第七話 暖かな日の下で 後編

 その後、わたしとリズは士官の男に連れられ、王城へと向かった。その間、屈強な男達がわたしたちを取り囲むようにしていたのは、きっとまだわたしたちのことを完全には信用していなかったからだろう。

 王城の重厚な門扉を抜け、豪華な内装の施された廊下を進み、そして遂に、謁見の間へと続く扉の前に辿り着いた。


 士官の男が門番へ目配せをする。すると、扉の両脇に控えていた門番二人が、同時にその大きな扉を押した。すると、木製の重厚な扉は、低い音を立てながら少しずつ開かれていった。

 扉の先の部屋は広く、わたしの家の敷地程はあろうかと思えた。部屋には左右を二つに割るかのように真っ赤な絨毯が敷かれており、左右の壁や所々に設置された柱には細やかで華美な彫刻が彫られている。絨毯の先は数段の階段が設けられており、その上には黄金の装飾のあしらわれた玉座が置かれていた。そこには一人の男が深々と腰掛け、頬杖をつきながらわたしたちを見下ろしていた。


 あの身なりを一目見ただけで分かる。あの男が現在の帝国の王だ。齢五十程と見受けられるその男は、豪勢な衣服を身に纏い、様々な装飾品で己を着飾っていた。さらに、彼の背にする壁の上部には円形のステンドグラスがはめ込まれており、そこから差す日の光がより一層男を豪華に見せていた。


「わぁ……すごい……」


 隣に並ぶリズが感嘆の声を漏らした。それに構わず、士官の男は王の前へと進み出る。わたしたちも、それに遅れまいと後をついて行く。


「お待たせいたしました、王よ。例の魔術師二人を連れて参りました」


 階段の手前で立ち止まると、男は王の前で跪いた。わたしたちも、周囲の男達によって同じように跪かされた。そんなわたしたちを見下ろし、王は小さく頷いた。


「うむ、ご苦労だった。士官及び騎士達よ、下がってよいぞ」


 王がそう言うと、士官の男は弾かれたように声を上げた。


「お、王よ。まさかお一人でこの魔術師共とお話なされるおつもりですか!? き、危険でございます。帝国を救ったとは言われておりますが、それだけでこの二人が悪しき魔術師でないことにはなりません。どうか、騎士を侍らせなさいませ」


 あぁ、やっぱりそうか。この帝国において、わたしたちはまだ信頼されてはいないのだ。若干気が沈むのを感じていると、王が口を開いた。


「士官よ、俺はお前に『下がれ』と言ったのだぞ?」


 王の発っしたその言葉は低く、凄みに満ちていた。それを聞いた士官の男は、咄嗟に頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。


「し、失礼致しましたっ」


 それだけ短く告げると、男は他の男達と共に謁見の間を後にした。この広い空間には、王とリズと、わたしだけが残された。


「さて、邪魔者もいなくなった。お前達、楽にするがいい」


 王の口から意外な言葉が発せられた。しかし、わたしたちは尚も体を強ばらせている。彼の気遣いを受け入れるだけの余裕を、わたしたちはまだ持ち合わせていないのだ。

 そんな中、リズが恐る恐る王を見上げ、その小さな口から震えに満ちた声を絞り出した。


「あ、あの、もしかしてわたしたち、処刑されるんですか……?」


 それを聞いた途端、王は愉快な曲芸でも見たかのように大きく声を立てて笑い出した。


「はっはっは、お前達を殺す、だと!? お前は中々人を笑わせるのが上手い!」


 王の反応があまりにも意外だったようで、リズはきょとんとしてこちらに視線を向けた。

 確かに、先程の質問は王にとっては可笑しなものだったろう。そもそも、これから死にゆく人間に、帝国を統べる王が一体何の用があろうか。それも、騎士一人侍らすこともなく。相手が魔術師であれば、自分が殺される可能性があるというのに。


 だが、現にわたしたちは王とこうして面と面を向かわせている。それは、帝国側にわたしたちを処刑する意思が無く、かつわたしたちが王に危害を加える恐れが無いからだ。少なくとも、王はそれを知っている。

 しばらくしてようやく笑いが収まったらしく、王は玉座に深く腰を掛け直し、口を開いた。


「帝国を救った英雄を、刑に処するわけにはゆくまいよ」

「英雄……?」


 ふと漏れたわたしの言葉に構わず、王は続ける。


「お前達は数日前、突如現れた魔術師の集団を見事退けた。我ら帝国のど真ん中でな。勇猛果敢に戦ったお前達の勇姿を、俺を含め全帝国民がその目に焼き付けたことだろう。

 もしお前達があの日そこに居なければ、帝国はとうに滅ぼされていただろう。だが、お前達がその結末を変えたのだ。帝国を脅威から救った英雄を殺そうなどとは、少なくとも、俺は思わんよ」


 そして、王は再び声を立てて笑う。その一方で、リズは微妙な表情を浮かべている。彼の言葉が信頼に足るものなのかどうか、判断に困っているのだろう。

 恐らく、彼の言葉に嘘は無い。だが、あくまでそれは彼の思い。全帝国民の総意では無いだろう。今回王がわたしたちをここに召喚したのは、そのことについての話をするためなのだろう。


「王よ、わたしたちに何か重要な話があるとのことでしたが、それは一体……」


 早く本題に入るようにそう促すと、王は思い出したと言わんばかりにはっとした表情を見せた。


「おぉ、そうだったそうだった。お前達を呼び出したのはその話をするためだったな」


 そして二度ほど咳払いをすると、王は真剣な口調と眼差しで話し出した。


「俺はつい先程、お前達を処刑する意思は無いと言った。だが、教会はそうではないらしい。教会はお前達二人を処刑するべきだと進言している」

「え!? そ、そんな……」


 隣に立つリズが息を呑むのがわかった。だが、当然と言えば当然だろう。教会にとって魔術師は忌むべき存在であり、一度帝国を救ったからといっても、それは揺るがない。そして今は、教会の見解などは重要ではない。

 重要なのは、それに対する王の判断だ。


「して、王よ。わたしたちをどうなさるおつもりなのですか?」


 真っ直ぐに王を見上る。王はわたしたちを一瞥すると、高い天井を見上げながら独り言のように呟きだした。


「……大いなる力は諸刃の剣。その切っ先が敵を裂くか、あるいは己を刻むかは、その力を行使する者次第だ。俺は王として、国民の安全を第一に考える必要がある。その意味では、教会の言い分も的を射ていると言える」

「……」


 と言うことは、本意ではないにしろ、彼はわたしのみならず、リズをも処刑するつもりか。そんなこと、到底納得できる筈が無い。

 固い意志を胸に抱きながら、わたしは一歩前へ進み出た。


「確かに、魔法は強力です。使い方を誤れば、多くの命を散らすことになるでしょう。ですが、王であるあなたは知っておられる筈です。嘗て帝国は、魔法によって栄えたことを。魔法により多くの命が救われ、人々に大きな幸福をもたらしたことを」


 わたしがそう訴えると、王は視線を下げ、わたしを見据えた。


「……何故、お前がそのことを知っているのかは知らんが、確かにその通りだ。約四百年前、帝国はその膨大な魔法の力によって、全世界を統べる程の国家にまで成長したと伝え聞いている。


 だが、それほどの力を誇っていた嘗ての帝国は滅んだ。魔法の力によってな。同じ轍を踏むわけにはいかん。俺は王として、国民を守る義務があるのだから」


「……と言うことは、わたしたちのみならず、これからも魔術師たちを殺すのですか?」

「それが、最善の対応だろうな……」


 わたしの問いに、王は残酷な答えを返した。

 空に雲が差したのだろう。いつしかステンドグラスから差し込んでいた光は遮られ、ただただ広いこの空間に若干の闇が満ちていた。


 わたしは無意識の内に唇を噛み、拳を握り締めていた。わたしの中で、何度目とも分からぬ罪の意識がむくむくと大きくなっていく。わたしの犯した罪は重く、四百年経った今でもその残滓は消えることはないというのか。

 後ろめたさからか、わたしは視線を床へと向ける。その一方で、わたしの斜め後ろに立つリズが声を張り上げた。


「お、王様! そんなのおかしいですよ!」

「リズ……?」


 肩越しに後ろを振り向くと、リズはきりりとした顔をし、真剣な眼差しを王にぶつけていた。


「魔術師だって人間なんですよ! それぞれに人生があって、大切な人がいて、毎日を必死に生きている普通の人間なんです! それなのに、どうして、彼らの命や大切な物をそんな簡単に奪えるんですか!」


 リズの声に徐々に熱がこもってゆく。王は何も言わず、リズの言葉に耳を傾けていた。


「数日前、帝国が魔術師達の集団に襲われる前日に、彼らと会ったんです。リーダーの魔術師が教えてくれました。彼らは皆、自分が魔術師であるが故に、帝国に大切なものを奪われたんだって。あの人たちだって、普通に生活したかった筈なのに。それなのに、帝国がそれを許さなかったんです。帝国が彼らを追い詰めたから、彼らは帝国を滅ぼそうとしたんです。そうしなければ、自分たちに平和な日々は訪れないから。

 ……もう、こんなことはやめましょう? こんな悲しい連鎖は、すぐにでも終わらせなきゃいけないんです。王様だって、本心ではそう思ってるでしょう?」


 リズの鋭い指摘に、王は一瞬はっとしたように目を見開いた。そしてその直後、彼は若干目を伏せつつ口を開いた。


「あぁ、そうだな。お前の言う通りだ。このようなことを繰り返したとて、現状が改善されるわけはないだろう。帝国を守る為に無実の魔術師を殺し、それがさらに彼らの怒りを買うことになる。このような無益ないたちごっこなど、早急に終わらせるべきであることは、俺もわかっているさ」


 徐々に王の語気が荒くなる。そして、遂にじっとしていられなくなったのか、彼は唐突に玉座から立ち上がった。


「だが、今更どうしろと言うのだ!? お前たちが我が帝国を救ったことで、確かに今、帝国民の魔術師に対する意識は良い方向に向いていることだろう。だが、魔術師達はどうだ? 彼らは恐らく、これまでの帝国の行いを赦さないはずだ、そうだろう? そのような彼らを帝国に招き入れれば、帝国民との衝突は避けられない。それがほんのいざこざ程度なら問題は無い。しかし、魔術師達は魔法を操ることが出来る。事が大きくなれば、死人が出る可能性があるのだぞ。

 それらを回避しつつ、魔術師達との友好を築くと言うのなら……一体どうしろと言うのだ!?」


 王は語気を荒げ、答えを請うような視線をわたしたちに向けた。

 彼の言葉を聞いただけで分かる。彼はその立場故に相当苦しんでいるのだ。彼は王として、間違った選択をすることは許されない。今回の場合、彼は帝国民のことを第一に考え、魔術師達のことは切り捨てるべきなのだ。だが、彼はその決断に踏み切ることが出来ない。それはきっと、今回の事件が魔術師達との友好を再構築する唯一の機会だと思っているからだ。彼は心から、魔術師との争いを終わらせたいと願っているのだ。


 しかし、そんな彼に対してかれる言葉を、わたしは見つけられなかった。一体何が最適な選択なのか、わたしには分からないのだ。

 わたしは王から視線を逸らし、だんまりになる。そんなわたしを見て、彼もまた口を噤んだ。

 だだっ広いこの空間に、沈黙が降りた。後光を失った王は首をうな垂れ、失意の底に沈んでいるかのようだった。わたしもまた、同じ心境だった。

 そんな空気の中、沈黙は突如として破られた。


「だったら……」


 澄んだ声が響き渡る。リズの声だった。


「もう、誠心誠意謝るしかないじゃないですか」


 迷いの無い瞳を王に向けながら、彼女は至極当然のことを言った。それに対し、わたしは意表を突かれたような思いになった。どうやらそれは王も同じなようで、彼もまた、はっとした表情を浮かべていた。


「つまり、我々に必要なのは謝罪だと?」


 王が聞き返すと、リズは自信に満ちた声で答えた。


「そうです。確かに、魔術師達は帝国のこれまでの行いを許せないかもしれません。時には、帝国民に対して力を振るってしまうこともあるでしょう。ですが、だからと言って、罪もない彼らを殺して良い理由にはなりません。だったら、彼らの怒りが鎮まるまで謝るしかありませんよ。その姿勢を見せ続ければ、許すとまではいかないとしても、彼らはきっと、認めてはくれるはずです」


 そう言うと、リズはわたしに振り向いた。彼女は目を細め、口許を緩ませていた。

 あぁ、そうだ。この子の言う通りだ。答えは実際、なんてことない当たり前のことだったんだ。

 確かに、この道の先には困難が多いことだろう。受け入れることよりも、排他的であることの方が遥かに楽だ。だが、この現状を打破するためには、ある程度の苦しみを受け入れる覚悟を決めなければいけない。そうでなければ、この悲しみに満ちた状況は何一つ改善されないのだから。


「王よ、この子の言う通りです」


 わたしはリズの意見を支持するように、彼に進言した。


「現在の姿勢を貫いたところで、徒に死体の山を築くだけです。そんなことに、一体何の意味がありましょうか。であれば、あなた方帝国が出来るのは、謝罪することだけです」


 わたしとリズの言葉を聞き、王の決断が揺らいだ。


「……お前達の言い分は分かる。だが、最悪の事態は避けねばならん。もし仮に、魔術師達を受け入れたとして、彼らが帝国に仇なす行為をした場合は、どうすると言うのだ?」

「その時は、わたしたちが力になりましょう」

「はい。帝国と魔術師達が仲良くなれるなら、わたしたち、頑張りますよ」


 わたしの言葉に、リズも同調する。それに対し、王は右手を口許に添え、考え込む仕草をした。


「ふ~む、なるほど。帝国民と魔術師間で何かしらの問題が発生したとき、魔術師であり、帝国を救った英雄でもあるお前達二人が仲裁に入れば、事を荒立てることなく収められるかもしれん……」


 王がうんうんと唸る中、いつしか仄かな闇に満ちていたこの空間に光が差していた。光を阻んでいた雲が晴れ、ステンドグラスからそれが差し込んでいたのだ。

 そうしてしばらくの後、後光を取り戻した王は顔を上げ、わたしたちに視線を送る。


「……魔術師であるお前達は、我が帝国の為に力を貸してくれるのか?」

「えぇ、もちろんです」

「帝国と魔術師が仲直りしてほしいのは、わたしたちも同じですから」


 わたしたちは胸を張ってそう答える。


「それは……願っても無いことだ」


 わたしたちの答えに対し、王は若干目尻を下げ、安堵の表情を浮かべながらそう言った。


 *** *** ***


 セラ先生が目を覚まし、王様との会談から数日後、王様は帝国教会は解体し、これまでの魔術師に対する差別的な姿勢を詫びると共に、これ以降は友好的な関係を築いてゆきたいという旨の声明を発表した。それの発表に対し、納得のいかない帝国民たちがちょっとした暴動を起こしたそうだが、それはすぐに鎮圧された。と言うのも、その暴動を起こしたのがたったの十数人ということだったので、帝国騎士によってものの数刻で鎮められたらしい。まあ、その十数人はともかく、他の帝国民の魔術師に対する意識を変えられたのだから、先生の功績は計り知れないというものだろう。


 こうして一つの問題が解決されたが、まだ大きな問題が残されていた。それは、王様も危惧していた、魔術師達による暴動だった。

 わたしとセラ先生は、王様との約束通り、いつでももしもの時に対応できるように、帝国に住まうことにした。しかし意外なことに、あれから数ヶ月が経ち、魔術師の人口が目に見えて増えてきた今でも、王様が危惧していたような大きな騒ぎは起こっていなかった。確かに小さな悶着は数回起こったが、それらはたちまち先生やわたしによって治められたので、大事に発展することはなかったのだ。


 こうして、帝国に魔術師の人口が増え、平和な時間が過ぎていった。しかしこれは、偏にわたしとセラ先生の活躍ではなく、恐らく元から帝国に住んでいた魔術師達のお陰だろう。

 彼らはこれまで自分が魔術師であることを周りにはひた隠しにして生活していたが、王様が例の声明を発表したことによってその必要も無くなり、彼らは堂々と自分の素性を明かすことができるようになった。そうして、帝国内に自分と同じ魔術師がいると分かると、彼らはいつしか集ってゆき、一つの共同体が形成されたのだ。そして、帝国に魔術師の共同体が存在することを知ったからか、外部の村などからも魔術師が帝国に移住するようになったのだ。


 それから一年ほどが過ぎ、帝国内も安定した頃、わたしはかねてから慕っていたカイルさんと結婚した。わたしはカイルさんと一緒に帝国に住むことになり、わたしはそこで診療所を開くことにした。規模は小さいが、わたしの腕が認められたようで、度々大きな病院に呼ばれ、治療を代行することもあった。


 その一方で、セレス先生はというと、なんと学校の先生になっていたのだ。先生は帝国一大きな学校で教鞭を執り、そこで薬学や医学、そして魔法についても教えていた。先生は既にわたしだけの先生ではなくなってしまった。そのことが、わたしはほんの少し寂しく思った。

 そんなこんなで忙しい毎日が続き、時間は矢が飛ぶように過ぎていった。


 ***


 気がつけば、あれから十年の年月が経っていた。

 毎日目にする、変わらない帝国の風景。市は人で賑わい、美しい噴水の設けられた広場には、子供達の元気が満ち溢れている。誰もが笑顔で、何でもない毎日を過ごしている。そして、その笑顔は、魔術師にも、そうでない人にも、同じように向けられているのだ。


 あぁ、何と平和なことだろう。こんな平和がほんの一昔前には無かったなど、信じられなくなるほどだ。


 そう、あれから多くのことが変わった。いつも通りの平和な帝国の風景の裏側で、わたしたちの意識の外側で、実に沢山のことが移ろっていったのだ。

 嘗て魔術師を嫌っていた帝国民達は、今では彼らと対等に接している。法は改正され、魔法に関する様々な取り決めが為されたり、関連の機関が設立された。帝国は一般人にとっても、魔術師にとっても、住みよい国へと変わっていった。


 変わったのは国だけじゃない。わたしも、あれから歳を取ったものだ。医者としての腕を上げる一方、子宝に恵まれ、家庭は随分と賑やかになった。愛する人たちと一緒に暮らす毎日に、わたしはこの上ない幸せを感じるのだ。


 様々なことが変遷していく中で、特筆すべきは、やはりセレス先生だろう。


 先生は決して老いることなく、実に四百年という長い年月を生きた魔女だ。嘗て先生は、自分の不老不死のことを「呪い」だと言っていた。先生は、その呪い故に老いることなく、また、死ぬこともなかったのだろう。だが、その不老不死であるところの先生が、この十年間で確かに歳を取っているのだ。そのことについて、先生は何も言わない。もしやその呪いが解かれたのか、はたまた呪い自体存在しなかったのか、わたしには分からない。だが、そんなことは些細で瑣末な事柄でしか無いのだ。例え見た目が変わろうとも、先生自身は決して変わりはしないのだから。


「ねぇ、セラ先生……」


 穏かな日和の昼下がり。帝国から少し歩いた先にある小高い丘の上で、わたしは先生の名を呼ぶ。


「なあに? リズ」


 隣に座る先生もまた、わたしの名を呼んだ。その声は以前と変わらず穏かで、まるでこの日の光のようだ。

 わたしが口を開きかけたその時、柔らかな風がわたしたちの間を通り抜けていった。風は周りに咲く野花の頭を揺らし、先生の長く艶やかな髪を梳いてゆく。


 耳元を掠める風の音を聞きながら、わたしは口を閉じ、空を仰ぎ見る。空は胸がすくほどに美しい青を湛え、その上にいくつかの白い綿雲を浮かべている。綿雲はゆっくり、ゆっくりと青の中を漂っていく。その様を眺めていると、まるでこちらの時間までもがゆったりと流れているようにさえ感じる。

 ふと、微風が吹き止んだ。わたしは空から先生へと視線を移し、先程言いかけた言葉を紡ぎだす。


「先生……ありがとう」

「……わたしは、お礼を言われるほどのことをしたかしら?」


 そう答えつつ、先生は優しい表情をわたしに向けた。例え年月を重ね、老いようとも、その表情は変わらずに、美しいままだ。

 わたしは先生から視線を外し、再び空を見上げる。先程そこに浮かんでいた綿雲は、やはりその位置からほとんど動いてはいなかった。


「……全部、だよ」


 わたしは先生の問いに答える。


「今わたしがここに居られるのは、先生のお陰。だって、薬学も医学も、魔法だって、全部先生が教えてくれたものだから。帝国が今みたいに平和になったのも、先生のお陰なんだよ?」


 わたしがそう言うと、先生も同じように、高い空を見上げた。その目は空の上を漂う綿雲でも、それを浮かべる青でもない、どこかその先にあるものを見つめているような気がした。


「お礼を言うのは、こちらの方よ」


 しばらくそうしていると、唐突に先生は口を開いた。


「あなたは、わたしのお陰で今の帝国があると言ったけれど、それは間違いよ。リズ、あなたのお陰でもあるの。だって、あなたがわたしに切欠をくれたのだもの。やり直す、切欠を」


 そう言ったきり、先生は口を閉ざしてしまった。

 ……やり直す切欠、か。

 再び、一陣の風が吹いた。先生は瞳を閉じ、心地良さそうにそれを受けた。わたしもそれに倣い、両目を静かに閉じる。


 わたしたちを照らす日の光の暖かさ、頬を撫でる微風のやわらかさ、そして、草花の擦れ合う静かな音。感じるものすべてが穏かで、わたしの心を和ませる。あぁ、平穏だ。平穏過ぎて、時間さえもがその歩みを止めてしまったかのように感じるほどだ。


「……こんな時間が、いつまで続くかな……?」


 わたしは、誰にともなく問いかける。


「……きっと、これから先、ずぅっと続いていくわ」


 すると、先生が答えを示してくれた。

 そうか、先生がそう言うのだから、きっとそうなのだろう。


 これからずっと、こんな穏かで平和な日々が続いてゆくんだ。果ての無いこの空のように、宛ての無いこの微風のように、いつまでも、どこまでも……。

 そう感じたわたしは、ふっと口許を綻ばせた。

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